Round 15
一度行った場所は、たいてい忘れない。
沼崎は迷うことなく、先日、相田の息子の航を拾った印刷所の近くまで車で来ると、ほどなくして整骨院をみつけた。幸い、整骨院の裏にある院専用の一台しかない駐車スペースは開いていた。舗装もされていない空き地のような駐車場には、境界線も消えかかっており、他にある五台ほどのスペースには一台の車もなかった。案内の看板も、雨風で色褪せている。そのぼんやりとした時代をしのばせる簡易地図に従って表に回り、整骨院のドアを開けた。他に患者の姿はなかった。
すぐに中から、初老の男が出てきて、相田から話は聞いたと診察室へ案内される。
茶色いストレッチャーのようなベッドに腰掛けさせられた。
いくつかの問診と、相田がしたような各部位の機能の点検を行ってから、施術に入る。やはり首筋と左拳に多少の問題があったようだが、施術後は嘘のようにどちらからも違和感が消え去っていた。
ほとんど無駄口を叩かない整体師だったが、沼崎にはかえってそれが好印象になった。
柔道時代の事を、少し思い出したのもあるし、なによりこの後に荒尾と手合わせできる高揚感があった。
上着を着ながら、そういえば、柔道をやっていた頃はこんな風によくコーチや監督に世話になったな、と懐かしく思う。
今を持ってしても、やはり沼崎の中ではボクシングより柔道の方が上だった。
沼崎のカルテを書く整体師の背中をみやり、その頃の仲間と重ね、唯一、沼崎の線の細い顔つきの中で格闘家らしいと言える、つぶれた耳を触る。柔道家にとって、これは練習の証であり、誇りでもあった。
兄と道場に通っていた時も、オリンピックの候補生と目されていた時も、いつだって自分は一人じゃなかった。
畳の上に一たび立てば敵しかいないあの競技は、それでもたくさんの人の期待や想いを背負って、そこにいたような気がする。
仲間が、コーチが、支援者が、父が、母がそして……誰よりも兄が、自分を見守り支えてくれていた。良く良く考えれば、もしかしたら自分は闘争心や野心には遠い性格だったのかも知れない。
ふと、思い至り、奇妙で愉快な気分になる。
格闘をやって、さんざんに人を殴りつけておいて、この言い草はないかもしれないが、そういえば帯を締めていた時も、タイトルを獲りたいだの、他の人間の存在だのは、興味がなかった。いつだって、誰かに喜んでもらいたくて、いや、誰かに自分の存在を許してもらいたくて畳の上に立っていた。
自分がここにいても良い証。一緒にいても良い許可を、必死に手に入れたがっていたんだ。
じゃ、今……俺がやってるのはなんだ?
何かが、自分の中で、ぐらりと揺れ動きそうな不安を覚えた。そのタイミングで、施術を施した整体師が振り返る。
また、後日、できれば間隔を開けずにくるように言われ、沼崎は思考を止めると、礼を言って頭を下げた。
整骨院を出ると、残暑の熱風が路地に吹きぬけて行った。かすかな土埃に混じるのは、鉄工所や印刷所などからの、様々な化学薬品や金属の匂いだ。立ち話をする主婦たちや、玄関先に小さな腰かけを出し、将棋を打ち合うほぼ半裸姿の老人や、自転車で通り過ぎようとする新聞配達員の姿も見える。
同じ東京でも、自分の住まいの周辺とは全く違う風景に、不思議と心がほぐされた。
普通の人が、普通に生活を営む場所。自分が守りたいのは、こんな何気ない風景だ。そのために、皮肉にも自身が身を置くのは、殺伐とした血の臭いがするような吹きだまりだが、やはり、こういう場所に来ると、警察という仕事も悪くはないんじゃないかと思える。
車のエンジンキーを調子の良くなった左手で弄びながら、駐車場に回った時のことだった。
複数の子どもの声が、した。初めは無邪気に遊んでいるように聞こえたその声に、しゃくりあげる泣き声が含まれているのに気がつく。
自分の車の陰で、複数の子どもたちが、地面に向かって何かしているようだ。
少し体を傾け、首をのばすと、四人ほどの少年が一人を囲んで石を投げたり蹴ったりしているのが見えた。
イジメか。
何も、いまどき珍しい光景じゃないし、こんなもの誰もが通る通過儀礼のようなものだ。むしろ、こういう時間を通して、理不尽さも無力さも知る。
「なんて……俺がわかったような口利くわけねぇか」
沼崎は苦笑しながら、車の裏に回ると、良く通る声で少年たちに声をかけた。
「お前ら、人の車の傍で何してる」
中でも、一番がたいの良い少年が、にやけ面で振り返った。一瞬、知らぬ顔の沼崎に緊張するが、すぐに生意気な目をすると、悪びれもせず
「プロレスごっこでーす」
と答えた。他の少年たちが、やられていた少年をかくすように壁になる。
何がプロレスだ。昔から、こういった輩の嘘は進化しないもんなんだな。沼崎はこみ上げる胸糞の悪さを飲み下しながら、一歩歩み寄った。
その時、ようやく、人垣の向こうにやられていた少年の顔が見える。意外なその顔に、沼崎の眉がピクリと動いた。
―― 航?
妙に溜飲が下がり、なるほどと思う。やはり航はいじめを受けていた。しかも、それは父親の帰りを待つ間に預けられる職場の近くで、だ。むしろ、こいつらがあの職場の人間の子どもの可能性だってある。
航が涙と泥でぐしゃぐしゃになった顔を伏せた。
悔しさと恥ずかしさが混じったその表情に、自然、こみ上げるものを感じる。
理由なき暴力に、日々削られる自尊心。大人にすれば、子どもの単なるヤンチャだと片づけられる事かもしれないが、本人にとっては死活問題の地獄のような時間なんだ。
しかも、一方で、そこから抜け出す道が探せず、助けを声高に叫ぶ事もできない。
心配をかけたくない。
格好悪い自分を知られて失望されたくない。
こんな自分でごめんなさい。
こんな僕を嫌わないでください。
身を切るような思いが、助けを求めようとする心に蓋をするからだ。そして、一人、薄っぺらな優越感と絶望的な孤独に、まさに身も心もボロボロにされるのだ。
沼崎は航に一つ頷いて見せると、一歩前に進み出た。
威圧的な沼崎の態度に、少年たちがたじろぐ。
「そうか。プロレスっていうのは、一対四でするものなのか。それとも、お前らが弱いからハンデなのか?」
嘯いた少年の顔が引きつった。
「おじさん。ほっといてよ。おじさんには関係ないだろ?」
「関係あるかないかは、俺が決める。それにな……」
沼崎はしゃがんで、あえて少年と目を合わせた。筋者をも怯ませるその眼光に覗きこまれた少年は、生まれてこの方感じた事のないような恐怖に、唇を凍らせた。血の気が音を立てて下がってゆき、急に足元がぼつかないほどの不安に苛まれる。
沼崎の大きな手が、少年の肩をぐっと掴んだ。
一気に寒気が足元から背中を駆け上がり、少年は鞭を打たれたように体を硬直させる。
沼崎には、子ども相手に国家権力を出す必要も、大人の理屈や力を見せつける手間も感じていなかった。どのみち、いじめをするような子どもには、いや、大人もだが、そんな輩には、倫理もルールも関係ない。何を話したところで、一つも響くわけないのだ。
なぜなら、奴らは罪の意識がずっと低いから。ほとんど皆無といっても良いだろう。そういう奴の良心や常識に訴えたところで、0に何を掛けても0のような結果にしかならない。
英語圏の人間には、英語。スペイン語圏の人間にはスペイン語。筋者にはその筋の言語を使用するように、こういった種類の輩には、同じレベルの言語を使用するしかない。もっとも、それが言葉という形になるかどうかは別として。
沼崎はそらそうとする少年の目を、じっと逃がさないように見つめてから、にやりと笑った。一見、温厚で柔和に見えるその笑みを脅威に感じているのは、直接標的とされているこの少年一人だ。他の取り巻きの少年たちですら、今の今まで自分たちを先導してきたリーダーが何に怯えているのかわからない。
沼崎は、骨を捩じ切るような信じられない力で、少年の肩を握っていた。




