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Round 27

 まだ伊坂と二人で飲むという荒尾を残し、沼崎は店を後にした。

 ビルを出ると、終電間近の駅前に人影はまばらにしか見えず、残暑の熱も夜気にさらわれ、肌寒ささえ感じた。

 いたずらにかき乱される前髪に指を入れ、ジムの駐車場に足を向けた。ポケットに入れたままの携帯が鳴った。無意識に、多恵の名前が浮かび手に取る。


「……」


 三井か、と声に出しかけて、何を期待していたんだ? と自分に苦笑した。

 着信音を、親指で切る。


「もしもし? 先輩ですか?」


「自分で俺の携帯にかけたんだろ?」


「あぁ、やっぱり先輩だぁ」


 のんきな三井の声を聞くのは随分久しぶりに感じた。実際は一日も空いていない。


「もう、早く戻ってきてくださいよ~。こっちは池なんとかっていう妙な所轄の巡査に絡まれて大変なんっすから」


「なんだ。お前、俺にラッキーだとかなんとか言ってたじゃないか」


「前言撤回です! 先輩、新人って有休って使えないんですかねぇ」


「そんなの、事務に問い合わせろ。そんな事で、電話してきたのか?」


 打てば響く会話が三井らしかった。とはいえ、長電話は趣味じゃない。用事がないのなら切るぞ、と歩きながら親指をボタンに掛けた時だった。


「ちがっ、違います! 切らないでください! お願いと聞きたい事があってかけたんです」


「……なんだ?」

 

 電話の向こうで賑やかな声が聞こえた。外にいるのか? と推測をめぐらせながらも、足は止めない。


「いや、試合のチケット、五枚確保してほしいんです」


「五枚?」


 三井が来ると言う戯言もあえて無視してきたのに、他に四人も人を呼ぶというのか? 鼻白んでいると、三井は静かな場所に移動したのか、先ほどよりいくぶんクリアな声で答えた。


「上の数人が見に来たいそうです。あ、僕の父も含めて。なんでも、人事と企画の方が、先輩の事で動くらしくて」


「上が?」


 良い予感はしなかった。もし、退職を迫られるのならその覚悟はあるが、一応、公務員としてファイトマネーは受け取っていない。一体どういう理由で解雇されるのかに、むしろ興味があった。しかし、そんな疑問を三井の次の言葉が吹き飛ばした。


「それはそうと、先輩、もしかして能美多恵っていう女性をご存知ですか?」


「え?」


 三井から聞くとは思わなかったその名前に、心臓がギクリと跳ねる。しまったと思った時は遅い。三井は沼崎の声色に何かを感じ入ったらしく「やっぱり」と含み笑いで答えた。


「いや、声に聞きおぼえがあって、もしかして、先日の美人ライダーかなと思いまして」


「彼女が、何だ?」


 思わず、足を止めていた。三井は若干声を潜め「知りたいですか?」ともったいぶる。黙っていると、こちらの不機嫌を察したのか「冗談ですよぅ」と笑い、続けた。


「先輩も、すごいパイプ、持ってたんですね」


「は?」


「彼女、島新太郎の愛人じゃないですか」


 愛人? 耳を疑い、思わず電話を握りしめる。

 潮の香り、別れの言葉。幸せになると言っていたのは、そう言う事なのか? どこかしっくりこない現実に、口を衝いて出たのは全く違う疑問だった。


「島って、何者だ?」


 聞いた事のない名前だった。政治家にも、ヤクザにも、実業家にも、そんな名前は聞いたことはない。むろん、警察内の上司に至っても、だ。

 すると、三井はさらに声を潜め「肩書き無き皇帝ですよ」と答えた。意味がわからずに黙っていると、さらに三井は声を低くする。


「日本のまさに統領ドンですよ。本当のね、実力者っていうのは、肩書がないんです。ほら、肩書があれば、強み以上の弱みがあるわけでしょ。保身しなけりゃならないし、守るものも多い。でも、島さんは違う。あらゆる世界に通じる力を持っているのに、表に出る事は決してない。裏の歴史を牛耳る、そんな人なんです」


 「まぁ、僕も会ったのは今日が初めてなんですけどね」と付け足す三井に、なぜ、お前がそんな人物に? と思いもしたが、訊く前に自分の中で答えが出た。三井の父親は警察庁の幹部だ。父親の繋がりで会ったとしてもおかしくはないのだろう。つまり、今、三井がいるのは


「じゃ、今はお偉いさんと会食か何かか?」


「その通りです。で、島の隣で能美多恵を見かけたんですよ。島の今、一番のお気に入りらしいです。先輩、島さん繋がりのパイプ持ってるなんてすごいっすね」


「そんな……」


 と言いかけ、ふと、目を見張った。もしかして、という仮説が、これまでのあらゆる不可解な事象たちが証拠となって、瞬く間に真実に変わっていく。

 もしかして、白石との私闘で大きな処分がなかったのも、今回の謹慎も、全部……。


「で、島さんがこう言ったんです。今回の警察の失態のイメージを挽回し、警察が強くて頼りになるというメッセージと人気を獲得するために、先輩を公に警察庁でバックアップしてはどうかって」


「え?」


 その一言が、最後の決め手だった。

 多恵が、その島という人間に囁いたに違いない。自分が、今後もボクシングを続けていけるように……そう……。

 

「あれですよ。テロ未遂。先輩、ニュース見てないんスか? あれ、報道されてしまいましてね。すぐに火消しが回ったんですけど、イメージと信用がガタ落ちで、上層部も頭痛めてるんですよ。で、先輩、あの事件の一応功労者でもあるじゃないですか。ちょうど良いっていうんで……」


 沼崎の声の先を勘違いしたらしく三井はそう説明すると、一呼吸置いた。

 沼崎は動揺を抑えられぬまま「それで?」とつとめて平静を保ち、三井の声にすがる。多恵は、本当に……。信じられない気持だった。


「とりあえず、次の試合を上層部で見て、日本ランキングに入ったら、検討しようって感じでまとまりそうなんです。それで、先輩にチケットを……」


 馬鹿だ。本当に……。

 沼崎は三井に悟られないようにため息を零すと、すぐ傍の電柱に背を預けた。頭を抱え、神経質に前髪をかき上げる。

 今まで、自分は白石に復讐する事しか考えていなかった。

 兄の無念を晴らす、それだけが自分の生きている価値だと思いこもうとしていた。でも……。

 受話器を握りしめる。目を閉じる。もうどこにも、潮の香りはしない。

 ワインは、オープナーがなければ飲めないんだ。飲まずとも生きてはいける。でも、飲まなければ、ワインの美味さは一生知ることはできない。


「三井、そのチケットの枚数に、能美多恵は入っているのか?」


「え? 入ってないっすけど」


「六枚、用意する。彼女に会ったら言っておいてくれ」


 顔を上げ、目を開けた。都会の夜空に星はない。でも、見えずとも星はいつもそこにあり、地上を照らしているはずなんだ。


「次の試合、必ず見に来てくれって」


 もう、遠いその星には、きっと手も声も届かない。けど、ずっと自分を見てくれていたあの人なら、そんなものなくても、伝わるものがあると信じたかった。

 三井が了承し、二三言軽口を叩いてから電話を切った。

 一人、取り残された夜。隣を秋風だけが通り抜けて行った。

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