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Round 32

 ロープにもたれかかるように腕をかけ、ぼんやりしている。

 レフリーが入り、相田の両手を取ってカウントが入る。


「大丈夫」


 ぎゅっと目を閉じている航の肩に、沼崎は手を置くと、じっとリングの上の相田を見つめながら呟くように言った。


「目を開けろ。しっかり、見ておけ」


「でも……」


 今にも父親の負けが宣告されそうな事態に、航は不安をそのまま沼崎にぶつける。しかし、沼崎はまっすぐ相田を見たまま、はっきりと言い放った。


「相田さんは……お前の父親は、勝つ。信じて見ておけ。絶対に目をそらすんじゃない」


 「けど」と言いかけた言葉を、航は飲みこんだ。こわごわとリングの上の父親をみる。

 カウント8でなんとか救われた。やる気は失ってはいないようだ。眼光にはまだ光が宿っている。とはいえ、ダメージばかりは気力だけでどうする事も出来ない。3ラウンドはまだ始まったばかり、先ほどのようにゴングに救われる可能性はゼロだ。しかも、4回戦は1ラウンドの間に2回ダウンすれば、そこでTKO負けが確定してしまう。


 まさに、崖っぷち……。


 案の定、利根は「ボックス!」というレフリーの試合再開の合図に、飛び込むようにやってきた。畳みこむつもりだ。

 相田は焦点が定まらない視界を睨みつけると、奥歯をぐっと噛みしめた。


 自分にとって、ボクシングはなんだったんだ?

 利根の右ストレートを交わす。左ジャブを入れるが、当たらない。向こうがさらに大ぶりのアッパーを振ってくる。腕でブロックし、ストレート。当たらない。今度はジャブが来た。そのまま顔面近くに受けるが、頭を振って構わす。前に出る。また、ストレート。当たらない……。

 当たらない。当たらない。当たらない。当たらない……。


 どれだけ必死に手を伸ばしても、当たらない。

 何もかもを投げ出しても、一勝もできない。

 なんだったんだ。

 俺の、俺のボクシング……。 


 ぐぃんと大ぶりのストレートがよけられ、体ごと前のめりになってしまった。利根も驚き、思わず身を引こうとするが、間に合わない。クリンチの状態になって、試合が止まった。

 体が、ばらばらになりそうだった。痛みと言うより、思うように手足が動かせないのだ。息も上がって来ている。考えもまともにまとまらない。


 レフリーが無理やりに二人を引き離す。

 その時、相田に戦意を感じなかったのか、レフリーが相田に声をかけた。


 会場に緊張が走り、TKOの3文字が皆の頭によぎる。


 これで……終わるのか?

 相田はレフリーに両腕を取られながら、ぼんやりとした思考の中で、身を捩じ切りそうな痛みを感じていた。

 これで、俺は、一度も勝つことなく終わるのか。

 もう、一生、負けたままで終わるのか。

 そう、このまま……。


―― 貴方は独りじゃない、でしょう?


 ……え?

 相田は、頭の奥の方から聞こえた声に、目を見張った。思わずレフリーの顔を見るが、もちろんレフリーの声じゃない。一体だれの?

 そうだ、これは、たしか試合前に……。

 そのとたん、一気にそれまで何も聞こえなかった周囲の音がまるで洪水のようになって流れ込んできた。

 ざわめく会場。喜びに沸く相手セコンド。激を飛ばす伊藤や会長の声。そして……はっきりと耳にいや、心のど真ん中に響いたのは


「父さん。がんばれーっ!」


―― わた、る


 他の誰でもない、息子の声だった。

 ここ最近、ずっと、目も合わせてくれなかった息子が、リングすぐ傍で声を枯さんばかりに叫んでいたのだ。

 視界が徐々にクリアになっていく。

 苦労を人一倍掛けてしまった妻の、涙が見えた。こんな自分を親友として支えてくれる御堂の顔が見えた。そして、息子の真っ赤な顔が……見えた。

 そうだ。自分は、独りじゃない。ここに、リングに立っているのは、俺一人の気持ちじゃないんだ。


「君! 君! 大丈夫か?」


 はっとしてレフリーの顔を見る。

 カウントはまだとられていないようだ。今のが、一瞬だったのか? もう、時間の流れも何もわからない。でも、でも『今』ここにある、確かなものは……。


「大丈夫です!」


 絶対に勝つ。この気持ちだ。

 試合が再開した。

 ダメージはまだある。体力も随分消耗していた。


「このラウンドまで、耐えろ!」


 伊藤の声に、応えるように、我慢のボクシングをする。

 そうして、なんとか、3ラウンドも生き残った。


 座ると、もう、体がこれ以上動かないような気さえするほど重かった。後頭部がじんじんするし、肩で息をしてしまっている。インターバル1分の回復も、たいして当てにはできそうになかった。伊藤が相田の腹とトランクスの下につけているガードの間に手を入れ、呼吸を助けながら相田に囁く。


「これで、最後だ」


 頷く。


「勝っても、負けても。あんたのボクサー人生はあと3分で終わる」


 分かっている。


「相田、さん」


「え?」


 初めて『さん』付けで呼ばれ、そこで初めて驚き伊藤の顔を見た。伊藤は気恥ずかしそうに笑うと、もう一人のセコンドが洗っていたマウスピースを受け取った。


「勝ちにいきましょう。俺、誇りに思いたいんです。36歳、最後まで諦めないで戦ったボクサーのトレーナだったって。だから、勝ちに行きましょう」


 それが、アドバイスかい?

 相田は若いトレーナーの熱い気持ちに目を細めながら、頷いた。もう、苦笑も零せないが、不思議と清々しい気持ちだった。

 周囲から、先ほど以上の声が聞こえる。でも、今は、振り返らない。勝ってこのリングを降りるまで、絶対に、前だけを見る。

 相田は静かに息をつくと、じっと真っ白なリングを見据えた。

 この三分、俺の全てを、賭ける。

 最後のゴングが、鳴った。

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