Round 22
御堂と窪に連れられて行ったのは、新橋駅近くのビルの中にある小さな小料理屋だった。御堂がのれんをくぐると、カウンターの奥からいかつい顔がのぞき「会長! 今日は貸し切りにしましたから」という低い声が飛んできた。恰幅がいいと言えば聞こえはいいが、ようはおいしい料理をいかにも作りそうな、太った男だ。ともすれば、他に従業員がいないのは、彼の体格だけでこの狭いっ空間が埋まってしまうからじゃないのかとも思うほどだ。
御堂は苦笑し「悪いな」とだけ短く答え、カウンターになれた様子で座る。
店内は広くなく、数人が座れる程度のカウンターの奥に、個室が一つあるだけだ。店員もマスター一人らしく、有線の演歌が寂しい雰囲気を慰めるようにかすかに流れていた。
「そちらさんは?」
「あぁ、うちの期待の新人なんだよ。二週間後にはランカー入りのかかった試合を控えている」
窪が最後に店内に入った沼崎の代わりに答えた。
奥から窪、御堂、沼崎の順で座る。本当に貸し切りなのか、他に客はいない。目の前には大皿にいくつかの煮物が盛られていて、醤油の香りが食欲を刺激した。
周囲にはいくつかの色紙が誇らしげに掲げられ、中には御堂ジムの試合ポスターが貼られている。
店のマスターは一番新しいポスターに載っている沼崎の名前を見つけて
「へぇ。沼崎って君かぁ。意外と細身だなぁ」
と、身も蓋もない事を屈託なく言った。熱いお絞りが順に配られる。
今は無力に見える自分の手に、その熱はじんわりと沁みた。
「俺たちはいつもの感じでいいよ。沼崎には……」
わかっているといわんばかりにマスターは気さくな口調で尋ねる。
「で、そこの若い新人。ウェイトは今、何キロオーバーで、今日喰ったものはなんだ?」
「え?」
小料理屋でされると思っていなかった質問に、沼崎は首を傾げる。男はにんまりと笑い「言ってみろ」とさらに声にした。
戸惑う沼崎に、窪が見かねて助け船を出す。
「この男は伊坂照。こう見えて元うちのボクサーだ。もうずっと前に引退したが、ボクサーの事は良く知っている。もちろん、減量もな」
「っていうか、減量に関しては専門だよなぁ。現役時代、何度こいつの減量に冷や汗かかされたか」
御堂がからかうように合いの手をいれる。伊坂は苦笑して腕組みをすると、角ばった頬をぽりぽりと書いた。
「もう、勘弁してくださいよ。確かに、俺は減量で相当苦労しましたし、会長や窪さんには心配かけました。けど、最後あたりは、見事な減量してたでしょ?」
「減量の世界戦があったら、間違いなくチャンプだったな」
「きっついな~。会長は」
がははと笑いながら、背を向け生ビールを注ぐ伊坂に、窪は沼崎を紹介した。
「彼は、こうみえてフェザーなんだ。たぶん、減量の厳しさは君と同じくらいなんじゃないか?」
「へぇ。そのたっぱでフェザー」
伊坂は振り返り二人にビールを出すと、沼崎を値踏みするような目で見つめた。じろじろと見られて、沼崎はあからさまに不機嫌な顔になり目をそらす。
「で、今、何キロだ?」
再び同じ質問をした。沼崎はスパーリング前に測った自分の体重を思い出す。
「今で2キロオーバーです」
残り二週間にしては、良い調子で落としていた。身長が180近い沼崎は、普段の体重も、減量対策でさほど重くならないようにしている。平均体重が70キロ弱なのに対し、どれだけ筋トレをしても、65キロ以上はならないように絞り込んでいた。が、最近は逆に体がその状態で慣れてしまっているせいか、最後の数キロが落ちにくく、フェザーの体重57.15キロの2キロオーバーの59キロにするまでも、辛さはないが随分苦戦はしていた。
「まずまずってか……それじゃ、そっからが正念場ってところだな。で、食ってきたものは?」
「米、納豆、水、温野菜」
「ストイックだねぇ」
伊坂はどこまで本気で言っているのか、小さく苦笑すると、身を引いて「なら、お前は俺に任せてくれよな」と沼崎の前に水を出してから、包丁を振るい始めた。
「じゃ、おつかれ~」
二杯のビールジョッキに水のグラスが軽く合わさる。何に乾杯なのか……俺のボクシング初黒星にか? 思わず皮肉を心の中で呟き、ため息をつく。
何度頭でリプレイしても、完全な負けだった。正直、ボクシングという分野でこんな苦々しい思いをするとは思わなかった。パンチの威力にも、スピードにも、スタミナやセンスにだって、それなりの自信はあった。実際、これまで、私闘をした白石や戸田を除けば、手を合わせて脅威を感じた相手なんかいなかったはずだ。
だけど、荒尾は……。
身震いする。あの、自分の乱打を受けてもなお、何もないような顔をして、じっとこちらを見据えるあの、目……。全く、歯が立たなかった。
「沼崎」
御堂の声にハッとする。これまでに声を掛けられていたのかどうかすら、わからない。
「まだ、ぼんやりするのか?」
窪の心配げな顔に、首を振った。うまく説明できない。でも、打たれたダメージはもうないと断言しても良いような気はした。
御堂は、そんな沼崎の心境をすべてわかるとでもいうように、深く頷くといつもの渋面に笑みを浮かべた。
「大神から聞いたが、お前、相田の息子をジムに連れてきてたんだって? どうしてまた」
坊主……。
自分の彼ら親子へのもくろみも上手くいかなかった事に、今、ようやく気がつき、よくよく今日の自分が間抜けな事に口を歪める。
彼は、失望しただろうか? 父親の、そして自分の姿を見て……。
やっぱり、兄さんのようにはなれないな。
そこでようやく、自分があの兄の真似事をしようとしていた事に気がつき、情けなくなる。沼崎は半ば投げやりな気分で御堂と窪に目を向けた。
「紹介先の整骨院の近くで見かけたんです。以前、相田さんと食事をする機会がありまして、その時に顔は知っていましたから。それで……」
「へぇ。お前でも、ジム生と交流する事があるのか」
「後にも先にもこれ一回きりですが」
三人の前に、料理が並べられ始める。御堂たちの前には、スタンダードな付け出しの煮物や、刺身。焼きイカに豚の角煮。枝豆などだ。そして、沼崎の前に置かれたのは、小さな握り飯二つと、煮豆だった。一見、いじめにもみえる配膳に、沼崎は伊坂がきちんと減量について理解している事に気がつく。
伊坂はそんな沼崎の視線に気がつくと、にやりと笑って、黙ったまま視線を手元に戻した。
「沼崎は、相田の事……」
窪の声に、沼崎は首を横に降る。
親しいわけじゃないし、あまり彼らの事情も知らない。奇妙な感じだとは思うが、突っ込むほどの仲ではないし、後にも先にも、彼らと関わったのはあの日以来今日が初めてだ。
御堂は「そうか」と胸をなでおろすような表情で呟き、ぐっとジョッキのビールを開けてから、音を立ててそれを机の上に置いた。
大きな拳。世界を獲った、拳だ。
そう思うと、これまで意識した事のない感情が生まれ、沼崎は何とも言えなかった。少しずつ、自分のこれまで見ていた世界が、色や形を変えて行く、そんな感覚だった。だまし絵の中にいるようだ。
「相田はな……弱いわけじゃないんだ」
「わかります」
言い訳するような御堂の言葉に、沼崎は同意した。相槌や世辞ではなく、相田のスパーリングをみて、そう感じた事だ。確かに、彼はセンスがない。でも、がむしゃらに突っ込むような馬鹿でもなければ、練習をさぼるような怠け者でもなかった。何年も四回戦で一勝もできないほど、駄目な選手には見えない。
「相田はな、一時辞めたんだよ。ボクシングを」
「え?」
意外だった。全てを放り出してボクシングに打ち込んでいるように見えたから。沼崎は知らず、身を乗り出し、二人の顔を見る。御堂と窪は顔を見合わせた。どうやら、御堂の方が言い淀んでいるらしい。
まだ40代の元世界チャンプは、自分を育てた10以上上の名トレーナーの助けを待っていた。
窪は、言いづらそうに頬を一かきすると、言葉を探し口を何度か開け締めしてから、最後に諦めたのか、飾りも偽りもない言葉を声にした。
「相田はね。病弱な奥さんのために、一度、結婚してすぐに辞めたんだ」
「でも?」
今はしている。どういう事だ? 沼崎が説明を求めるように弱った顔の御堂を見つめた。どうやら、御堂が深くかかわっているらしいことが、彼らの態度で察せられたからだ。
御堂は深くため息をつくと、世界を獲ったとは思えぬ弱々しい顔をして、自分の額を後ろに撫でつけると、枝豆の殻を指先で弄びながら、まるでそれに語るように、呟いた。
「相田の妻、芙美は、俺の元婚約者だったんだ」




