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Round 30

 都内の体育館を貸し切ったその興行は御堂ジム主催のもので、当日行われるタイトルマッチを含めた全10試合全てに御堂ジムの練習生が出る事になっていた。

 ファイナルは、御堂ジムの唯一の日本ミドル級チャンプの関森の三度目の防衛戦で、これに勝てば次は東洋に挑戦するとみられている試合だった。

 沼崎はそのひとつ前のセミファイナル。相手はフェザー級日本ランク6位の土井。年齢は沼崎と同じで、京都出身8戦5勝1敗2分けの選手だった。KO勝ちは一つもなく、手堅く当ててくるタイプの選手だ。パンチはさほど強くないもののボディに定評があり、これまでも、コツコツとダメージを相手に蓄積させ、疲労を誘い、判定に持ち込むスタイルの試合が多かった。


 相田はまだ入場者もまばらな2試合目。デビューしたての1戦1勝の20歳の利根が相手だった。

 前日の計量をなんなくパスした二人は、当日に控室で顔を合わせると、軽く挨拶を交わした後で他の選手を避けるように部屋の隅のベンチに並んで腰かけた。


 トレーナーたちはそれぞれの選手に声をかけたり、バンテージを巻いてやったり忙しそうに動いている。その間を、ボクシング関係やスポーツ紙の記者などが行き交い、一生懸命にメモや音声録音を取っている姿がうかがえた。

 選手たちの様子もまさに十人十色で、緊張してろくに口も聞かない奴もいれば、逆に興奮状態で動き回っている奴もいる。ある種の熱気が部屋に充満し、1秒ごとに、その場にいる選手の顔つきが『ボクサー』になっていくのが見てとれた。


「誰か、応援に来てくれるのかい?」


 相田は先に巻き終わった自分の左手のバンテージの具合を確かめながら、黙々と同じようにバンテージを巻いている沼崎に声をかけた。


「応援……するかどうかは分かりませんが、職場の人間が見に来るそうです」


「応援じゃないのに、来るのかい?」


 目を丸める相田に、沼崎は肩をすくめて見せた。実際、三井くらいは応援してくれるかもしれないが、上層部の人間が「がんばれ~」なんか声にしていたら、逆に怖いような気がする。多恵に至っては、来るかどうかも怪しい。

 相田は「ふぅん」と気の抜けた返事をしたかと思うと、口元に奇妙な笑みを浮かべた。喜びを押し殺しているようでいて、緊張にひきつっている。まるで告白かプロポーズでも口にする前の男のような顔に、沼崎はぎょっとして相田を見つめた。


「……かみさんが、見に来るみたいなんだ」


「え?」


 なんだ、自分に話を振ったのは、それが言いたかったからなのか。妙におかしさがこみ上げて来て、沼崎は笑いをこらえながら「良かったですね」とだけ答えた。

 相田は少年のようにウブな表情でコクンと頷き、きゅっとバンテージを締める。


「航も、呼んだ。来てくれるかわからないけど、チケット、置いてきたんだ。俺の最後のボクサーとしての生きざま、見て欲しい」


 勝つつもりだな。

 沼崎は自分が彼ら親子にしてきたことは、毎度お節介で間が抜けていた事を恥じ入りながら、力強く頷いた。

 もう、これで、相田にも逃げ道はなくなった。

 『次』も、ない。

 トレーナーの伊藤が相田を呼んだ。ちょうどバンテージを巻き終えた相田は返事をして立ち上がる。肩越しに、沼崎を振り返った。


「最後にして最高の勝利、掴んでくる」


「見てます」


 二人は拳を突き合わすと、にやり笑って別れたのだった。


――


「本日2試合目のフライ級4回戦の試合を始めます。青コーナー……」


 アナウンサーがリング中央で高らかに声を上げる。

 胸を打つ興奮と緊張。相田はそれらを飲み込むように、口をきゅっと結び、対角線上にいる相手を見つめた。

 呼ばれた相手がリング中央で周囲に頭を下げている。まるで映画かテレビを見るように現実味を感じない光景だ。周囲の歓声はまばらで、それが余計に周囲からこのリングが浮き上がっているような錯覚を覚えさせた。

 

 自分の名前が、呼ばれる。

 はっと我に返り、リング中央に進む。

 もう、こうやってリングの上で名前を呼ばれることも、スポットの中から観客たちを見ることもなくなるのだ。

 パラパラの拍手の中、これまでのボクサー人生が走馬灯のように脳裡を駆け抜けて行った。

 今までの戦績は12戦12敗。たぶん、これほどまでに黒星だらけの戦績のボクサーも珍しいんじゃないかと思う。そうさ、普通は5、6戦しても勝てないと分かった時点で、リングを降りて行く。もしかしたら、自分だって……。


 ちらり、光の中から闇の中へと目を向ける。

 心臓が飛びはね、その影に視線が釘つけになった。


―― 芙美、航


 二人がじっと、目を反らすことなく、互いに寄り添うようにしてこちらを見つめていた。

 ふと、これまで誰にも吐露してこなかった弱さが顔を出す。

 周囲は、自分が芙美のためにボクサーを辞め、収入が比較的良く、自宅近くでできる仕事に就いたと思っている。実際、芙美には負担をかけたくなかったし、航が生まれてからは育児も彼女一人に任せるわけにはいかなかった。

 芙美も自分のせいで俺がボクシングを辞めたと思い込んでいたし、俺に復帰させるために強くない体を無理させて仕事までした。

 でも……本当は……。


 四方に頭を下げて、コーナーに帰る。待っていた伊藤がマウスピースを顔の前に差し出しながら、少々乱暴な手つきで首の付け根を揉んだ。


「良いか、相田。相手はまだ一戦しかしてないルーキーだ。なめられんな」


 それがアドバイスですか。思わず苦笑いしかけるが、こんな年寄りの負け犬ボクサーに与えるアドバイスなんて、そんなものかも知れないと思いなおす。

 伊藤自体が悪いトレーナーというわけじゃない。でも、勝っても負けても引退の試合。それよりは、今日、後に控えている他の選手に気を取られても仕方ない。


「はい」


 相田は自分より若いトレーナーに頷くと、ぐっとマウスピースを押し込んで奥歯を噛みしめた。

 勝っても負けても、これで終わりか……。


 自分のボクサー人生はなんだったのかと思う。

 ただの憧れで門をたたき、運よくプロにまではなれた。初めのころは自分だって、世界を夢見たし、また、手に届くような気もしていた。

 でも、実際は一勝がとてつもなく遠かった。むしろ、努力すればするほど、深みにはまった。何が悪い? どうして勝てない? もどかしさと苛立ちに、本当はいつだって投げ出したかった。ただ、負けたままで辞めるのが悔しくて、妙なプライドが邪魔をしていて……そこに芙美が現れたのだ。

 芙美を愛しているのは間違いない。でも、芙美を言い訳に、ボクシングから逃げたのも……事実だ。


 相田はじっとゴングを待った。

 視線の先にいるのは相手選手であって、自分自身の弱さでもあった。

 芙美が倒れた時、目を覚まされた。

 本当は負けたままで終わりたくないと叫ぶ、自分の心の声を、一番聞いてくれていたのは、誰でもない、自分が言い訳に利用してしまっていた芙美だった事に、その時ようやく気がついたのだ。


 航、芙美、見てろ。

 俺は、必ず勝って見せる。


 相田はぐっと全ての感情を腹の奥に押し込める。

 ゴングが鳴り、相田正治、36歳。人生最後の試合が始まった。

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