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Round 20

 もはや、ヤジすら声にできるものは一人もいなかった。

 ただただ息をのむしかない死神と魔術師の戦いに、ある者は幻の兄弟対決を、ある者は人外の領域を見ていた。

 航少年も、その戦いの目撃者の一人だった。


 これまで航は、ボクシングのその名を聞く事すら嫌いで、ずっと避けていた。

 製薬会社社長の一人娘だった母親が、どういった経緯で一介の整体師だった父と知り合ったかは知らない。しかし、その結婚で、母は実家と縁を切られた事だけは、未だに母方の祖父母とあった事のない航も知っていた。

 母は体が強くなく、自分の中の記憶にある母も、いつだって弱々しい笑顔だ。貧乏で、贅沢はできなかった。でも、父がボクシングなんかしないで整骨院で働いていた時は、家族三人で、毎日笑っていたような気がする。

 それが、三年前のクリスマス、突然母が倒れた。弱い体で慣れない仕事をしたからだった。みかねた祖父母が母を自分たちから取り上げた。

 そして、何を考えているのか、父は取り返しに行くどころか、母と一緒になってから辞めていたというボクシングを再開して……。


 もしかしたら、父さんは僕や母さんよりボクシングが好きだったのかもしれない。


 そう思い始めたのは自然なことだった。

 母の話を一切しようとしない父。整骨院の仕事を辞めてまでボクシングにのめり込む父。理解できなかった。

 それでも、初めは応援していた。一生懸命な父の姿を誇らしくら思おうとした。でも、負けが重なり、万年かませ犬という言葉を聞くようになってからは……母も取り戻せず、かといってボクシングでも勝つことのできない、全てにおいて負け犬の父を恥ずかしく思うようになった。

 

 ボクシングなんて……さっさとやめろよ。

 

 父が自分よりずっと若い選手たちにぼこぼこに殴られ、負けて顔を腫らせる度に、いつも呪うような気持ちでそう思っていた。むしろ、母親が帰ってこないのは、弱いくせにこんな野蛮な事続けるからなんじゃないか、とも。


 でも……。


 今、目の前で行われているボクシングは、航の知るボクシングと全く違っていた。

 野蛮? 確かにそうかもしれない。でも、これこそが、あるべき姿のような気がした。いつも、にこやかな顔をして、互いを探りあい、弱いと分かればつけ込むような人間は偽りで、こうやって拳と拳でぶつかり合う、これこそが、本当の人間なんじゃないか……少年にはそんな錯覚すら感じられた。

 目にも止まらぬ拳の応酬。予測のつかない体の動き。それでいて、隙はなく、無駄もない。


 すごい。これがさっき、僕に話しかけていたおまわりさんなの?


 震えた。ぞくぞくした。自然、口が笑みに緩むのに、喉が干上がり、瞬き一つできない。

 荒尾の右ストレートが沼崎の顔面に迫る。

 航は思わず「あっ」と声を漏らす。心臓がギクリと跳ね、本能で危険を察する。しかし……リング上の男は逃げなかった。かわす事もせず、逆に突っ込んだのだ。もろに拳をくらい、さらに前にでる。

 そして、全員が息をのんだ。

 死神の鎌が、再び魔術師の右わき腹めがけて放たれたのだ。

 が、魔術師は笑う。まるで、未来を見通していたといわんばかりにぐっと右肘を下げてガードする。誰もが、鎌が魔術師のマントに、巻かれ威力を削がれると思った時だ。

 魔術師の左テンプルに鋭い槍が突き刺さる。


 左をフェイクにするだと?


 荒尾は揺れる意識で顔を歪めた。

 世界チャンプが、日本ランカーにも入らない新人の拳の前に、膝からすとんとマットに落ちる。

 沼崎は崩れる世界チャンプを見下しながら、思いっきりグラブで首を切り親指を地面に突き立てるような仕草をした。

 馬鹿が。俺がいつもいつも左だけを決めに持ってくるようなワンパターンの阿呆だと思ったか。

 沼崎の態度にブーイングが飛ぶ。

 窪が駆け寄り、荒尾に意識の確認を取る。

 荒尾は頷き立ち上がりながら、続行の意思を伝えた。

 カウント8まで取り。試合が再開する。

 沼崎は、当然、もう、あんな馬鹿な事は辞めてくるだろうと思っていた。これだけ痛い目を見たんだ、兄を侮辱するようなまねは、さすがにもう……。


 しかし、荒尾は、また、した。

 あの、癖を。


 ブチン


 沼崎の中で何かがぶち切れた。

 駆け足のように荒尾に駆け寄ると、理屈も技術も減ったくれもない拳を思いっきり打ちおろし始めたのだ。もはや、それはボクシングとは言えない、単なる暴力だった。沼崎が大学時代アマチュアのリングで、そして警官になって筋者たちにふるい続けていた、凶器の拳だ。


 兄さん、兄さん、兄さん、兄さん!


 知らず、涙があふれていた。マウスピースを噛みしめ、目の前の偽物を睨みつける。

 しかし、打てば撃つほど、相手が兄の幻影を色濃くしていき……。

 最後の試合が蘇った。

 白石の、あの一撃で全てを奪われた、兄の白い顔。もう、笑いかける事も、軽口をたたく事も、何にもしなくなった……兄の……。


 こんちくしょう!!


 魔術師の仮面が割れる。

 荒尾の顔面が思いっきり横を向き、一ラウンド終了のゴングが鳴った。


 一分間のインターバル。ジム内はどよめいていた。まだ、荒尾の異変に気がつかない者たちは、もしかしたら本当に沼崎は……と囁き合っている。さすがにその場にいるB級以上の者で、彼らのスパが異常なのに気が付いていないものはいなかったが、それでも、普段の実直を絵にかいたような荒尾のらしからぬ行動に一様に首を捻っていた。山中などは、御堂に『こんなめちゃくちゃなスパは無効だ』と迫ったほどだ。

 確かに、互いに誰かのまねをしたり、挑発し合うスパなど、言語道断だ。しかし、御堂は窪と目だけ合わせると、黙って頷いた。当初の予定通り4Rまでは続行する腹積もりのままだった。

 荒尾には荒尾の考えがあるに違いない。世界の頂点に立つ男が、考えもなしにこんなスパをするとは思えなかった。


「沼崎君。す、すごいね」


 相田は自身も興奮してか、震える手でマウスピースを受け取った。

 三分してコーナーに戻ってきた青年の顔は、まるでフルマラソンを走った後のように、疲労とダメージの蓄積で青くなっている。興奮は見られないが、それ以上に……。

 聞こえていない?

 相田は自分の声に反応一つしない沼崎の顔を覗き込んだ。沼崎は、死神の異名に負けぬ、鬼気迫る形相で、荒尾を睨みつけていた。思わず相田は息をのみ、身を引いてしまう。

 完全に、キレてる? でも、どうして?

 首を捻ると、視界に小さな影が見えた。首を向け、目を見開く。


「あ、航! お前、どうして?」


 息子の姿にようやく気がつき、相田は沼崎に声をかけると、セコンドを離れた。航の方も父親に気がつく。航はそれまで熱に浮かされたような顔をしていたのにも関わらず、さっと顔いろを変えると、踵を返してしまった。


「おい! 航! 待ちなさい!」


 相田が追いかけるが出て行ってしまう。どうして、どうやってここに? 疑問が噴出し、息子を追うが、一瞬、沼崎の事も気にかかり振りかえった。

 大神が、そんな相田の背中を押した。


「追いかけたれ。沼崎のセコンドは、俺がついたる」


「すみません」


 番狂わせのスパの様相に、まだジム内のざわめきはおさまらない。

 大神がセコンドに付き、二ラウンド目のゴングが鳴った。

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