Round 25
耳を疑い凝視する沼崎の視線を、荒尾はその横っ面に受け止めると、伊坂から出されたグラスに指を置き、水面張力でなんとかもっている今にも零れそうな冷酒を見つめた。
「沼崎航は、とうの昔に死んでいると、言ったんだ」
「お前!」
沼崎は椅子を蹴倒して立ち上がると、思いっきり荒尾の襟首をつかんだ。沼崎の細い腕にみあわぬ馬鹿力に大の男の体がぐんと引き挙げられる。
沼崎は荒尾を激しい憎しみの目で睨みつけていた。しかし、とうの荒尾は微塵も動じず、ずっとすぐ傍に揺れている黒い炎を見据えている。
「なぜ俺が、一ラウンドにあんな真似をしたかわかるか?」
静かな声に、沼崎の怒声がかぶさった。
「挑発するためだろう? こうやって、兄さんを引き合いに出して、俺を不愉快にさせるつもりで」
「違うな」
荒尾は沼崎の手を取るとぐっと力を込めた。互いに引かない力比べだ。捩じ切りそうな拳の握りあいの中、荒尾はぐっと眉を寄せると、沼崎に一言一言を、ぶつけるように低い声で、しかしはっきりと言い放った。
「お前は、お前自身の力で、沼崎航を倒したんだ」
「何?」
俺が、兄さんを倒しただと?
沼崎は顔を歪めると、思いっきり荒尾を突き放すように解放した。力任せに弾き飛ばされた荒尾は、体勢を崩すも、誰も座っていない椅子に手をつき転倒を免れる。
そして、そのまま、沼崎を睨みあげると、怯まずに続けた。
「俺は、完ぺきに、お前の兄、沼崎航をあの時コピーした。そして、お前は間違いなく、その沼崎航を凌駕していた」
「黙れ!」
怒りが体中に燃え上がり、抑えることなんかできなかった。この男は、まだ、兄を愚弄しようというのか? 目的? 知るか。どんな高尚な目的があろうとも、兄を、沼崎航を侮辱する事だけは許さない。
しかしそんな思いの傍で、不安がぽっかり口を開けているのも感じていた。聞きたくない声、知りたくない事実が、不安という闇の奥のその向こうから囁き始める。
「黙れ!」
沼崎はその囁きを振り切るように、左拳を振り上げた。
こいつを黙らさなければ、今、すぐ、ここで口を封じねば、とんでもない事になる。理屈や理由のない恐怖が、拳を力の限り……
「黙れぇぇ!!」
空を切り裂く音。まっすぐに迷いなく描く軌道。しかし、それは荒尾の横っ面を貫く前に、止められた。
沼崎自身が、止めたのだ。
「黙れ……」
俯き零す言葉が揺れていた。拳が震え、前髪から僅かにうかがえる唇が、血のにじむほど強く噛まれている。
荒尾は構えた体を解くと、沼崎のその拳を大きく包みがっちり握りしめた。
「何度でも言う。沼崎航を、お前はとっくの昔に超えている」
「黙れ」
「お前自身もよくわかっているはずだ」
「黙れ」
「良く聞け、沼崎。お前は……」
「黙れ! そんなはずないだろ! 兄さんは、兄さんはなぁ!」
沼崎は動揺を抑えきれず叫ぶと、握った拳を思いっきりカウンターに打ちつけた。
意識したくない事実。認めたくない現実。
死んだ兄は時を止め、自分がいつしか彼を超えて行く。無情に流れる時は、断りもなく自分の中で重ねられていく。大切な時間を置き去りにして。
本当は、いつまでも兄の弟でいたかった。いつまでも、兄の背中を追いかける、そんな場所にいたかった。自分の前をいつだって歩いてくれる兄がいたから、振り返って手を差し出してくれる兄がいたから、自分は前に進んで来られた。
だから、だから……。
「沼崎君、信じたくないかもしれないけど、たぶん、荒尾君の言っている事は本当だよ」
思わぬ方向から声がして、沼崎は荒尾の手を振り切ると、二人を今まで黙って見守っていた伊坂が、グラスを拭いていた。
「荒尾君はね、天才といわれるボクサーのコピーは大方完璧にできるんだ。だから、どんな相手でも彼のボクシングができると言っても良い。もちろん、世界クラスになれば、そのパンチ威力や天性の勘なんかまではコピーできないけどね。悪いけど、国内クラスぐらいなら、簡単にやってのけるのさ。少なくとも、君のお兄さんがどんなに天才でも、世界チャンプで今のりにのってる荒尾君より強いとは思えない」
「そんな……」
沼崎はまだ、信じられない、否、信じたくない心境で二人を交互に見比べた。どちらも、冗談も嘘もついていない顔だ。やりきれない思いが足元から這い上がってきて、肩にぐっと重みを感じる。沼崎はその重みに引きずられる様に、力なく傍にあった空席にすとんと腰を落とした。
「分かっていたんだろ?」
「それは……」
誰よりも強い兄。誰よりも、誰よりも……。それを証明するために白石を倒す。そのために、今までやって来ていた。もちろん、兄のボクシング、兄のやり方で、兄との夢を、二人で最強になる約束を、果たすつもりで……。
「それにな、お前。そもそも、本当にボクシングが嫌いなのか?」
「え?」
思いっきり頬に平手打ちを食らったような衝撃に、沼崎は目を見開く。荒尾はさっきの騒ぎはまるでなかったかのように、平然とした顔で冷酒に口をつけ、唇を湿らせる。
「皆は、お前はボクシングを馬鹿にしていて、しかも死んだ兄貴の仇を取ろうとしていると言っている。だがな、正直、俺の目にはそうは見えん」
荒尾は、グラスを置くと、じっと沼崎を見つめ、また、心の奥を覗き込むようなあの目をした。
「お前は、本当はボクシングが好きなんじゃないのか? 兄貴の事とか、そういうのはなしに、お前自身が、ボクシングがやりたくて仕方ないんじゃないのか?」
「そ、そんなこと……」
あるわけない! 心で叫び、笑い飛ばそうとしたが、うまく笑えなかった。ただただ引き攣り、動揺が顔に張り付く。
そんなことあるわけない。兄をたぶらかして柔道から野蛮な道に引きこんだボクシング。たった一発のパンチで兄の命を奪ったボクシング。その奪った命に背を向けた白石。全てが憎いはずだ。
「じゃ、どうして、またボクシングに戻ってきた? お前は一度、アマでボクシングを辞めたんだろう?」
荒尾の声がさらに重なって襲いかかってくる。
まるで、目の前の男が悪魔の化身のように見えた。必死で目をそらしてきた心の奥底の奥底まで、冷たく痛い風にさらそうとする。
復讐という、焦げ付くようでいて心地よい灼熱の殻が剥ぎ取られ、一番脆い部分が寒風にさらされる予感に、沼崎は戦慄していた。




