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Round 19

 外の日は沈み、ジム内は夕闇の中、煌々とした蛍光灯の光に照しだされていた。一面ガラス張りになっている向こう側には、通過する山手線が見える。宣伝効果を狙って、駅のホームから良く見えるように設計されているからだ。

 先ほどよりジム生も増え、またリング上に立っているのが世界チャンプという事に気がついた数人の帰宅途中のサラリーマンという野外の観客も加わり、御堂ジムは簡易の試合会場と化していた。

 視線の集まるその先で、今度は相田がセコンドに立ち、軽く体を動かす沼崎に声をかける。


「無茶はいけないよ。試合じゃないんだ。本番はまだ二週間先。荒尾君には胸を借りるつもりで……」


「たぶん、向こうはそんな親切心ないですよ」


 沼崎はそう言葉を切ると、向かいの荒尾に目を向ける。向こうも完全に戦闘モードでこちらを睨みつけていた。山中とはまるで対照的な、静かで重厚なオーラが、周囲の熱気を嘘のように遮断し、リング内に緊迫した静寂な空間を作り出していた。

 正直、目があっただけで、本能の奥の部分がぞわぞわ毛羽だった。拳が小さく震えている。

 この俺が……ビビってる、だと?

 沼崎は笑みを浮かべ、世界の頂点に君臨する男に対峙する。

 今まで、柔道でもボクシングでも負けたを知らない俺が?

 ぐっと震えを握りつぶす。面白いじゃないか……。


 トレーナーの窪がレフリーに立つ。リングの一番傍には御堂が腕を組んで仁王立ちで見守っていた。

 リングの中央に呼ばれ、窪が注意事項を二人に確認する。形ばかりのそれは、二人にとっては殺意レベルまで闘志を上げる時間でしかない。


「お前の考えが甘っちょろい事を、教えてやる。青二才」


「楽しみにしてます。猿山の世界チャンプ」


「こらっ! いいか。これはあくまで沼崎の調整のためのスパなんだぞ!」


 窪が一喝するも、二人の間に散る火花を消す事はかなわない。


 一度コーナーに戻る。相田が何か言ったが、聞こえなかった。マウスピースをぐっと口の中に押し込む。

 入口付近に、小さな影が見えた。

 坊主……。

 少年が大神に連れられ、入ってきた所だった。

 坊主、見とけ。お前の親父は、弱くなんかないって所をな。


 ゴングが鳴った。


 両者、同時にコーナーを離れると、様子見の、しかし、さっきのスパとは比べ物にならな早いジャブの応酬が始まった。

 一発もお互い当てさせないが、空を切るその音が、一発当てれば通常のストレート以上の威力を持っている事を物語っていた。

 誰が見ても、さっきのスパとは異次元の戦いだ。

 御堂が、ぐっと渋面になる。

 こいつら……何してんだ。

 リング上の窪も、異変に気がつき、戸惑いを隠せない顔で会長を振り返った。二人とも気がついたのだ。彼らがいつもと全く違うスタイルで立っている事に。

 まず、通常サウスポーの沼崎が、右利きのスタイル。しかも極端なインファイトをしていた。まるでさっきの相田だ。そして荒尾は……。


 荒尾の右ストレートが、入り込みすぎていた沼崎の横っ面と腹を上下に打ち抜いた。すぐに離れるが、離れ際にも左を脇に置いていく。沼崎が構わず追うように距離を詰め、飛び込むように右を放つ。受け流し、さらに体を振った。


―― こいつ……。


 沼崎は、荒尾の動きに奥歯を噛みしめた。

 許せぬ思いがぐらぐらと恐怖を塗りつぶし、本能のままにたぎり始める。


 両者、思いっきりカウンターを合わせ、クロス。互いに入る。リーチ分沼崎のパンチが深く食い込んだものの、両者クリティカルには届かない。

 はじかれる様に離れ、再び距離ができた。

 荒尾は、沼崎が自分の意図に気がついた事に勘づくと、目をすっと細める。そして、わざと見せつけるように、肩を上下に揺さぶった。


―― こいつ! こいつ! こいつ!


 それは、沼崎航の、死んだ沼崎の兄の癖だった。

 荒尾はわざと、沼崎航のスタイルで対戦していたのだ。


 普段の荒尾はバランスの良いボクサーファイター。中間距離で手堅く攻めるタイプだ。器用さはないが実直で、打たれ強い。我慢のボクシングで、チャンスをこじ開けながらも、ダメージを相手に蓄積させ、最後一発で沈める。そんなチェスで相手を詰ませ、最後の一手で息の根を止めるようなスタイルだった。


 一方、沼崎航は、器用な選手だ。天才肌で頭の良さを感じさせるスマートな動きをする選手だった。沼崎自身も踏襲している部分は多大にあるが、相手の弱点を突き、自分の武器を最大限に生かせるような試合運びをする。

 兄の航と弟の透也の大きな違いは、透也が空間を恐怖のどん底に突き落とすような試合なのに比べ、航は観客や相手選手すらも自分のペースに引きずり込み魅了する戦いをする点だ。まるで皆に魔法をかけるような劇的で華麗な戦い方は、しばしば劇場型ボクシングとも揶揄され、当時スポーツ記者だった多恵がつけたニックネームも、白の魔術師ホワイトマジシャン。まさに、光と闇のような兄弟だった。


 荒尾は今、その魔術師のまねごとを沼崎にやって見せているのだった。

 華麗なステップと鮮やかで柔らかいフェイントで、相手を翻弄するような動き。それでいて、冷静で、的確に隙を突いてくる重いパンチ。なにより……。

 また、肩を動かした。

 天才の兄が、最後の最後までどうしてもぬぐい切れなかった肩の癖だ。特に隙を生むわけでも、法則があるわけでもないので、試合上には支障のない癖だったから、捨て置いたものだったが、しばしば、兄弟の間では笑いの種にしていたものだった。

 たぶん柔道の、胴着を直す癖だ。

 沼崎はその兄の癖を見るたびに、かつて一緒に柔道の頂点を目指していた事を思い出す事が出来、誰に言う事もなかったが、ひそかにホッとしていた。

 誰よりも尊敬したいた兄さん。

 誰より自分を認めてくれていた兄さん。

 誰よりかっこよくて、誰より凄くて、誰より強い……俺の兄さん。

 それをっ!


 荒尾が、また、あの癖を見せた。

 沼崎がキレた。目の色がガラッと変わり、闘気が殺意に変わる。相田のスタイルを崩し、従来のサウスポーに戻ると、いきなりラッシュを仕掛けた。強引に拳で荒尾のガードをこじ開け、さらに踏み込みボディに右を二発打ち込む。

 しかし、荒尾はそれを冷静に対処した。ダメージを受けながらも、魔術師よろしく、ステップを駆使し死神の鎌をかわそうとする。

 ふ、ざ、け、る、な!

 しかし、何より大切な兄との思い出を踏みにじられた思いの沼崎は、目の前の偽物を逃がすつもりは毛頭なかった。何のためらいもなく、ノンモーションで大鎌を偽魔術師に振り下ろす。

 が、一瞬、魔術師の動きが早かった。

 鎌の切っ先は僅かに脇を抉り、宙を切る。しかし、深くは入らずとも確実に獲物にダメージを刻み込む鎌の威力で、荒尾は次のモーションにはすぐに移れない。


 再び、仕切り直すように互いがリング中央で距離をとって対峙する。

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