Round 28
翌日からは、ジムが混む午後は避け、午前中から昼過ぎにかけてジムに通い、午後は自宅やその周辺で自主トレをすることにした。
人目を避けたというより、集中したかったからだ。ジムでのいざこざは、特に回収すべき必要を感じなかったし、会長や窪トレーナーに一定の恩のようなものは感じても、自分のペースを崩したくないというスタイルは曲げられなかった。少なくとも、あと二週間足らずの試合までの間は好きにさせてもらいたかった。
一度大神に声をかけられ、その事を説明すると「お前らしいわ」と呆れられ、今後のことは試合後に必ず話し合うという約束をさせられた以外は、今度の相手選手のビデオを渡されただけに終わった。
自然、避けているわけではないが、荒尾や山中を初め、相田にも顔を合わさなくなった。三日後に再び整骨院を訪ねた時は航の姿も見つけられず、気にはなっていたが、メルアドすら知らない事にその時になって思い至り、どうする事も出来ないでいた。
そのくせ、メルアドももちろん携帯番号も教えていないはずの伊坂から、連絡が来るようになった。どうやら御堂か窪から自分の減量を見るように言われたらしい。
ほぼ毎日、ジム帰りの午後に伊坂の所に足を向けては、昼食をその場でとり、帰りには夕食になる食事を渡された。初めは煩わしさもあったが、伊坂の減量へのアドバイスは的確だった。
体重は無理なく落ち始め、彼の提案するトレーニングや生活習慣の少しの改善で、体調も驚くほど良くなった。
こんなに知識があるのなら、なぜ自分自身に実践しないのか、一度口にしかけたが「俺は他人に厳しく、自分には優しいんだ」と先回りして釘を刺されたので「甘いの間違いでしょう」としか言えなかった。
三井からは、相変わらず無駄話のような電話が時々かかってきたが、今になれば、その無駄話の中に、自分の様子を気遣い、休んでいる間の職場の様子をさりげなく報告する後輩の配慮がうかがえた。
気がつけば、試合まで五日を切っていた。
沼崎は夕方に向かう日差しの中、四度目になる整骨院を後にしながら大学時代を思い出していた。
あの頃、アマチュアで30勝を上げればプロテストを受けさせてもらえるという条件で、兄の通っていた松浦ジムに所属しながら、大学のボクシング部に籍を置いていた。
当時は気がつくことはできなかったが……あの時だって、本当は自分は独りじゃなかったのかもしれない。いや、独りじゃなくなるのが怖かった。
兄が、自分を残して先に逝ってしまって、どこか暗く寂しい場所にいるような気がしていた。だから、自分だけは、兄の事をずっと抱えて行かないといけないと思っていた。笑う事も、楽しむ事も、新しい信頼関係を築く事すらもしてはいけないと思っていた。
でも……。
「沼崎……さん」
呼ばれて驚き、車のキーを取り出そうとしていた手を止め、顔を上げる。
「坊主」
航が、そこに立っていた。
また、やられたのか、今日も酷い格好だ。そこら中擦り傷だらけで、手元を見ると、ぼこぼこにされたランドセルの残骸がぶら下がっている。一度泣いたのか、自分を見かけたから涙を無理やりに止めているのか、航の目は真っ赤で、怯えと覚悟両方の色を宿していた。
「久しぶりだな」
かがんで目線を合わせる。航は少し表情を和らげ沼崎を見上げた。
「僕、ずっと沼崎さんに話したい事があったんだ」
「話? あぁ、この間のスパーリングの事か?」
さすがに苦々しさを感じ、顔を歪める。しかし、航は頬をやや上気させ、目を輝かせ小さな拳を握りしめた。
「うん。僕、すっごく感動したんだ。沼崎さん、強いんだね!」
「最後まで見てなかったのか?」
沼崎は苦笑する。
「俺、荒尾に一発で倒されたんだぞ?」
「え? そうなの? 僕、一ラウンドしか見てなかったから。あの時、父さんが僕に気がついてさ……最悪だよ」
「相田さんが?」
航は不服そうな顔をして頷くと、自分の足元にある小石を蹴った。それでまるで父親の事はどこかに追いやったとでもいうように、表情をまた明るくすると、御堂の試合を見た兄の航のような、熱に浮かされた顔を再び沼崎に向けた。
「沼崎さんが倒されたっていったって、相手は世界の荒尾でしょ? それに、一ラウンドは本当にすごかった。僕、ボクシングであんな気持になったの、初めてなんだ」
「あれは……」
「本当にすごかったよ! アニメとかマンガなんかより、ずっとずっとドキドキした。沼崎さんが僕の父さんだったら良かったのに。僕ね、あれから考えたんだ。甘えるなって言われて、沼崎さんのスパーリング見て。僕も強くなりたいと思った。ねぇ、沼崎さん。僕もなれるかな? 沼崎さんみたいに強く、なれるかな? 僕にもボクシ……」
「坊主」
沼崎は、まだ興奮の吐露を続けようとする少年の声を遮ると、ぐりっとその頭を撫でて目をじっと見つめた。航はきょとんとして沼崎を見つめかえす。
―― 僕が強くなって、自分で何とかするから
遠い過去から自分の声がした。自分のいじめを知って、仕返しに行こうとした兄を止めるために思わず口にした言葉だ。思えば、全てはあそこから繋がっているのかもしれない。
兄と同じ名前の、昔の自分に良く似た少年……か。
沼崎は不思議な感慨に小さくため息をつくと目をそらさず、少年の胸に一言でも響くように、ゆっくりと声を放った。
「お前の、父親は、強い」
「え? 嘘だ!」
航の顔はすぐに険しくなる。そして、無残な姿のランドセルを見おろし、ひきつる頬そのままに答えた。
「父さんなんて、万年かませ犬じゃないか。あの日のスパーリングだってボロボロだった。かっこ悪いよ」
少年は力なくうなだれると、まるで自分がイジメにあっていること以上に傷ついているような顔で、自分の足先を睨んだ。
しばらく、そのまま会話が途切れる。沼崎はその沈黙をあえて守ることにした。矢継ぎ早の会話は、最近三井のせいでなじみ深くなったとはいえ、もともと苦手だ。こうやって、時々沈黙を挟みながら、じっくり自分や状況と向き合いながら話す方が性にあっていた。
少年の言葉をじっと待つ。
わずかに傾きつつある二人の影が、風にかすかに揺れた時だった。ふと少年はふやけた笑みを零すと、肩を落とした。
「やっぱり、駄目なんだ。……だって、僕はあの父さんの息子なんだもの」
「どういう意味だ?」
沼崎は咎めることも、同意することもなく、ただ先を促した。航の口調に、自分を小さく見積もり逃げようとする卑屈さや、他人に問題を押し付ける卑怯さが見えないわけではなかったが、それ以上に真意を知りたかった。
航は小さく息を飲むと、不平を口にするように沼崎を見上げた。
「だって沼崎さんは強いお兄さんがいたんでしょ? 僕の名前はその人からもらったって聞いた。強い人には強い血が、流れてるんだ。僕にはあんな弱っちい父さんの血しか流れていない。だから、名前が同じでも僕は……」
「誰かにそう、言われたのか?」
かつて、いじめを受けていた自分と重ねる沼崎の視線を受けながら、航は悔しそうに頬を痙攣させる。涙をこらえようと、わななく唇をぐっと噛む。しかしこらえ切れなくなった涙は、少年の小さな瞳からあふれ出し、泥だらけの頬に一筋伝った。
「父さんが、悪いんだ……」
涙で声が滲む。まるで幼稚な責任転嫁。しかし、そんな少年の弱さを、沼崎に責めることができるはずはなかった。
自分も心の弱さを、白石のせいにしていたからだ。復讐とういう詭弁まで捻りだし、脆い自分を守ろうとしていた。兄を失った哀しみや、目標を失ったやるせなさを、白石という男に投影していたにすぎない。
それじゃ駄目なんだ。
沼崎は体を起こすと、航の傍に立ち、自分の車に背を預けた。
いつしかしゃくりあげていた航の涙が止まるまで、待つつもりだった。
空を見上げる。
東京にも、こんなに大きな空はあるのか……と思わず目を細めたくなるほど、果てない空が宇宙まで広がっており、季節を渡っていく薄い雲が幾筋か流れていた。
ふと、航の方をみると、航も同じように空を見上げていた。
兄さん。兄さんが生きてボクシングをしていた証が、ここにもいたよ。
少年のまっすぐな瞳を一瞥し、思わずそう心の中で呟くと、再び視界を空で埋める。
「坊主。あのな……俺と、俺の兄は全く血は繋がってないんだ」
「え?」
それは昨日の野球の結果を話すような口ぶりだった。少年が驚き凝視する視線を頬に受け止めながら、沼崎は続けた。
「それでも、兄は、俺のかけがえのない家族だ」
「だから……沼崎さんはボクシングをしてるの?」
「まぁ、理由の一つではあるかな。坊主。家族ってさ、血の繋がりだけじゃないと俺は、思いたいんだ」
沼崎はそういうと、少年と視線を合わせ、にっこり微笑んで見せた。
自分でも、意外なほど、その笑顔は自然に自分の頬を緩ませていた。苦みを伴うわけでも、ましてや偽りの仮面でもない。長い長い間、もうその方法すら忘れていた種類の笑顔が、浮かんだのだ。
「お前の父親は、弱くない」
「でも!」
「試合を見に来い。おおかた、父親とは口も聞いてないんだろう?」
「それは……」
唇を尖らせる航の頭を、ぐりっと撫でた。それからその鼻先に自分の小指を立てて見せる。
「いいから、試合を見に来い。お前が、もし、最初から最後まで、父親の試合を目をそらさずにみたなら、俺がお前にボクシングを教えてやる」
「本当?」
とたんに、少年の顔がぱっと花開いたように輝いた。沼崎はげんきんな航の反応に苦笑しながら頷くと、航が絡めた小指をしっかり結んだのだった。




