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Round 3

 ロッカーで着替えをしていると、自分を探す声がした。

 シャワーで濡れた頭をタオルで拭きながら顔を向ける。入り口近くにいたのは、トレーナーの窪だった。

 齢は六十に向かおうというものだったが、御堂を世界チャンプに育て上げた名トレーナーであり、現在もこのジムの唯一の世界チャンプである荒尾の専属トレーナーだ。

 見た目には温厚で、短い体躯の上にのった人の良さそうな顔つきは、どことなく兄が通っていた松浦ジムの会長を思い出させた。


「あぁ。良かった。ようやく捕まえたよ。ちょっと話を聞きたくてね」


 きっとあの・・話だ。

 沼崎は舌打ちしたい気持ちを飲み込み「なんでしょう?」と仕事では見せた事のないような、柔和で好青年な仮面を被り窪に駆け寄った。

 他の練習生たちが、ちらちらとこちらの様子を気にしている気配を首筋に感じる。

 うっとおしく思うが、いちいちかまってもいられない。ややこしい事態になる前に、なんとか話を切り上げるのが懸命に思われた。

 窪はそんな仮面の下の沼崎の算段を見抜いていると言わんばかりに、苦笑に顔をゆがめ、困ったように頭髪のまばらな自身の頭を撫で上げた。


「大神もお前には合わなかったのかなぁ? 試合も近い。特に次はランキング入りのかかった大切な試合だし、そろそろ君にもトレーナーを固定してつけたいんだけど」


「必要ないですよ」


 なるべく角が立たないように口調と声色を選んで、窪の申し出を切り捨てる。


「しかしだね」


「必要ないです。固定しなくてもセコンドにはどなたか、ついてくださるんですよね?」


「もちろんだけれど、な。沼崎。A級の試合はこれまで以上に厳しくなるんだ。そろそろ誰かとチームを組んで二人三脚でやっていかないと、一人では……」


「必要ないです」


 三度、沼崎はきっぱりと言い放つと、有無を言わせぬ笑顔を浮かべた。窪は何と言っても、基礎を自分に教えてくれた恩のある人物だ。思い返せば世界チャンプにつくようなトレーナーが基礎を手ほどきしてくれるなど、異例も異例の幸運だったのだろう。

 しかし、だからと言って、窪も含めたトレーナーの指示に従って、ちんたらお遊びのようなトレーニングをするつもりはなかった。


「しかし、相手選手の分析や、作戦なんかも考えないと長期戦になる今後は難しくなってくるだろうし」


 分析? 作戦? 長期戦? 馬鹿馬鹿しい。沼崎は辛うじて鼻で笑うのは押しとどめ、一度視線を落として息をついた。

 白石と対決するまで、目の前の敵を誰であろうとぶっ倒す。それ以外に何かあるとは思えなかった。ましてや、この自分が長期戦をやらないといけないような相手がいるとも思えない。

 分析や作戦なら、始まって三十秒もあれば、リングの上で自分で組み立てられる自信があった。

 何をとっても、やはりトレーナーの必要性は感じない。


「必要、ないです」


 顔を上げると、沼崎は強制終了を告げる言葉を笑顔で差し出した。

 窪は小さくため息をつくと「俺でもか?」と小さく零した。

 周囲が軽く驚く気配がする。面倒だなぁ、他人に注意を向ける暇があれば、自分自身の事を何とかしろよ。と思うも、素知らぬふりで目を細める。


「窪さんは、俺には恐れ多くて……」


 沼崎なりの、名トレーナーへの最大の敬意の表れだった。窪は何か言いたげに苦々しい笑いで沼崎の肩を軽くたたき「まぁ、考えといてくれ」とだけ残し、他の選手に「お疲れ!」と一つ大きな声をあげてロッカールームを出て行った。

 心なしかほっとし、沼崎は再び自分のロッカーへと向かう。


「なぁ。お前、凄いじゃん」


 声をかけてくるものが現われたのは、スーツに腕を通した時だった。振り返る。見覚えのある金髪に、思わず首を傾げた。


「何が、ですか?」


 山中……沼崎がここに入会するときにスパーリングで伸した、A級の選手だ。

 以降、山中はショックでも受けたのか二連敗中だ。今も、にやつきしこそすれ「お前のせいで俺は……」と卑屈な声が聞こえてきそうな眼差しをこちらに向けていた。


「あの荒尾さんのトレーナーが直々にお前を指名したんだぜ? 全く、羨ましいよ。やっぱ、超注目株の新人くんは、扱いも違うんだなぁ」


 わざと周囲に同意を求めるように声を上げる。ロッカールームにいた数人の練習生が、慌てて同調の意を伝えるように頷いた。

 山中がこちらを覗きこむように顔を近づける。

 不快をあらわにしても良かったが、それすらも面倒で、沼崎は無視しながら自分の荷物を鞄に詰め込んだ。


「俺なんかさぁ、ほら、スランプっていうの? 調子悪くてさぁ。今日なんかミットも持ってもらえなかったんだぜ。マジ、うぜー。まぁ、もっとも。トレーナー固定してもらえるだけでもありがたいっちゃ、ありがたいんだろうけどな?」


 それは独り言か? それとも固定したトレーナーをつけてもらえない奴らへの自慢なのか?

 沼崎は無駄口としか思えない山中の話に小さくため息をつきながら、鞄のジッパーを引く。

 御堂ジムでは毎日顔を出すトレーナーは窪とチーフトレーナーの大神の二人だけ。あとは週三日や二日、かわるがわる数人のトレーナーがやってきて、常に4人以上のトレーナーが待機するような形になっている。


 とはいえ、固定のトレーナーが約束されるのはプロになってからで、プロにもなれない練習生は日によって違うトレーナーが見ることになる。当然、教え方にもトレーナーで個人差はあるし、時間や労力を大きく割くミット打ちともなると、プロテストや試合が決まりでもしなければなかなかさせてもらえないのが現状だ。

 御堂会長も指導しない事もないが、経営や運営の仕事がある以上、定期的にジムに顔を出すというのは難しいのが実際の所らしかった。


 また、たとえプロになっても、選手の方からトレーナーを指名する事なんかはできない。

 基本は御堂会長や大神や窪を初めとする指導者陣で、組み合わせを決定するらしい。

 他のジムは小さな松浦ジムしか知らない沼崎には、この巨大なジムのシステムが果たして妥当なものかどうかは判断できなかったが、大きな文句が出ていない以上はこんなものだろうなと思っていた。また、自分はこんなシステムとは無縁という事も。


「なぁ、沼っち。試合までまだ二十日あるんだろ? これから皆で軽く飲みにいかね? なに、一晩食ったくらい、どうってことねぇよ。なぁ?」


 また、不特定多数の人間に呼び掛ける。あいまいな空気が揺れて、数人が同調したのを感じた。

 馬鹿か……。

 いらついた。

 こんなところで時間を潰すより、さっさと家に帰って自主トレを済ませる方がずっとましだ。

 何より、今は機嫌が悪い。三井に見透かされているようで気に食わないが、あの後輩の言う事は間違っていなかった。白石の防衛戦を見て以来、どうにも冷静でいられない自分がいる。

 こんな阿呆、無視してさっさと帰ろう。

 そう決めて、鞄を肩に掛けた時だった。


「ってかさ。お前の兄貴、あの沼崎航なんだろ? 話、聞かせてくれよ」


 無神経に出された兄の名前が、沼崎の手を止めた。

 一瞬でカッと頭に血が上る。奥歯を噛みしめ、なんとか平静をとうとするが、なかなかおさまらない。まるで大切な場所に土足で踏み込まれたような不快感だ。

 拳を軽く握り、必死で自分を落ち着かせる。

 今、問題を起こすわけには行かない。これ以上、白石との対決をつまらない理由で先延ばしするなんてできるはずがない。

 一呼吸置き、沼崎は何か一言返して黙らせようと振り返った。そこに、カウンターのように再び山中の声が飛び込んでくる。


「ってか、お前がフェザーなのって、兄貴殺した白石をぶっ殺すためなんじゃねぇの? 雑誌にもさ、大してでかくねー記事だけど、載ってたぜ? 『天才ボクサーの弟、新王者と因縁の対決は叶うのか?』とかなんとかな」


 山中の顔がなぜか得意げに揺れている。

 阿呆を体現したかのような奴の身なりや言葉使いにさえ、いちいち嫌味が含まれてるような気すらし、怒りに気が遠くなりかける。


「あれ、マジ? だったら、すげーな。マンガみてー。でもさ、残念じゃね? だって白石ってもういい年したおっさんだろ? しかもさぁ、こないだの防衛戦。みんなも見たか? あれ、傑さ……」


 今、すぐに、こいつを喋られなくしてやる。

 鞄から手を離す。拳を握りしめる。鞄の底が床についた時が、拳に充填された怒りの引き金が引かれる瞬間だ……そう、後方の他の練習生に笑いかける山中に照準を合わせ、体を捻った。

 時だった。


「あのぅ。飲み会はよした方が……」


 すぐそばで、声がした。

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