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Round 2

 御堂ジムは東京に数多あるプロボクシングジムの中でも指折りの名門ジムだ。これまでにも幾人もの日本チャンプ、そして数人の世界チャンプを輩出しており、現在もまた、かつて会長の御堂誠一が獲ったタイトルと同様のWBAバンタム級世界チャンプ荒尾秀成を初め、世界ランカー一人と日本チャンプ一人を筆頭に、大勢の練習生を抱えている。


 人の行き来の多い山手線のとある駅前の四階建てのビルにあり、一階部分がフィットネス、二階と三階部分がプロボクシングを目指す練習生たちのフロアになっている。

 電車からちょうど見える場所にあり、また看板も大きなせいか、東京の込み入った町の中にあっても、その存在を埋もれさせる事はない。


 沼崎は四階のロッカールームからすぐに筋トレ用の三階へ降りると、時計を確かめながら自らの練習メニューを頭の中で組み立てた。

 三階のフロアに部屋は一室しかなく、だだっ広い空間には、筋トレ用のマシンであるとか、ランニングマシンなどがずらっと並べられていた。一階にあるフィットネスに比べ、指導する人間の数は少ないが、その分自由にできる。特に今日のように遅い時間だと、いくら名門と言っても部屋にはまばらにしか人はなく、うるさくないのが沼崎は気に入っていた。


 十一時にはビルの照明が落ちるから、今日は二時間ほどしか時間はなかったが、試合があと二十日ほどと迫っている、一秒も無駄にはしたくない気持ちが強かった。

 ipodから耳に音楽を流しこみ、雑音を消す。

 ぐるりと首を回しながら、手首足首を柔らかく捻った。

 体の筋肉の一つ一つの調子を確かめるように、大きな鏡のある柔軟用のスペースで丁寧に体を動かしていく。もともと体は柔らかい方だったが、ここに来て初めの数カ月、プロボクシングの基礎を学ぶ際に柔軟の重要性を説かれて以来、筋トレの前は入念に柔軟をする癖がついていた。


 他にも、大学でアマボクをやっており、その際に松浦ジムというジムにも通っていたとはいえ、知らなかったボクシングの知識は多く、その点ではこのジムに入会し非常に身があったと感じていた。

 と、いうより、アマで二十勝以上あげておいて、それらの知識がなかった事に、初めについたトレーナーは半ば驚いき、半ば呆れていたほどだ。

 

 先に柔軟をしていた練習生が、沼崎に気がつくとよそよそしい様子で場所を開けた。沼崎は特に気にはせず柔軟を続ける。

 このジムには名門という看板に荒尾や御堂の名前で、全国から多数の練習生がやって来ていた。百人以上いる練習生の顔なんかいちいち覚えていられないし、興味もなかった。実際、ここに通って半年以上経過するが、親しい人間どころか挨拶を交わし合うような人間すら一人もいない。

 たぶん、初めの印象が悪すぎたのだろうと沼崎自身も理解していた。

 

 柔軟を終え、二階のフロアに降りていく。

 無機質な階段を一歩降りるごとに、金属の軋みやサンドバックが悲鳴を上げる音が大きくなり、ジム特有の熱気が漂ってきた。

 ガラス張りの扉をあけると、幕の張ったような湿度の高い汗交じりの熱が不快に頬を撫でていく。


「ラスト!」


 トレーナーの声が張り上げられ、サンドバックやリング、シャドー用のガラスの前にいた男たちの動きが加速した。ふと、ここに来た時の事を思い出す。

 沼崎は体を冷やさないように軽く動かしながら、ほぐすように肩の力を抜いて首を左右に振った。

 ここに来た時、確実に取りつけたかった約束は、すぐにB級のプロテストを受けるという事だった。C級あたりでぐずぐずするつもりは毛頭なかったし、アマで十勝以上あげていればその規定はクリアしていると理解していた。

 別になれ合いに来ているわけではない。少々手荒な方法だったが、その場にたまたま居合わせたA級の山中とスパーリングを取り付け、会長には1ラウンドでダウンを取ればB級を受けさせる、取れなければ入会を認めなくてもいいという条件で約束を飲ませた。


 結果は拍子抜けするくらいに簡単だったが、以降、トレーナーを初め他の練習生たちに良くは思われていない事くらい感じていた。

 だから、なんだ……?


 甲高いアラームが鳴り、ジムの中の空気がふっと緩んだ。

 一分間のインターバルに入ったのだ。

 シャドーの場所に移動する。まるで毒虫か何かを見るような顔で、先に鏡の前にいた練習生たちが場所を開けた。何か囁き合うのがガラス越しに見てとれるが、興味がわかなかった。構わずに体を動かし、開始の合図を待つ。

 ほどなくして、新たな三分を告げるアラームが鳴った。

 一様に我に返ったように、各々が体を動かし始める。

 沼崎も鏡に映った自分に相手をシュミレーションしながら、体を左右に振った。

 サウスポーの体から、鋭いジャブが放たれる。二発三発……調子を確かめ、次はコンビネーション。フェイントを交え、ワンツースリー。

 自分にみるのは、次の対戦相手じゃない。いつだって、イメージの向こうにいるのは一人の男だ。


 ……白石譲。


 沼崎は目を細め、自分の影にみる白石に思いっきり左ストレートを打ち込んだ。

 イメージの中で、白石の顔が歪む。なにやってんだ……と悪態をつきたくなり、さらに上体を柔らかく動かしながら、今度はアッパーを交えていく。

 泥臭い、先日の試合模様が、ありありと沼崎の目に浮かびあがっていた。

 白石の初防衛戦だ。七月に日本フェザー級タイトルマッチでチャンプの座に駆け上った白石は、わずか二カ月後には防衛戦を決めていた。

 当然、沼崎はどちらの試合もリングサイドでしっかり見届けた。

 なぜなら、自分が殺人的な忙しさの仕事の合間を縫ってまでボクシングと言う世界に足を踏み入れたのは、この男をボクシングでぶちのめす為、他ならないからだ。

 正直、白石との対決以外は単なる踏み台にしか思っていない。その踏み台も少ないにこしたことはないとも思っている。

 それは、白石の方も承知しているはずだった。

 徐々に先の仕事中に感じていた苛立ちが首をもたげ始める。

 焼けつくような感触が鳩尾あたりに渦巻き始め、頭痛にも似た怒りが勢いよく体を駆け巡る血流に乗って、隅々まで張り巡らされていく。

 鏡の向こうの、フラフラする白石を仕留めんと、さらに拳の速度を上げた。

 

 なんだ、あの様は。なぁ、白石……。


 奥歯をギリッと噛みしめる。

 初防衛の試合は、沼崎にしたら散々な内容だった。腹でも下したいたと説明でもされた方がましと思える、お粗末なKO勝ちだ。

 正直、七月のタイトルマッチ程の切れはなく、一位の浦田が白石の一回り近くも若く、伸びしろだったのを差し引いてみても、あれは自分の知る白石譲の動きではなかった。


 なにしてんだよ。


 辛勝と言うのもおこがましい。確かに、KOに異論があろうはずはないが、見ようによれば浦田の若さゆえ勝ちを急いでしまったのに加え、経験に一日の優があった白石に辛うじて軍配が上がったと取ってもいい内容だ。


 何が、俺が来るまで防衛し続ける、だ。

 何が、さっさと上がって来いだ。


 ラスト30秒のブザーが鳴った。

 白石の試合のラストと重なる。スタミナも気力もギリギリの男の影がゆらり揺れる。

 

 もし、俺が行くまで負けやがったりしたら、今度こそぶっ殺す!


 思いっきりその影に向かってラッシュする。打ち合いは本来のスタイルじゃない事くらい自分でも良く知っていた。でも、打ちこまないではいられなかった。

 自分はようやく先日二勝しA級入りしたばかりだ。チャンプである白石とタイトルマッチを組むには、どうやったって次の一勝。日本ランカーとの試合をものにして、ランカー入りを果たさないといけない。

 いや、それはただ条件を満たすというだけのものであって、実際はランカー入りしたところですぐにタイトルマッチが組めるかどうかの保証なんかない。が、少なくとも、今のままじゃ、まだボクシングと言う、兄が……白石がマットの上で殺した兄がいた場所で、やつと対決なんかできないのだ。


 白石は、一度は逃げた。

 兄の敵のために柔道を捨て、ボクシングの道に入った自分を置いて、さっさと引退しやがった。もし、もし今回もまた、自分が目の前に立つ前にリングを降りるような事があれば……その時は……。


 本当にぶっ殺す!


 思いっきり左フックを打ち込んだ。

 猛烈な勢いと、目にもとまらぬスピードに、それまでの迫力に押されていた周囲の練習生たちが凍りつく。

 死神の鎌サイズオブデスアマボクでつけられた、沼崎の異名をあらわすパンチだ。

 長い腕から振り下ろされるようにしなるフックの威力は絶大で、アマの時代もデビュー戦以来の二試合もこれで相手をマットに沈めてきていた。異様に長いリーチからの軌道は捉えにくく、柔道というバックグラウンドのせいか強靭な足腰が土台となって放たれる打撃は、まさに死神の鎌にふさわしく、相手の意識を一瞬で刈り取っていく。

 鏡の中の白石の幻影が打ち砕かれる、そのすんでで沼崎は手を止めた。


 ちょうど、インターバルのブザーがそこで鳴る。


 鏡の中で睨みつける視線。自分自身の視線を睨み返すと、周囲の引いた空気に構わず、沼崎は小さく息をついた。

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