Round 34
控室で、相田は妻と息子、そして御堂ジムの仲間に囲まれ、腫れた顔を気恥ずかしそうに歪めていた。
沼崎は人の輪から外れ、彼らを眺めながら、勝利をたたえる華やかな空気に微笑を浮かべた。こういう雰囲気は嫌いじゃないが、不慣れなせいか座りが悪い。もうしばらくしたら、この場を離れよう。沼崎がそんな風に考えていると、人の輪の中にいる相田の方が彼に気がついた。彼を近くに呼ぼうと手を上げかける。しかしその手が、はたと止められた。
一組の老夫婦が控室に入ってきたのだ。品が良く、おおよそボクシングの試合会場には似つかわしくない感じの二人。彼らにいち早く気がついた相田の顔に、緊張が走る。
「あ……お母さん。お父さんまで!」
相田の傍らにいた芙美が声を上げた。彼らは、相田と芙美の結婚を反対し、孫ができても尚、二人の仲を認めようとせず、幼い航から母親を取り上げた、相田の義父母だったのだ。
会社社長と言う肩書きに恥じぬ、仕立ての良いスーツに背筋の伸びた矍鑠としたその老人は、人の垣根を分け、相田の前に進みでる。
「正治君……」
苦々しい表情の男に、御堂が声を上げた。
「富樫さん! 相田は!」
「……わかってる」
富樫はかつて自分の娘婿に、と見込んだ男の必死の形相に苦笑して頷くと、立ち上がろうとした相田を制し、自ら膝を折った。
芙美も航も、固い表情でその様子を見守る。
富樫はしばらくの間、躊躇いと言うより言葉を探しあぐねているような沈黙にうなだれていたが、ふと顔を上げると、ため息のような声を零した。
「今まで、すまなかった。今日の試合、見事だったよ。これまで、君を見くびっていた私を、許してくれないか?」
「許すだなんて……お義父さん」
相田がくしゃっと、腫れた顔であの人の良さを滲ませた笑顔を向ける。そして、力ない義父の手をしっかりとり、航の背をそっと押した。
「これが、航です。自分と芙美の子どもです。よろしく……お願いします」
航がこわばった顔で、初めて会う祖父の顔を見つめる。富樫はゆっくり顔を上げると航を見つめ返した。老人の顔がゆっくりほどけて行く。
「航君。君のお父さんは、強い人だな」
航はその言葉に、目を輝かせた。そして、しっかり頷くと、はっきり、大きな声で
「はい。僕の父さんは、世界一の父さんです」
なんの躊躇いもなく言ってのけたのだった。
わっと周囲が沸いた。
勝利以上の歓声の中、相田の家族が一つになる。
もう、なんの心配もないな。沼崎は泣き笑いの相田の顔を見届けると、控室を一人、後にした。
――
会場では試合が続いていた。
沼崎は人気のない場所で体を作って時間を潰した。耳にはいつも聞いているipodからの洋楽だ。これを聞きながら体を動かしていると、少しずつ兄の魂が自分の体に宿っていくような気がする。
神経が研ぎ澄まされて行き、五感が極限まで高められていく。
真っ黒なパーカーを頭からすっぽりかぶって、ただただ、勝利のイメージを固めて行った。
「よぅ。死神。準備は良いか?」
背中に掛けられた声。
気配に振り返りipodを耳からはずすと、沼崎は目を細めた。
「愚問です」
漆黒の死神は、この日までスパーリング相手を勤めてくれた世界王者に不敵な笑みを向けると、掲げられた王者の拳に勝利を約束するように、自らの拳を合わせた。
――
会場を埋め尽くす熱気。暗闇から見けられる無数の視線。照らされるスポットライトが自分の後ろに濃い影を焼き付ける。
激しい音楽に背を押され、沼崎は御堂の先導で会場に入った。
セミファイナルの試合。相田がやっていた時間帯とは違い、会場は超満員の人で埋め尽くされていた。沼崎を戦場へ導く曲。それは繰り返し兄と聞き、練習中もずっとずっと、身に染みつくほどに繰り返し聞いた歌。
『It's my life』
沼崎航の弟じゃない。
ボクシングに恨みを抱く復讐鬼でもない。
沼崎透也。
大鎌でボクサーたちを刈り取る死神の、登場だった。
真っ黒なパーカーを頭から被ったまま暗闇から、光の中へと身を投じる。耳をつんざくような歓声に周囲を見回す。
今なら、見えた。
リングのその上から、ここに上がるまでの道に寄り添ってくれていた人たちの顔が。
三井が興奮した真っ赤な顔でこちらを見ていた。
山中が人一倍声を張り上げていた。
伊坂が太い腕を組んでにんまりとしている。
荒尾が鋭い眼光で睨みつけている。
相田が、その隣で航が、手を振っていた。
そして……。
多恵さん。
自分が用意した席に、深く腰掛け、背筋を伸ばし、まっすぐ澄んだ瞳でこちらを見つめていた。
沼崎は彼らに何の合図もしなかった。言葉やパフォーマンスなんかより、試合が全てを語ると信じていた。
リングアナウンスが一通り終わり、パーカーを脱ぎ顔を光に晒す。中央で相手の選手、土井と顔を合わせた。睨み合いはお互いに冷静なものだった。気負いも焦りもましてや怯えなど微塵もない相手だ。
日本ランカーか。
沼崎はゾクゾクしながら、薄く笑みを浮かべる。土井をそれに顔をしかめ「すぐにその面、凍りつかせたるわ」と吐き捨て背を向けた。
マウスピースをはめる。セコンドについたのは御堂と窪だった。
「何も、アドバイスはやらん。『沼崎透也』のボクシングを、見せてくれ」
ただ、一つ、頷く。
ゴングが鳴った。
多恵は、高鳴る鼓動を抑えるように、膝の上で両手を握りしめ、リングの上で軽やかに舞う、冷たいほど美しい死神の姿を見つめた。
ずっと、大学の時から見ていたその姿。会っていなかった留学時代の彼のボクシングだって、実は知っている。いつものスタンダードな構えは、兄の航をコピーしたに過ぎない姿。本当の彼は……。
「あ……」
思わず喜びと驚きに声を上げる。
対戦相手、土井もぎょっとして一瞬目を見張った。
沼崎のガードの構えが、いつもとまるで違ったのだ。左手はいつものように上げ、腹から顎にかけて守っている。リーチの長い沼崎は、それだけで脇腹まで全てをカバーする長さを持っている。でも。もう一方の腕は……。
「L字ディフェンスや……あいつ、いつの間に……」
御堂ジムのスタッフらしき男が、隣で呟いた。




