Round 24
男たちは一通り笑うと、目の前の食事に手を伸ばし、いったん腹を落ち着かせた。伊坂はその間にも、冗談の挟んだ話しで場を明るくし、沼崎も自然と肩の力が抜けて行くのを感じていた。
食事の話になった時などは、もしかしたらそれよりこちらが本題なのか? と勘繰るほど、食事の世話をしてくれる人、つまり恋人やそれに当たる女性はいないのか、会長や窪を含め三人がかりで問いただされたが、沼崎には答えようがなかった。
いない者はいない。必要ないものは必要ない。
きっぱり切り捨てると、変人呼ばわりされた。ついで向けられた憐みの眼差しに、つい、ムキになって多恵の名前を出しかけるが、それを飲み込む。
多恵はもう、自分とは関係のない人間なのだ。
そう思うと、不思議な感じがしたが、どうしようもないとも思った。先の事件で感じた、違和感と一緒だ。ワインはオープナーがなければ開けられない。自分のこれまでの不調と言わないまでの違和感は、きっと彼女が原因だったのだろうが、それは、引っ越しをした時に感じるそれと同じようなものだ。自分はあくまで自分。環境が変わったにすぎない。それは特に大きな支障になるべくもなし。ワインも開けられないのなら飲まなければ良い。酔う事は出来なくなっても、生きていけないわけじゃない。
その程度だと思っていた。
「沼崎、こいつはな、こう見えて、B級までは頑張ったんだ」
御堂が今はダルマのような伊坂を指して言った。目で指した方向には、スリムなボクサーがリングに立っている写真が、こっそりと飾られていた。良く見ると、伊坂だった。あまりの変貌に、沼崎は口をつぐむ。
「なかなかにストレートだな」
伊坂はそんな沼崎の反応に苦笑すると、今度は「なぜ辞めたのか?」という視線を向けてきた青二才に
「目だよ」
と温かなお茶を出した。
「目?」
「あぁ。ボクサーの天敵、網膜剥離だ」
伊坂は先ほどまでの陽気な顔に寂しげな翳を浮かべ、じっと沼崎の前で立ち上る湯気を見つめた。御堂が頬杖をつき、伊坂と追いかけた夢をそこにみるような眼で写真を見上げる。
「沼崎、相田やこいつだけじゃねぇ。皆、いろんなもん抱えて、それぞれに戦ってんだ。山中だって、あぁみえて、どん底から必死であそこまで這いあがってきた」
「山中?」
ただの阿呆にしか見えない金髪を思い出す。窪は御堂の代わりに頷き、箸でいたずらに芋をつついた。
「彼はね……手のつけられない不良だったんだ。でも、ある日、不良仲間とのいざこざに妹さんが巻き込まれて……。山中は妹さんに危害を加えたやつを半殺しにして、少年院に入った。情状酌量と、相手が運良く死なず、逆に妹さんへの傷害の容疑が固まったので、山中は数年かかったが、外に出てきた。でも、そんな山中を相手にする人間は親を含めてもいるはずなくてね。俺たちが山中を拾った時は、どうしようもないところまで落ちてたよ」
その山中は、今、事件の恐怖で家に引きこもってしまった妹に、罪滅ぼしのために、リングに立っているという。かつての自分を罰し、戒め、どんなに最悪でも、人はやり直せるのだと伝えるために。
普段の素行からは想像もつかない山中の背景に、沼崎は言葉をなくす。
御堂はそんな沼崎の背中をぽんと叩き、父親が息子にそうするように、優しくさすった。
「荒尾にしたって、簡単にこの世界に入ったわけじゃない。あいつはな……在日韓国人なんだ」
「え?」
「生まれた時から、自分のアイデンティティがどこにあるのか、探していた。日本人でも、韓国人でもない、自分。どこにいても、独りでいるような孤独感。実際、父親も早くに亡くしたあいつは、生活も苦しかったらしい」
御堂はまるで映画のあらすじを話すように、淡々と語った。
荒尾は関西の下町で生まれた。在日韓国人の多く集まる街で、学校も朝鮮学校に通い、育った。それが中学に上がる前、父親が死んだ。少年たちによる遊び半分の暴行が原因だった。
荒尾と母親は、親戚を頼って各地を転々とした。御堂が出会ったのは、荒尾がインターハイに出場している時だった。アマチュア、特に高校生の世界では、朝鮮学校の生徒の強さには定評がある。それを見越してのスカウトだったが、初め、荒尾の中にある虚無心は子どものものとは思えないほどの深い闇になっていた。
父を殺した日本人への恨み。自分たちを拒むまだ見ぬ祖国への苛立ち。そしてなにより、その状況をどうしようもできない無力な自分自身への怒りが、底のない闇を生み出していた。
「まぁ、皆が皆、重いもん背負ってるわけじゃないけどさ。でも、少なくとも、ボクシングをするってことは、特に、ろくに稼げもしないのにプロのリングでやっていくっていうのは……自分の生活を、人生をかけなけりゃ出来ない事だろうな」
御堂はそう締めくくると、ぐいと4杯目になるジョッキを傾けた。
何かを背負っているのは、自分だけではない。
直接にそう言われるより、ずっと心に重く響いた。
今まで見ていた風景が、また、少しずつ歪んで形を変えて行く。
「今日な、どうして荒尾がお前にスパを申し出たと思う?」
御堂がジョッキを置くと、綺麗な顔のままの沼崎を見た。沼崎はぐっと、呼吸するのもためらうかのような神妙な顔で、しばらく考えてから、ぼそり、呟くように答える。
「俺が甘いって事を言いたかったんですか?」
「いや、違うな。確かに、あいつはそんなこと言ったかもしれねぇが、真意は違う。俺も窪さんもそう思ってる」
御堂の言葉に、疑問が湧き出し顔を上げる。思考をまとめようとするが、御堂はそれを理屈ではなく笑顔で制した。
「あのな、背負ってるもんに、重いも軽いも、でかいも細けぇもねぇんだ。それぞれが、それぞれに背負うべきもんを背負ってる。それだけだ。荒尾はな、お前の気持ちも十分にわかってるさ。形は違えど、拳で肉親を失ったんだ。それに、お前がどれだけ嫌な態度を獲ったとしても、ボクシングやってりゃ、誰だってお前の真摯な姿勢には文句は言えねぇよ。あのな、沼崎……」
ぐっと御堂の大きく鋭い双眸が沼崎を見つめた。
「今日、お前、負けてみて、どうだった?」
「え?」
「お前、ボクシングで負けるの、初めてだっただろう? 今、負けて、大勢の前でのされて、どんな風に感じてる?」
どんな風?
沼崎は自分自身の心を分解し、分析するように、じっと手元の湯飲みを見つめて黙り込んだ。
正直、人の目は一向に気にならなかった。問題は、あんなに簡単に思えていたボクシングが、とたんにとんでもなく先が遠く、奥が深いものに感じられている事だ。荒尾には全く歯が立たなかった。赤子の手を捻るように、簡単にやられてしまった。立ちすくんでしまいたくなるような、絶望的な実力の開きに、茫然とするしかない。
でも、果たしてそれだけだろうか?
ゾクリ
また、あの恐怖が蘇る。殺されると真剣に感じた、あの瞬間。でも、あの暗闇にあったのは恐怖だけじゃなかったはずだ。なんだか仄明るい、それでいて強烈な引力を感じる……。
「あ、来たか!」
御堂がいきなり声を上げ、自分の後方に向かって手を上げた。はっと顔を上げ、視線の先をたどるように目をむける。軽く息を飲んだ。
「荒尾、よく来たな」
他でもない、荒尾本人だった。
荒尾は伊坂を含めた先輩たちに会釈して挨拶すると、沼崎には一瞥もせず、その隣に腰かけた。何も言わずに、差し出された熱いおしぼりを受け取る。
その両腕には包帯が巻かれていた。シップの臭いがツンと鼻につき、もしかしたら服の下にも何らかの処置が施されているのではないかと、沼崎は推測する。
「先生はなんだって?」
「打身は問題ありません。ですが、試合前だったら大事だと言ってました」
窪と荒尾の会話を解説するように御堂が口を挟む。
「あのスパで荒尾もかなり負傷したんだ。さっきまで、相田の整骨院に行かせてた」
「え?」
沼崎は驚き、寡黙で岩のような男の横顔を見つめる。男はむすりとしたまま、その視線を無視して伊坂に注文を告げた。
「スパの後、大変だったんだぜ。皆のお前へのブーイングでさ。でも、それを一喝したのが……」
「荒尾君だったんスか」
伊坂がからかうようにそう言いながら、荒尾の前に荒尾用のメニューとして作られた海藻サラダを置いた。
窪と御堂は面白くて仕方ないといった顔で頷く。
「そうそう。『お前らの中に、俺とここまでやりあえる奴はいるのか? こいつほど、真剣にボクシングしてる奴、いるか? いないなら、誰も、こいつに文句を言う資格はない。それでも文句あるなら、俺が相手になる。今すぐリングに上がれ』ってな。すっごい剣幕で」
御堂はクククと笑うと、教え子の感情的な一面を温かく見守る窪が「あんまりからかっちゃ可哀想だよ」といなした。
沼崎は信じられない思いで、海藻をつつく荒尾を見つめる。
この男が、自分をかばった? なぜ?
自分に考えの甘さを思い知らせ、ぶっつぶすつもりじゃなかったのか? だから、兄のあんな真似事をして挑発したんじゃないのか?
理解を超えた世界チャンプの行動に、頭は混乱するばかりだ。
そんな時、御堂と窪が同時に立ちあがった。
「じゃ、そろそろ、俺たちは次の店に行くわ。男ばっかで飲んでても上手くないしな」
「随分ですね。でも、確かに」
伊坂が苦笑する。
「勘定は俺につけといてくれ。じゃ、沼崎、また明日ジムに来いよな」
「失礼するよ」
御堂と窪はそれぞれに声をかけると、こちらが口を出す暇も与えず出て行ってしまった。まるで、荒尾をここに呼ぶまでの時間稼ぎだったといわんばかりのタイミングだ。
気まずくなる店内。再び、寂しげな演歌だけがうすら寒い空気に流れて行く。
何か理由をつけて、自分も帰ろう。
そう時計を見た時だった。
「沼崎航は、死んだ」
信じられない言葉が、静寂に響いた。




