Round 16
ボクサーというより、柔道家の握力だった。たぶん、その気になれば、いつだってこの少年の細い骨くらい、砕く事は出来るだろう。
世の中、少年法とやらが存在するが、沼崎個人には罪に性別も国籍もそして年齢も関係なかった。他人に害を及ぼす能力があり、それを悪意を持って行使した時点で、裁かれるべきだと思っていた。
もっとも法に携わる人間として、どんな悪法であれ破るつもりはなかったが……罪の芽を摘み取るのにはなんら躊躇いはなかった。
「今、ものすごく俺は気分が悪いんですよ。むかつくから、誰かを殴りたい。殴りたいなら、弱い奴を殴る。……お前なら、この理屈、わかりますよね?」
「あ……あ……」
「おじさんも、混ぜてくれださいよ。その楽しそうなプロレスに……」
少年の瞳に、見る間に涙があふれてくる。しかし、沼崎はかまわず肩を捻りあげると、いきなりそれを解き、少年の鼻先で
パンッ
手を一つ叩いた。
「ひっ」
少年の体がびくっと跳ね、へなへなとその場にしゃがみ込む。何が起こったか分からず、目を点にする仲間たちの前で、その少年の座り込んだ地面がじわっと濡れ始めた。小便を漏らしたのだ。
「おいおい。まだオムツもとれてねぇのか? 俺の車が汚れるだろうが。自分で便所にも行けねぇガキは、さっさと家かえって、母親にでも甘えとけ!」
沼崎の恫喝に、子どもたちが飛びあがるように散っていく。へたり込んだ少年も、辛うじて立ちあがるとべそをかきながら、ふにゃふにゃな足取りで駐車場から逃げて行った。
彼らを見送りながら沼崎は苦笑すると、たっぷり時間をかけてから、航を振り返った。
「久しぶりですね」
「……おまわりさん」
「沼崎透也です」
航は耳や頬を赤く染め、今にも泣き出しそうな顔で立ちあがる。目も合わせずに、自分で服についた砂を払うと、しばらくそこに言うべき言葉を落としたとでもいうように、うろうろと視線を地面に彷徨わせた。
「沼崎さん。お願いです」
「何でしょう?」
ようやく開いた口からこぼれたのは、感謝ではなく依頼の言葉だった。腕を組み、少年のペースに合わせる。昔、兄の航がそうしてくれたように。
今でも忘れない。自分のいじめを知った時、自分以上に怒り、泣いてくれた日の事を。だから、この小さな航にも……というわけではないが、この少年がどうするのか興味はあった。
航少年は、ぐっとその細い腕の先にぶら下がっている小さな拳を握りしめている。先ほどの連中に比べても、ずっと頼りない体つきだ。とうてい喧嘩なんかまともにできるようなガタイには見えない。
「と、と、とうさんには……」
「あぁ、言わない」
「本当に?」
航の顔が切実な表情で向けられ、沼崎は出来うる限りの真剣な表情でうなずいた。
「警察は正義です。嘘はつきません」
「ありがとう」
航はほっと、胸をなでおろし、胸の前で自分の手を結ぶ。沼崎は興がそそられ、先ほどと同じように腰を落とすと、少年に目線を合わせた。
「で、君はどうするんです? さっきの連中。次はもっとひどい仕返しが来るかも知れませんよ」
「それは……」
航はあの連中が消えて行った方向を不安げに見やり、すぐに沼崎に視線を戻した。すがるような眼で、肩にぐっと力を入れている。
「おまわりさんが、また……」
そうきたか。
沼崎は前髪をかきあげると、軽く首を横に振って少年に背を向けた。
「甘えるな」
「え?」
差し出されていたと思い込んでいたその手が取り上げられ、また、口調や雰囲気もがらりと変えた沼崎に少年は戸惑い、後姿を見上げる。
「だって。沼崎さん、警察じゃ……」
「あぁ、警察だ。だから、子どもの喧嘩にいちいち構ってるほど暇じゃない」
「でも、さっき!」
声を上げ、ズボンのすそを引っ張る航を冷たい目が振り返る。
「……そうやって、いつまでも誰かをあてにしていくつもりか?」
「それは……」
「俺に頼むなら、どうして、父親には相談しない?」
頭上から降ってくる質問に、航の顔が険しくなる。そして憤りと悔しさを押し込めたような膨れ面になると、顔を伏せて愚痴るように呟いた。
「言ってもしょうがないから」
「どういう事だ?」
「言ったって、あんな父さんにはどうしようもないって言ってるんだ!」
意外だった。沼崎は相田に言えないのは心配をかけたくないからなのかと思いこんでいたからだ。いや、その推測だって全否定はまだできないにしろ、この息子からこんな言葉が出るとは思わなかった。ますます少年に興味がわき、じっと彼を観察する。
「沼崎さんは強いんだよね? 父さんが話してた。今まで負けなしで、今度も絶対に勝って日本ランカーに入るだろうって。馬鹿みたいだよ。人の話ばっかり。自分は一勝もした事ないくせにさ」
「父親に話したくない理由はそれだけか?」
「それは」
航は言葉を濁し、うつむいた。すぐにさっきの勝気な声色は潜められ、元の弱気が顔を出す。親子そっくりだ。
やはり、心配をかけたくない気持ちも多少はあるのかも知れない。ふがいない父親への、精いっぱいの強がりや、自身のプライドもあるだろう。なるほどね……。
そう思いながらも、少年の複雑な気持ちに沼崎は目を細めた。
父親か。
自分には二人の父がいる。尊敬と感謝の気持ちでいっぱいの沼崎の父に、嫌悪と憎悪しか感じられない峰井という実の父だ。もう、二人ともこの世にはいないが……それでも、この少年が感じているような感情は抱いた事はなかった。
複雑で、素直になれなくて、息苦しいような、こんな気持ち……。
「俺は今からジムに行く。一緒に、来るか?」
「え?」
「相田さんは、坊主が思うほど弱くない。少なくとも、自分の問題を他人に任せるような事はしない」
沼崎はそれだけ言うと、さっさと運転席に乗り込んだ。
相田には、先日の山中の一件に加え、腕のいい整骨院を紹介してもらった恩もある。それに……。
人の良さそうな顔を思い出す。三六歳。最後の引退試合を前にした、まだ一勝もした事のないボクサー。人に馬鹿にされ、生活も圧迫し、家族も手放しかけるような状況。普通ならとっくに諦めているような、そんな立場に立ちながらも、たった一度の勝利を求め拳を振るい続ける。そんな……阿呆。
自分には全く縁の遠い世界だ。でも、だからこそ、気になった。
ボクシングなんかで、どうして人生をかけられるのか?
ボクシングごときに、なぜ、こんなに必死になれるのか?
「あぁ」
航が慌ててその小さな体を後部座席に滑り込ませてきた時、沼崎は思わず声を漏らす。
だから、気になったのか。
相田は、兄と一緒なんだ。ボクシングに人生をかける、その姿が、リングの上で命を落とした、あの兄と。だから……。
「出すぞ」
怪訝な顔でミラー越しに自分をうかがう少年に、沼崎は誤魔化すように声をかけると、キーを回した。
ボクシングをする理由。戦う理由。
多恵と最後に交わした声が蘇る。
そんなの……白石をぶっ殺し、兄の強さを証明する。そして、兄との約束『最強の兄弟』になる約束を果たす。俺にはそれ以外、あるもんか。
沼崎は先の見えない道を見据えると、アクセルを踏み込んだ。




