Round 21
インターバル中も、沼崎の頭の中に浮かぶ言葉はそう多くはなかった。
何を思ってか、兄の真似事をし、兄を侮辱した荒尾を、微塵も許す気はなかった。さっき、仕留められなかったのが悔やまれるくらいだ。
沼崎は、決め手の左をフェイクに使う事を前々から考えていた。彼の左は、多恵のせいで妙に注目される様になってしまった。当然、対戦相手も左を警戒してくる。ならば……と右ストレートにも磨きをかけておいたのだ。
ただし、今のように試合の序盤にこの手を使うつもりは全くなかった。もし、長期戦にもつれ込むような相手があれば、中盤でこの手を見せ、混乱させるのが目的で用意していたにすぎない。これにノーモーション、ノーサイト (視認しない)のジャブなどを織り交ぜて行けば、自然、左への警戒を他にも回さざるを得ないはずだ。幸い、長いリーチと、目で見るより確かな勘がある。沼崎には難しい事ではなかった。ただ今までは、ほとんどの試合が序盤で終わってしまっていたから、使う必要がなかったのだ。
しかし、今日に限って、その作戦を一ラウンドで使ってしまった。
普段なら、沼崎にとって、一ラウンドの初めの一分の直後、そしてインターバルの間は、相手を分析し方程式を組み立てる時間だった。が、今の彼にはそんな余裕は微塵もなかった。
荒尾のふざけた挑発的な態度に完全にキレていたのだ。
周囲の声も、相田や少年の存在も、すべて消し飛んでいた。
よくも、俺の兄さんを。よくも……。
誰よりも、何よりも大切に胸の奥底に抱えていたものを、他人に踏み荒らされ、泥の中に突っ込まれたような気分だった。殺しても殺したりないほど、兄の姿を愚弄する荒尾を許せなかった。
奥歯を噛みしめる。
―― 絶対に、殺す!
ゴングが鳴った。
沼崎はまるで鎖を引きちぎった猛獣のようにコーナーを飛び出した。
しかし、荒尾は一ラウンドとは違い、大きな動きを見せない。巌のようにどっしりと構えたファイティングポーズで沼崎を待っている。
荒尾のセコンド近くで、沼崎の猛攻が始まった。
死ね、死ね、死ね死ね死ね死ね死ね……っ!
打ちおろされるような左フックはもちろん、肉を打ち貫くような槍のごときストレート。重いジャブに、緩急をつけたアッパー。開けばすかさずねじ込むボディ。世界チャンプがまるでサンドバック状態だ。
しかし、そのサンドバックが脅威と戦慄に変わるのに一分も必要としなかった。
確かに手ごたえは十分に感じているのに……。
何故だ?
荒尾は倒れなかった。まるで、巨神兵ゴーレムを思わせる頑強な体で、全てを受け止め、顔色一つ変えず、こちらを見ていた。
疲れ以上の恐怖と焦りが、死神の鎌を鈍らせる。
ゴーレムが、一歩、拳の雨の中を前に出た。
思わず沼崎が引く。すかさず巨神兵が動く。そして、まるで神に変わる裁きを愚かな死神に下すといわんばかりに、裁きの鉄槌が……振り下ろされた。
轟音が轟き、岩の塊のような拳が、死神の顎を容赦なく正確に、打ち砕く。
重い重い一発だった。
目の前の景色が一瞬にして闇に飲まれ、頭の先から足の先まで痛みを伴う電流が駆け抜けたかと思うと、全ての感覚が嘘のように消えて行く。
死ぬ、のか?
氷のような冷たさが背筋を滑り降り、絶望に似た虚脱感が沼崎を襲った。
これが、世界を……。
死への恐怖がじわじわと蘇る。でもそれは父を、そして兄を、失った時ほどのものではなかった。あぁ、ここで終わるのか、という落胆と死への茫洋とした不安はあっても、彼らを失ったといほどの恐怖はない。それを自覚すると、こんどは奇妙な高揚感が闇の中僅かにぼんやり光っているのを感じた。
これが、世界を獲ったボクシング……。
体が思いっきりマットに打ちつけられる。痛みはない。遠くでぼんやり誰かの騒ぐ声が聞こえる気がするが、もう、何も見えなかった。
――
夢は見なかった。
気がつくと、目の上に冷たいタオルが置かれていて、それを払うと同時にぼんやりとした痛みを頭に感じた。
ゆっくりと体を起こす。まるで脳の代わりに重い石を頭蓋内にはめ込まれたような感覚だった。白石との私闘以来だな……。あの時折った顎の感触を確かめるように触れてみる。ヘッドギアは外され、手もすで解放されていた。
「お、起きたか。具合はどうだ?」
ドアから顔をのぞかせたのは、御堂と窪だった。そういえば、ここはどこだろうと周囲を見回す。
簡単な医療用具と、自分が寝ていたベッド以外は何も見当たらない簡素な部屋だった。たぶん、ジム内のどこかにある医務室のようなものだろう、と検討をつけてから、沼崎は座り直す。
膝の上にタオルを握ったままの手を置いた。
まだ、ダメージが完全にはぬぐえない頭で記憶をたどる。
「俺、負けたんですね?」
「あぁ。完全に、荒尾の一発でノックダウンだ。救急車を呼ぼうか迷ったほど、な」
「呼ばなくて正解です」
「そう言うと思ったよ」
御堂は窪が新たに用意したアイシングを受け取ると、そのまま沼崎に差し出した。
「今日はもういい。どうだ? 今から俺らに付き合わないか?」
「え?」
怪訝な顔をする。一瞬で、次の試合はないものにされるのかと思った。しかし、窪はすぐにその表情で沼崎の懸念を読みとったらしく、苦笑するとまだ御堂の手の中にあるアイシングを再び手にし、沼崎の首筋にぴたりとつける。
「大丈夫。試合前の減量中だってことは自分も会長もわかっている。ただ、話がしたいだけだよ。どうせ、今日はもうトレーニングできる体じゃないし、まぁ……スパの反省会とでも思えばいい」
「……でも」
考えが上手く纏まらなかった。
おそらくは、身体的なダメージより、負けた事のショックが想像以上にあるのだろう。沼崎は自分の混乱を他人事のようにそう分析した。なぜなら、沼崎は今まで負けた事がなかったからだ。
柔道でも、練習試合などで負ける事はあっても、大会では確実に勝利を手にするタイプだった。勝つ、というより負けない柔道をするのに長けていたからだ。
ボクシングに至っては、プロアマ通して戦った事のあるのは二ラウンドまで、負けなしだ。全てに簡単に勝利したとは言わないが、さっき、荒尾を前に感じたような……。
ぞくりとおぞけが肌をなでた。
一瞬にしてあの時感じた死の恐怖が蘇る。
あんな……何をしてもどうしようもない。そんな絶望的なものを感じたのは初めてだった。完全なる実力の差。言葉以上に痛烈に刻み込まれたメッセージ。
……なにが、野蛮で阿呆ばっかりだ。
沸点が低く、思慮も浅い。礼儀もわきまえず、自己評価が過剰だったのは、俺の方じゃないか。
「沼崎」
いつしか落ちていた肩を、ぽんと、温かく大きな手が支えるように添えられていた。
御堂だった。にやりと笑うその強面は、全く似る要素もないのに、なぜか亡き育ての父を思い出させら。
「良いから、つきあえ」
「は……い」
沼崎は俯くと、小さく了承の意を伝えたのだった。




