Round 29
試合二日前。今日が実質、試合前のトレーニングの最終日だった。試合前日にあたる翌日には、計量が行われ、軽い調整の他は体調を整えるのに費やすからだ。
沼崎は普段のメニューを一つ一つこなしながら、自分の調子を丁寧に確認していた。飛行機やF1カーなどに、どんな小さなネジの緩みも許されないように、どんな些細なことだろうと、試合に臨む自分の体に変調や不調があるのは許せなかった。
この二週間、苛めぬいた体は、もう、削ぎ落せるものはすべて削ぎ落したような状態になっていた。身長にみあう階級にいないから、無駄な脂肪が一切つけられないのは仕方のないことだが、沼崎の場合は筋肉でさえ、無駄につけないように気を配らなければならなかった。
しばしば、その体の薄さを御堂や窪たちは心配したが、こればかりはどうしようもない。
どうしようもないと言えば、顔の形もそうだ。
自分の顔は一見しただけで顎が弱いのが分かる。それは白石の私闘で折ったから、というわけではなく (というか、折ったあとは見てもよくわからない)形そのものが細いからだ。きっと。本当は荒尾のように顎がどっしりと構えていて、鼻も胡坐をかいている方が、ボクサーとしては向いているのだろう。実際、色も白い方の自分は、打たれれば赤くなるし、鼻筋が通っている分、鼻血が出やすい。そうなればダメージはなくとも、審判の心象は良くはないはずだ。
とにかく、打たせないこと。
自分に弱点があるとすれば、そこだと思っていた。
一度大神には、フェザーである程度納得したら、階級を上げてはどうかとも提案された。むろん、沼崎自身もその件を思わないでもなかったが、とりあえず、白石を倒すという目的を達するまでは、何も考えられなかった。
朝から通常のジム生の二倍以上のメニューを黙々とこなしていく。真っ黒なパーカーを頭からすっぽりかぶった姿は、死神の名にふさわしく、また鬼気迫る肌を裂くような空気に、誰も声をかけられない。
耳に差し込んだipodからは、エンドレスで昔、兄と聞いた洋楽が鳴り響いていた。
音楽のテンポに合わせるように、サンドバックを殴るペースを上げて行く。
空を切る拳の早さに、周囲は唖然としていた。
研ぎ澄まされた拳は、今や鋭い槍そのものとなっていた。下手したら手元が見えない。なのに射程距離は長く、サンドバックが悲鳴を上げるような音がその威力の凄まじさを如実に語っていた。
思わず隣のサンドバックを使っていたジム生が、恐怖を感じ、離れて行く。
きっと、死神の武器が鎌だけだと思っている人間は、その鎌を首にひっかけられるその前に、その命を刈られることだろう。そんな事を思わせる沼崎の動きに、いつしかジム中が注目していた。
ドスン
腹に響く重鈍な音と、インターバルのゴングが重なった。
集中を解き、体の力を抜いてその場でステップを踏む。
体が軽かった。これまでで一番調子が良いと断言しても良い。二週間、仕事を免除され打ち込めたのもあるが、伊坂の食事管理や、あれ以降もスパーリングの相手になってくれた荒尾や、ミットを交代で持ってくれたトレーナーたちの尽力の賜物と言えるかもしれない。
ふと、明日の計量の後に出場者たちと一緒に食事に来いと、昼に伊坂に言われていた事を思い出す。
そんな用事なら、自分で会長に言ってくれればいいのに、と思いながらもその後すぐに対戦相手の話になってしまい、断る機を逃してしまったままになっていた。
まぁ、どうせ今日は最終調整で一日ジムに入り浸るつもりだったし……とは思うが、明日の出場者と言えば相田以外知り合いがいない。声をかけるにも顔も名前もろくに覚えていないから、かけようがない。
トレーナーか会長にでも言っておくか。
そう思い至り、次の三分が始まると同時に、ジム内を見回した。
「あ、や、沼崎君。今日はまだいたんだ」
「相田さん」
入り口近くに、相田がいた。来た所らしく、軽く手を上げると人懐こそうないつもの笑顔でやってきた。
「なかなか会う機会なかったね。明後日は、お互い頑張ろう」
「それなんですが。航君から、なにか聞いてませんか?」
「あぁ、航か……」
相田は弱々しく笑うと、下駄箱傍のベンチに腰掛け、リングシューズに履き直し始めた。手慣れた様子で、器用に紐を編み上げるようにして足を固定していく。
「最近、全然口を聞いてくれなくてね……」
「すみません」
やっぱり、この間の事は余計なことだった。後悔とともに、今回の試合の事も話しておかねばと気が焦った。
沼崎が航を誘ったのは、なにも相田が勝つと確信があったからではない。ただ、父親の最後の試合を、その息子が見届けないのは違うような気がしたのだ。
相田にどんな事情があり、どんな思いを抱えているのか……御堂や窪に聞いただけだから、沼崎が深く知る由もない。が、それでも、相田が毎日必死に練習しているという話を聞くと、誰かに、少なくとも息子にはその想いが伝わるべきなんじゃないかと思うのだ。
「いや、こないだのスパーリングのことだろう? 謝るのはこっちさ。沼崎君は、俺と息子の橋渡しをしようとしてくれたんだよね? それを、俺が活かせなかった。それだけだ。でもな、沼崎君……」
相田は拳をぐっと握り締めた。
何かを守り、何かを掴もうと必死にもがく、不器用で節くれだった手だ。
「俺は、勝つよ。引退試合だからじゃない。いつだって、俺は勝つ気でいるんだ。ただ……」
「ただ?」
「いつも肝心な所で、気持ちが空回りしたり、どうにも集中できなくなったり……要はハートがね」
そういう選手がいるのは知っていた。大学時代の加来賀という先輩もそうだ。ある一定のレベルはあるのに、少し風向きが悪くなっただけで、試合中にかかわらず嘘のように気力が萎えてしまうのだ。それは気が弱いとか、諦めがちというより、癖や性格的傾向に近いものだと沼崎は認識していた。
特に、相田のような勝ったことのない選手は、無意識にに自分の中で負けパターンをイメージしてしまうのだろう。まずは自分の中に勝利のイメージを植え付ける事。それはどんなスポーツでも必要な事で、自信と言うより確信としてそれを胸に挑まなければ、誰でも陥る可能性のある事態だった。
沼崎は拳をとんと相田の胸に押し付けると、じっと目をそらさずに彼を見た。
あんたは、そんなに弱い男じゃないはずだろ? と心で問いかけ、言葉では違う形にして投げかける。
「貴方は独りじゃない、でしょう?」
きょとんとする相田は、沼崎が少なからず事情を知っているのだと察し、くしゃっと顔を崩した。いたずらを見つけられた少年のようなその表情の中に、負けを知る敗者の自嘲が薄く混じる。
「たまにね……考えるんだ。アレは、航の母親は、俺なんか選んだのは間違いだったんじゃないかって。もし、あの時、御堂会長を選んでいれば……」
ふわっと風が相田の鼻先をかすめた。ぎょっとして身を引く。残像すらも残さぬ一陣の風はぞっとするほど鋭さを感じさせた。
相田は息を飲み、その風を起こした物を凝視する。沼崎の拳。死神の鎌の切っ先が、彼の前髪の先端を掠めたのだ。
言葉を失う相田に、沼崎は怒りより哀しみを覚え、睨みつけた。
もう一度、問いかける。しかし、今度は声にして。
「貴方はそんなに弱い男じゃないはずだ」
「ぬ、沼崎君……」
航の顔を思い出す。父親を馬鹿にされて悔しいのは、まだ、父を慕っているからだ。悪態をついてもここに父の姿を見に来たのは、父の勝利を信じたいからだ。きっと、それは身を削ってまでリングに立たせたいと願った彼の妻も同じなはず……。
相田にしたって、復帰し残り時間と戦いながら続けて行くのは、簡単な事ではなかっただろう。
でも彼は実際に、恋人を奪う形になってしまった御堂に頭を下げ、資格職を辞め、生活まで変えた。息子に想いを伝えられず、人に馬鹿にされ、苦渋をなめながらも諦めはしなかった。
全ては、たった一度の勝利のため。
それらの想いを、自分のように手遅れになる前に、相田にはちゃんと掴んでいてほしかった。
相田は不思議と悲しそうな目をする沼崎をじっと見つめてから、しばらく黙りこんだ。しかし、ふと、生気を宿したような顔つきになったかと思うと、何か整理がついたのか、胸のわだかまりを吐き出すように、一つため息をついた。
何度か自分の中で確認するように頷き、今度はしっかりと沼崎の目を見つめ返す。
「試合前に、変なこと話しちゃったね。そうだ、俺は勝つ。勝たなきゃいけないんだよな」
そう、勝てたらいいな……じゃ勝つことなんかできるはずないんだ。勝つ、と心に誓ったものしか、その栄光は絶対に得られない。
相田は力強く笑って見せた。そして、お返しとばかりに、沼崎に向けてストレートを放つ。
「俺を選んでくれた妻や、俺を受け入れてくれた会長やトレーナー、そして航のためにも」
「必ず、勝ちましょう」
「あぁ」
沼崎と相田はそれ以上言葉を交わさず、ただ拳と拳だけを合わせると、互いの場所に戻っていったのだった。
帰宅後、沼崎は伊坂の伝言を伝え忘れたのに気がつき、慌ててジムに電話をかけた。が、時すでに遅かった。出場者の数人は帰ってしまった後で、結局、沼崎は御堂から罰として、皆に伊坂の食事をおごらされる羽目になったのだった。
そして、いよいよ、試合当日を迎える事になる。




