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Round 23

 意外な言葉に、目を見張る。しかし、目の前の御堂は冗談を言っている風でもない。

 あの相田さんが、世界チャンプの婚約者を横取りした?

 混乱を補正するための説明を求めようと、御堂と窪の間に視線をさまよわせた。しかし、御堂はあの名門ジムの会長とも、ましてや世界の栄光を拳でもぎ取った男とも思えぬ、まるで少年のような顔でうつむいている。みかねた窪が、そんな御堂を庇うように口を挟んだ。


「御堂と相田は、年は5つほど違うが、俺がいた今はもうない前のジムの同門だったんだ。弱小ジムでな、こいつらの他には数えるほどの練習生しかいなかった。でも……楽しかったなぁ」


 窪は同意を促すように御堂の背中を叩くと、ちょうどよいタイミングで出てきたおかわりのジョッキを御堂の前に勧めた。御堂は口をつけるでもなくジョッキに手をかける。


「二人は年の離れた兄弟みたいだったな。で、芙美さんがこいつらの前に現れたのは、御堂が日本チャンプをかけた試合をする頃だった。相田はその時で、すでに4戦4敗。とにかく1勝を……ともがいていた時だ。御堂のスポンサーとして名乗りを上げてくれた製薬会社の社長の娘が、芙美さんだった」


 「きれいな人だよな」という窪の言葉に、御堂は恥ずかしげに頷く。そして、鼻の下をこすると、ぐいっとビールを一口飲み下し、今度は自らが語り始めた。


「当時の俺には、怖いもんなんか何もなかった。いや……鬼トレーナーだけは怖かったかな?」


 窪を振り返り、軽口をたたく。それは現在まで続く過去を話すのにはずみをつけようとしているように見えた。


「とにかく、勘違いしてた。なんでもこの拳で手に入ると思ってた。実際、日本を獲った時、その社長は彼女に一目ぼれしていた俺の気持ちを見抜いて、自分の娘を嫁にしてもいいだなんて……。まぁ、良い宣伝にもなると思ったんだろうな。芙美の気持ちも考えずに、俺との婚約話をすすめちまったんだ。でも、芙美は本当は、そんな鼻っ柱ばっかり強い俺なんかより、優しくて誠実な相田に惚れていた。で、奴らは半ば駆け落ちみたいな形で、一緒になっちまったんだ」


「へぇ」


 あの、相田さんが……。

 意外を通り越して、まるで現実味がなかった。そして、破竹の勢いで世界に突き進む男より、勝ち星を上げられない4回戦ボクサーを選んだ芙美という女性の事も、想像がつかない。


「まぁ、俺は、それでも仕方ないと思ったんだ。むしろ、他のわけのわからん奴に獲られたわけじゃなく、弟分の相田に取られたんだ。腹は立ちはしたし、裏切られた気分もしたが、正直、どっかで喜んでた。相田なら、彼女を任せても……と思ったんだ。嘘じゃない」


「でも、相田さんは、辞めたんですね?」


 沼崎の言葉に、二人はうなだれる様に頷く。

 こちらは想像にたやすかった。あの相田の人柄を考えれば、兄貴分の御堂の婚約者を奪っておいて、御堂の目の前にいられるわけがない。ボクシングも、まるで自分に罰を与えるがごとく、諦めたのだろう。


「芙美は、体の弱い人だった。相田は彼女のために、そして俺のために、あんなに好きだったボクシングを辞めた。けど、航君が生まれて、それなりに幸せそうだったんだ。だから、俺もほっとしてたんだが……三年前に芙美が倒れた。体が弱いのに、かなり無茶してたらしい」


「え?」


 御堂は苦い過去を飲み干すように、再びジョッキを開けると、少々乱暴に腕を振りおろした。そこには、相田への憤りではなく、弟分、そしてかつて愛した女性を守れなかった自分のふがいなさに腹を立てているようだった。


「芙美はな、相田にもう一度ボクシングしてほしかったんだよ。自分のために、相田があんなに好きだったボクシングを辞めた事を、ずっと悔やんでいた。だから、自分が無理してでも生活を楽にして、それで相田にもう一度リングに上がってもらいたかったんだ。でも……」


 だんだん、話が見えてきた。

 きっと、それで相田の妻、航の母親はもともとこの結婚を良くは思っていなかった実家に引き取られ、彼らは父子だけの生活になったのだろう。そして、相田はそんな妻の想いにこたえるために……。御堂もその気持ちに応えたというわけだ。


「沼崎。死ぬほど焦がれても、たった一勝。たった一勝ができない選手もいるんだよ」


 窪の言葉が、重かった。目の前の、白くつやつやした握り飯を見つめる。

 ボクシングほど、過酷で、それでいて不平等なスポーツはないような気がした。身を鍛えるトレーニングだけではなく、他のスポーツじゃ類を見ないほどの厳しい減量をする。体を限界まで追い込んだ上で、命を削りあうような試合をするのだ。兄のように命を落とすものだって……。

 だが、勝利するのは、なにも努力した人間とは限らない。努力の分だけ報われるのなら、きっと相田のような選手はとっくの昔に勝ち星を上げているだろう。しかし、実際は、一勝をもぎとるには努力だけではどうしようもない部分がある。冷酷で非情だが、それが現実だ。


「芙美さんはな、ボクシングが好きだったんだ。だからせがれの名前も……」


「ええ、知ってます」


 沼崎は今日、初めて二人に向けて笑みを零し、手元のグラスを指先で突いた。

 この世界に入り、自分が思っていたより兄を記憶している人間が多い事に驚いていた。自分にとっては唯一無二の兄だ。しかし、世間にとってはあの日まで無敗だったとはいえ、日本チャンプにもなっていない選手。注目されていたといっても、さほど有名だったとも思えなかった。

 でも、こうやって名前まで自分の子どもにつけてくれる人がいた。

 それは素直に、嬉しかった。


「会長」


 沼崎は小さく微笑み、在りし日の兄の姿を思い出す。興奮に上気した顔で、すっかり舞い上がり、でもまっすぐな目だった兄の顔……。そう、あれは兄がボクシングを辞めるといった、その日の夜、だ。

 ずっと続けていた柔道を、兄は捨てた。有望選手と見られ、高校にも柔道での進学していたのに、どうしても抑え切れない衝動が、兄を駆り立てていた。


「俺、ボクシングする。柔道辞めて、ボクシングに転向する!」


 そう、言わせたのは……


「会長。兄は、会長の試合を見て、ボクシングを始めたんですよ」


 御堂の世界タイトルマッチだった。

 今でも忘れない。あれはまだ沼崎が小学生で、兄が高校生だった時だ。仕事で帰宅の遅い両親を待ちながら、たまたま二人でテレビで見た、ボクシングの試合。それが御堂の世界チャンプ挑戦の試合だった。

 激しい打ち合いに、シーソーのように揺れ動く勝機。どちらが勝ってもおかしくない、実力が拮抗した死闘に、二人で手に汗握った。28歳の挑戦者。決して若くはないという。同じチャンプへの挑戦も、初めてじゃなかった。

 でも、でも、その挑戦者は絶対に引かなかった。決して上手い戦い方ではない。正直、小学生の沼崎でも、もう少し頭の使いようがあるだろ? と呆れたくらい、正面対正面の、世界戦では稀にみるガチンコ対決だった。

 もつれにもつれた最終ラウンド。挑戦者は……。


 沼崎はそっと御堂の右まぶたに残る傷を見る。


 そう、挑戦者御堂は右の瞼を深く負傷していた。ドクターストップも危ぶまれるほどの出血に、最終ラウンドはすんなり開始しなかった。しかし、それを続行させたのは、今は御堂の向こう側で温厚そうな顔でジョッキを傾けている窪だ。必死の止血処置。そしてレフリーや審判への説得。セコンドの切実な訴えが、再び挑戦者をリングに上げた。

 そして……。

 ラスト五秒前。

 互いに命を削るほどの猛攻を繰り広げた。それはボクシング史に残る、まさにどつき合い。そして、最後、マットに横たわったのは、その流血の挑戦者ではなく、それまでに二階級を制覇していた王者の方だった。

 両手を天高く突き上げる新王者。少年たちの魂は震え、心は大きく揺さぶられた。


「柔道界から兄を奪ったのは、会長。貴方なんですよ」


 だから、自分はこのジムを選んだのです。とまでは言わなかったが、御堂も窪も察したらしかった。二人とも顔を見合わせると


「お前……本当に……」


 くしゃっと相好を崩し、大きく笑った。

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