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Round 33

 初めから激しい打ち合いになった。互いに身を投げ出すような、凄まじい殴りあいだ。リングサイドには汗とともに血も飛び散ってきた。

 1ラウンドが嘘だったような、誰の目にも、両者ともこの先の事なんかまるで考えない、全身全霊の戦いだった。


 利根の右フックが相田の左顎を打ち抜いた。

 相田の体が大きく揺れる。


「父さん!」


 航は溢れる涙を止めることはできなかった。

 目の前で父親が殴られるたび、体に電流が走るような痛みを感じる。息をするのも忘れるくらい、心臓が胸を強く打っていた。手が、震える。

 父親はそれでも倒れない。

 ぐっと持ちこたえると、そのまま右ストレートを繰り出す。利根はよけきれない。カウンターが相田の顔面を削り、すでに腫れあがっている相田の瞼の上を切った。

 どうして、どうして、こんなになってまで……。

 航は思わず目を反らしかけた。

 その手を、振るえごと包む大きな手があった。沼崎だ。沼崎は航と目線の高さを合わせると、自身もじっとリングの上の相田を見つめながら呟いた。


「逃げるな。坊主。逃げずに、お前の目に焼き付けろ」


「う、うん。でも……」


 殴られる怖さは十分知っていた。自分はいじめられる時、いつだって丸まって、ただただ耐えていた。悔しい、悲しい、やるせない、それ以上に怖かった。一秒でも早く現実から逃げられる事ばかり考えていた。

 今、父さんだって、怖いはずだ。こんなに殴られて、ふらふらのボロボロで……。倒れたらたぶん、すごく楽だ。ギブアップしてしまえば、そこで助かる。なのに……。


「相田~! 引くな~!」


「頑張ってください! 相田さん!」


「相田! まだいけるで!」


 隣りから物凄い数の声援が聞こえて、驚き顔を向けた。沼崎は苦笑し、遅いよ、と心の中で呟く。

 山中や伊坂、大神を初めとした、試合を控えた選手を含めた御堂ジムの全員が、いつの間にかリングサイドまで駆けつけていたのだ。


「見ろ。お前の、父親は、強いだろ?」


 12戦12敗。確かに、勝ちは1勝もなかったかもしれない。でも、相田正治のボクシング人生は、無駄なんかじゃなかった。諦めずに一勝を求め、リングに上がり続けるその姿は、多くの人を励まし、支えていたのだ。

 相田は、立つ。

 拳を何度体にねじ込まれても、顔がはれ上がり、鼻が折れ、腕がしびれようとも、前に、前に……。

 決して諦めない。勝利を、その手に掴むまで。


「アナタ!」


 芙美も声を上げていた。

 ラスト30秒の合図が高らかに鳴る。


「坊主」


 沼崎の声に、茫然といていた航は我に帰ると、頷き、ぐいっと涙をぬぐった。そして、まっすぐ父親の姿を、その瞳に捉えると、ふたたび声を上げた。

 リングの上では、技術もへったくれもない、打ちあいだ。若干、相田の気迫に押された利根に気力の消耗が見え初め、反比例するように、相田の有効打が増えている。

 もしかしたら、もしかすると……沸き立つような期待が御堂ジム全員の声をさらに大きくさせた。

 航はこの全ての空気を、時間を、そして父の背中を心の一番深い場所に刻み込む。そして、ぐっとまだ小さな拳を握りしめると、思いっきり叫んだ。


「父さん!」


 相田が拳を振り上げる。


「勝って!」


 息子の祈りが、父親の拳を振り切らせた。

 そして……終了のゴングが、鳴り響いた。 

 

 結果は判定にもつれ込んだ。相田は一度ダウンしているが、後半の、特に4ラウンドの動きは、客観的に見ても五分、もしくは相田についている可能性が高く思えた。

 沼崎は、神妙な面持ちで判定結果を見守る御堂ジムの連中や、胸の前で両手を組んで神に祈るような航を見ながら、自身も采配が良い方に傾く事を願った。

 ふと、リングの上の相田を見る。

 相田の顔はそれは酷いものだった。これ以上ないくらいの負傷をしている。でも、その青紫に腫れあがった顔は、ボクサーそのもので、良く見ると、笑っているのがわかった。


「……ありがとう」


 呟く声がした。相田の妻だ。

 きっと、他人には分からない苦悩がこの夫婦にはあっただろう。でも、相田の妻のその横顔は、今、相田と同じような穏やかな笑みが浮かんでいる。

 リングアナがリング中央に進み出た。

 息を飲む。

 空気がぎゅっとリングアナに凝縮される。

 3人のジャッジの判定結果が先に読みあげられる。

 一人は38対37。次は38対39。ここまででドロー。そして三人目が39対38。

 マイクが口元にあてられ、手が……胸の前で止まる。


「勝者」


 鼓動が、止まりそうな瞬間。さっと高々と掲げられた手の先は……


「赤コーナー 相田」


 歓声が会場中に轟いた。

 飛び上がって喜ぶ選手たち。感慨深い表情で涙ぐむ御堂と窪。抱き合う航と芙美。

 沼崎は、自分の胸が熱くなるのを感じていた。こんな気持ち、兄の試合以来だった。理屈抜きで、震える胸。こみ上げる感情。昂ぶる気持ちを鎮めるようにリングの上を見ると、光の中、声を上げ泣きながら天高く拳を突き上げる相田の、ボクサーとしての最後の姿が、そこにあった。

 13戦1勝12敗。相田正治のボクサー人生は、ここに幕を閉じた。

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