Round 18
一瞬、ジム内に緊張が走った。
完全に、相田の顔が天井を向いてしまったからだ。
そこに、山中のラッシュが容赦なく相田のボディに打ち込まれる。たった一発の不注意な手が、一瞬にしてピンチを招いてしまったのだ。
「相田さん! 逃げろ!」
言える言葉の選択肢はほとんどなかった。まだ、気力と意識のあるうちに、まずこの危機を回避し、建て直さねばならない。
相田はなんとか大きくバックステップし、着地と同時に体を振ると、なんとか山中の猛攻から逃げ切った。たまたま後方にスペースが残っていたのと、スパが序盤で体力に余裕があったのが幸いした。
ゴングがここで鳴った。
ため息のような声がジムを揺らし、緊張がほぐれる。
沼崎はコーナーに戻ってきた相田の顔を見ながら
「ダメージは?」
と口早に利いた。相田は深呼吸しながら首を横に降り、苦笑いする。
このラウンドで、山中の進化と相田のスタイルをだいたい把握したつもりだった。沼崎は素早く互いの長所短所を浮かべながら、なんとか相田が勝利する方程式を捻りだす。
圧倒的に相田が不利なのは目に見えていた。
ラッシュを受けたからではない。もともとのセンスに絶望的な開きがありすぎるのだ。
試合を控え、仕上げにかかっている相田に比べ、格上ではあるが山中は試合の決まっていないローテをこなすだけの期間だ。同じ級といっても体重に開きがある。しかし、モチベーションといった点では、たぶん同等だろう。試合前に自分の闘志を高めておきたい相田はもちろんだが、ここ最近振るわない山中も、そのスランプから抜け出すのに必死に違いない。
ふざけた奴ではあるが、今の動きで、奴なりに研究し進化しようとしている姿勢はうかがえる。
しかし、今まで徹底的にガードを固めたインファイトだった人間が、急にあんなトリッキーな動きで持つはずはないと、沼崎は分析していた。
確かに、山中のセンスは良い。もともとの器用さや勘の良さもあるのだろう。さっきの動き自体は悪くはなかった。しかし、慣れない動きのせいか、攻撃に転じる際、隙がないわけではなかった。また、あの動きで一発当てた後も、一瞬、気を緩ませてしまうのかあてた腕を引くタイミングが、いつもより若干遅い気がした。スタミナも、今後持つかどうか怪しい。
もし、相田に勝機があるなら、むしろ、山中のその新しいスタイルにあるように思えた。ガチのインファイト同士なら、パンチもスピードもある山中に簡単に軍配が上がる。ここは、相手のスタイルを刻むパンチで崩していきながら、バテるのを待つのが無難だろう。
一方、相田の弱点というか欠点は、徹底的なスタンダードさにあった。悪いわけじゃない。でも、素直すぎるほどのスタイルは、先を読まれやすい。もちろん、素人に比べ、ずっと多彩で柔らかな動きは見せているが、それでも、フェイントやパンチをよけた後の次の動きがパターン化されすぎているように見えた。もちろん「どうしていいかわからないから、とりあえず出しました」と言わんばかりのさっきのようなうっかりした手は命取りだ。今後一切、出してほしくない。
佐野の動きに似ているな。
思わず、大学時代の先輩を思い出したほどだ。彼もファイターだった。しかもかなりセンスの悪い、もう、打たれること前提でリングに立つような、そんなスタイルだ。それでも、大学時代、自分と試合をし、心に残る試合をしてくれた。今、プロになっても、佐野との試合以上に熱くなれた試合はない。
つまり、センスがどうのこうのじゃない。相手と自分の力量とスタイルを正確に見極め、きちんと戦略を立てる事が出来れば、少なくとも一方的にやられる事はないのだ。
「相田さん。山中は、必ずまた、あの妙な動きをしてきます。その時、隙が必ずできます。刻むパンチでリズムを崩してください。時間はかかるかも知れませんが、奴がバテるのを待ちましょう」
「妙な動きとは、言ってくれるねぇ」
耳打ちをしていると、レフリーをしていた山中のトレーナーが声をかけてきた。沼崎はマウスピースを相田に返しながら相手を逆なでするような態度で、肩をすくめて見せる。
「なんですか? 相田さんのダメージならありませんよ」
敵意むき出しの沼崎の物言いを庇うように、相田も続ける。
「大丈夫です。伊藤さん」
「そうか」
伊藤は茶髪の髪をかきまわしながら。
「お前はどう見てるか知らんがな、俺はこいつのトレーナーでもあるんだ。俺には俺の考えがある。妙な事は吹き込むなよ」
驚き不快感を隠そうともしない沼崎に、釘をさして去って行った。
少し混乱する。相田のトレーナーでもある? じゃ、どうしてこんなむちゃなスパを承諾したんだ? その疑問を口にしたわけではなかったが、どうやら顔が言葉にする以上に語っていたらしい。相田は伊藤と話しこむ山中を見ながら言った。
「伊藤さんも悪い人じゃないんだ。ただ、自分の一番弟子の山中がスランプで、何とかしてやりたいんじゃないかな。二敗する前は、山中はこのジムでもホープって期待されていたんだ。それに、あの性格だろ? 波に乗れば実力以上の力を発揮するけど、テンションが落ちたらとたんに崩れるタイプだから」
「普通、試合前のスパは、出場選手の調整のためにするものでしょ? なのに、こんなの……調整もへったくれもない。ただの模擬試合だ」
「いいんだよ……」
相田はこれ以上話すつもりはないとでもいうように、自身の口にマウスピースを含ませた。
確かに、山中はこれからも期待できる人間で、相田はどうせ勝っても負けても、次で引退のボクサーだ。でも、だからって……。
胸になんとも言えないわだかまりが、黒い泥となって充満し始める。理屈や利害を超えたものが、その泥に熱を帯びさせ、肺を内側から焼きつかせそうだ。
相田が、一瞬振り返った。
軽く沼崎に拳を上げている。それは、アドバイスや心配への感謝にも見えたが、目が……諦めていないのに沼崎は気がついた。相田は、何も、自分が山中の踏み台になろうとしているわけではないらしい。彼は彼なりに、勝とうとしているのだ。
沼崎は顎を引く。
二ラウンド目のゴングが鳴った。
次は、相田から仕掛けた。
山中はモーションに入る前に打ち込まれ、驚き身を引く。数発、相田から牽制のパンチが飛び出る。山中はなかなか手が出せず、サークリングしながら首を左右に降った。そこに間髪いれず、相田がつめよる。山中にロープを背負わせた。
右フックが山中の脇に打ち込まれる。しかし、山中のがっちりとしたガードでそれは阻まれた。逆に山中の突き上げるような左がまとまって相田の顔面を揺らす。
離れ際に、互いに腹にボディを打ち込んで、距離をとった。
なるほど、山中があの動きをする前に、先手を打ったらしい。経験のある相田は相田なりの戦略を組み立てていたというわけだ。
しかし……。
再び山中のスピードが上がった。懸念していた通り、相田の動きがまた、止められてしまう。さっきみたいな不用意な手を出すなよ。冷静に見極めてくれ。
沼崎が祈るような気持ちで見ていると、山中の牽制の左の後、相田が一歩、踏み出した。あのスピードの波をかいくぐって、懐に綺麗に入り込んだのだ。
「左右纏めて!」
思わず叫んでいた。同時に、相田は右ストレートで山中のテンプルを揺さぶると、返す左でもう一発顎に打ち込んだ。
いける! そう思ったのは、そこまでだった。
山中が、キレた。
あの堅いガードを解いたかと思うと、重い重い一発を相田のテンプルに打ち込んだのだ。
物凄い音が響き、相田の体が揺れる。さらに追い込みをかけようと山中が拳を振るった、すかさず伊藤が二人の間に体を割り込ませた。
両手を大きく振る。相田を抱え覗きこむ。相田は伊藤に笑って見せ、ふらつく足取りでコーナーに戻ってきた。
「ごめん。やっぱ、山中君は強いやぁ」
長閑な口調に、一瞬ひやりとしたこちらの力が抜ける。
「相田さん」
「でも、いいスパだったよ。山中君にお礼言わな……あれ?」
―― そうだ、坊主!
沼崎は顔を歪めると、今の今まで忘れていた少年の存在を思い出し、慌ててコーナーから離れた。スパの感想を口々に囁き合う練習生をかきわけ、大神の元に戻る。しかし、航の姿はそこにはなく、沼崎は視線をめぐらせた。
「帰ったで」
「え?」
大神は苦々しく口を歪め「ショックやったかもなぁ」と呟き、腕を組んだ。二人で航が出て行ったであろう入口を見やる。
「一ラウンドのラッシュの時や。いきなり帰る言うてな。親父を待てって言ってんけど、自分一人で帰れるからって……。まぁ、親父がボコられてんのなんか、見てられへんやんなぁ」
沼崎は大神の言葉を聞きながら、拳を握りしめた。
こんなつもりはなかった。ただ、自分は……。
「沼崎」
自分への苛立ちと、やるせない気持ちが体内にたぎり始めた沼崎に声をかけたのは
「荒尾さん」
すっかりアップを終えた世界チャンプだった。荒尾の登場に気がついたジム生達が、今の興奮そのままに声を上げる。
「準備して来い。リングで待ってる」
「……わかりました。大神トレーナー」
「ん?」
声をかけられると思ってなかった大神が、きょとんとして自分を指差す。沼崎は頷き
「まだ、近くにいるはずです。さっきの子をここに」
「え?」
「お願いします」
航を託した。このままじゃ、終われないと思った。リングの上の相田が心配そうにこちらを見ている。沼崎はそれを一瞥すると「準備してきます」とだけ答え、その場を後にした。




