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Round 26

「確かに、初めは本当に兄の仇を取ろうとしていたのかもしれんな。お前がフェザーに、白石譲にこだわるのを見てもわかる。でもな、それなら、なにもボクシングじゃなくて良かったんじゃないのか? 個人的に私闘でもなんでもすればいい。白石が復帰したから、お前の復帰もした? そんなの言い訳だ。やはり、兄の仇はボクシングのリングですべきと思った? それも嘘だ。いいか、沼崎透也、お前の……」


「黙れ」


 怖かった。事実を、真実を突き付けられるのが、怖かった。

 沼崎は耳を両手で塞ぎ、机に突っ伏す。しかし、荒尾は無情なまでに事実から逃げる道をことごとく断ち続けた。


「お前の復讐なんてとっくに終わってんだよ。お前は、仇を討ったところで、兄貴の死がどうにもならない事を知っている。そうだろ?」


 ぎゅっと目を瞑る。闇の中で、兄の顔を探す。

 兄さん、兄さん、兄さん、兄さん、兄……半狂乱で心の中で呼ぶ。忘れるわけない。忘れていいはずない。兄の面影。

 しかし、今に限って、どれだけ探しても沼崎航の影は一欠片も見つからなかった。

 足元に、ぽっかりと穴があいたような不安感に、身がすくむ。

 

 ……そうだ……。


 沼崎はそっと体を起こし、こわごわ自分の掌を広げ見つめた。

 分かって、いたんだ。

 干上がった喉に無理やり唾を押し込み、細かく震える指先を握りしめる。

 随分前に、自分が兄を超えてしまっている事も、本当は、こんな事をしてももう、兄の死という現実は何も変わらない事も。

 分かってた。でも、それを認めてしまったら、一体……。


「お前がプロになったのは、なぜだ? どうして白石がボクシングに復帰した事を歓迎している? 普通は逆だろう? 兄を殺しておいてのうのうと続けられる方が苦痛だろう? お前のは復讐じゃない。自分が尊敬していた兄を倒したほどの男、白石譲を自分が倒したい。本当はそれだけじゃねぇのか?」


 頭の中に荒尾の言葉が、釣鐘の残響のようにぐわんぐわん鳴り響いていた。

 じっと拳を見る。震える手に流れる血。それは今でも狂おしいくらい、戦い続ける事を望んでいる。

 そうだ。白石の復帰戦。あの頃から分かりかけていたんだ。本当は……自分の中にある復讐っていうのは、ボクシングを、兄の命を奪ったボクシングを好きになりかけていた自分を誤魔化すための詭弁にすぎなかった事を。


 ぎゅっと目を瞑る。

 暗闇に、遠い時の中で感じたやるせない孤独を見る。

 あの時、あの冷たい闇から救ってくれたのは他でもない兄さんだった。なのに自分は、その兄さんを、闇に追いやろうとしているのか? 

 首を振った。

 できるわけない。復讐でいい。醜くていい。それを心に刻み込んで、兄さんの死を忘れないようにしなければ。もし、世間にも忘れられ、白石にも忘れられ、ボクシングにも忘れられ、俺にまで忘れられたら……兄さんが、兄さんが命をかけてリングに立っていた、その意味は? 兄さんが生きた意味はどうなるって言うんだ? 俺が、ここにいられるのは、みんなみんな、兄さんのおかげだと言うのに!


「沼崎君」


 コトリ。額の先にグラスが置かれた気配がした。

 見ると、氷の浮かんだ冷たいグラス。そのまま目を上げると、伊坂の気遣うような顔があった。


「もう、十分なんじゃないかな? そろそろ、自分を許して、認めてあげようよ」


「……え」


 それは、真っ暗な心の闇にすっと迷いなく差し込まれた一筋の光のような言葉だった。

 今日、会ったばかりの元ボクサーからかけられたその言葉に、沼崎は戸惑い、言葉をなくす。

 伊坂はそんな若い現役選手の頑なさを、静かにほぐすように一言一言つなげた。


「君は期待されていた柔道を捨ててまで、これまできっと本当に一生懸命やってきたんだろ? 君の無茶な階級での減量メニュー一つ聞いてもわかるよ。さっき、会長も言ってた通り、この世界は一勝を上げるのだって難しい世界だ。そんな世界で君は、たぶん、世間にお兄さんを忘れさせないために、いや、自分がお兄さんを忘れてしまわないために……これまで、自分に鞭打って戦ってきたんじゃないのか?」


「それ……は」


 言葉が出ない。声がかすれ、喉に痛みを感じる。

 不安げに視線を彷徨わせ、細かく震える唇を噛む。一睨みで極道をも震え上がらせる警部の姿は、もうそこにはなかった。

 元プロボクサー、そして現役の世界チャンプに見守られるのは、大切な兄を失った哀しみの海に溺れ、もがく、一人のか弱い少年のままの沼崎透也だった。

 ずっとずっと、独りきり、果てなき海を盲目的に、復讐という頼りない朽木にすがって泳いできた少年は、今、その朽木こそが幻だと気づかされ、底のない冷たい虚無の深海にその身を引きこまれそうになっていた。

 

 何のために今まで?

 何のためにこれから?


 答えの見えない闇に、ずぶずぶと沈んでいく。

 しかし、その手を、掴む者がいた。


「でも、それは復讐じゃなくていいはずだ」


 朽木が幻だと教えた荒尾だった。


「けど!」


 白石を倒さないと。兄の代わりに、兄の……。

 兄への想いが、哀しみが、再び闇に引きこもうとする、しかし、伊坂と荒尾はもう、彼の手を離す事はなかった。


「簡単な事だよ」


 伊坂が笑った。その言葉をいぶかしむ沼崎の肩に、世界を獲った大きな手が添えられる。


「ボクサーは多かれ少なかれ、命をかける覚悟でリングに上がる。お前の兄貴は最後まで本物のボクサーだったんだ。そんな兄貴がいたから、お前はボクシングに出会い、魅かれた。誰よりも兄貴のボクシングを知るお前が、お前自身のボクシングを続けること。それがお前の兄貴が生きた証明にもなるんじゃねぇのか?」


 水面に引き上げられた少年に空気が触れた。

 まるで、生まれた時のように新鮮な風が体の中に吹き込み、光が射し、新しい命の鼓動を目覚めさせる。


 温かな雫が一筋、頬を伝った。


 沼崎ははっと我に返りぐっと手の甲でそれを拭うと、続こうとする涙を押し込むように水をグイッと一気にあおった。

 まだ、整理はつかない。つかないが……。


 顔を上げる。今までより、ずっとクリアで広い世界がそこにある。

 鼓動が今までよりずっと確かな音で、体を脈打っていた。


「なぁ、沼崎。今日、俺に倒されてどうだった?」


 また、あの質問だった。

 もはや、偽る必要も何も感じない。沼崎は小さく笑うと、あの感触を思い出すように拳を握り、それを見つめた。


「正直、実力の差に愕然としました。でも……」


「でも?」


「でも……」


 無意識に顔が綻んだ。


「ぞくぞくしました」


 そうだ。これまで、ずっとボクシングなんかつまらなかった。まるで手ごたえがなく、こんなもので兄が命を落としたとは思いたくなかった。でも、でも、今日、死を覚悟するほどの負けを経験して、感じた事。それは絶望でも失望でも落胆でもなく……。

 あの、闇中に浮かんでいたほの暗い光が輝き始める。


「もっと……そう、もっと強くなりたいと、痛切に感じました」


 こんなに強い奴がまだいたのか。ボクシングには今の自分じゃ話にならないほどの人間がいるのか。そう思った時、感じたのは絶望と無力感以上に、それを超えてやりたい、もっともっと強くなって、そいつらと対戦し勝利したい、そんな渇望だったのだ。


「来い。沼崎」


 荒尾はにやりと笑うと、期待の新人の背を軽くはたいた。


「世界に、駆け上がって来い。言っておくがな、お前は、あの場で冷静になってさえすれば、あんな事にはならなかったんだ」


 荒尾はそういうと、見せつけるように包帯だらけの両腕を掲げて見せた。


「お前のボクシングは本来はクレバーでスピードもある。一発で相手を鎮めるパンチもあるし、なにより半端ないポテンシャルとセンスを感じる。体重差もあるが、それを置いておいても、もし、あの場でお前が冷静にやれてたら、俺だって簡単にお前をKOできはしなかっただろう」


 「まぁ、負けはしなかったがな」と付け足す。実際は、バンタムとフェザー、体重でも彼の方がハンデはあるはずだ。彼の冗談めかした言い分に、けちをつける事は出来ず、沼崎は「どうですかね」とだけ答えた。

 荒尾はそんな沼崎に軽く、アッパーを打ち込むふりをしてみせる。


「気をつけろよ。お前は普段冷静なくせに、沼崎航の事となると、キレ安い」


 沼崎はそう指摘され、顔が赤くなった。確かに、これまでの事を鑑みても、否定はできない。兄の事となると、どうしても見境がなくなってしまう。でも、もし、今後本当に白石に勝つつもりなら、一番改めなければならないのはそこかもしれない。

 荒尾は閉口した沼崎の頬に軽くパンチを当てると、急に真面目な顔になった。

 一瞬にして場の空気が引き締まる。荒尾のまっすぐな目が、言葉にはならない、これまでの苦悩や屈辱、辛苦を語っていた。王者だからではない、これまでボクシングという茨の道を歩き続けてきたからこそ、できる目だった。


「沼崎。ボクシングのリングの上にはな、過去も未来も、生まれも、血も、国境も、信念、嘘も、誤魔化しも何もねぇんだ。あるのは『今』その瞬間だけだ。最後までリングの上に立ってたやつが勝者で、マットに沈んだやつが敗者。影と光より明確な答えがそこにある。だからこそ、俺は、ボクシングはどんな格闘技や、どんな舞台より、神聖で誇り高いものだと信じてるんだ」


 過去も血も……。

 果たして、白石と対峙した時、そうなるだろうか? 沼崎には想像がつかなった。ただ、そうなるかもしれないな、という予感はあった。いや、願望だろうか?

 不思議な気分に、思わずため息をつく。


「今日はよくしゃべるね、荒尾君。いつもは「あぁ」とか「えぇ」とかしか言わないのに」


 伊坂がそう言って、荒尾にお茶を差し出した。荒尾は苦笑し


「一生分話した気分です」


 と答えると、再度沼崎を振り返った。


「それでも、白石とはやりあいたいんだよな?」


 確認するような口調に、沼崎はもう、迷いなくはっきりと頷いた。

 そうだ。もう復讐じゃないかもしれない。でも、自分にはまだ夢がある。兄との約束『最強の兄弟になる』という大きな夢が。そのためには、白石との対決はやっぱり果たさなければならない。奴を避ける事はできない。白石が自分の全ての終わりであり、また始まりになるはずなのだ。

 頷く沼崎に、現役世界チャンプは不敵に笑い拳を突き出した。


「弱さを知っても立ちあがった人間は……強い。今のお前はたぶん、誰にも負けない。沼崎、必ず、世界に来い」


「はい」


 沼崎はその拳に自分の拳を重ねる。

 伊坂が上機嫌で二人の前に少しずつ、この店で二番目に良い酒を出した。一番は、沼崎が世界を獲った時にまた、三人で飲もうと約束をして……。

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