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Round 14

 相田は眉を下げ困ったような笑みを浮かべている。が、その手は強く握られ強い意志を感じさせた。


「沼崎君。君の気持ちもわかるけどね、ここは大神トレーナーや会長の言う事を……」


 顔を上げると、二人がこちらを見ていた。その向こうに見える入り口付近には、世界チャンプの荒尾がジムに入ってくる姿が見える。荒尾も自分たちの不穏な空気に気がついたのか、その場で足を止め、怪訝な顔をしてこちらを見ていた。


「この間の俺の職場の近くに、前に勤めていた整骨院があるんだ。そこは腕もいいし、ボクサーの事は結構詳しいんだ。一度、そこにみてもらいに行っておいで」


「しかし……」


 まだ決心が鈍らず、縄跳びを手放せない。相田はそんな沼崎の手をゆっくり解くように、縄跳びを取り上げた。


「一度行っておけば、大神さんも御堂会長も、少しは安心するさ。君も、色々ごちゃごちゃ言われるよりは、その方がいいだろう?」


「……まぁ」


「じゃ、決まりだ」


 有無を言わせない柔らかな口調に、沼崎は珍しくペースを飲まれてしまった。確かに、相田の言う事は一理ある。


「受診したら、また戻ってきますから。トレーニング、受けさせてくださいね」


 沼崎に念を押され、御堂は苦笑しながら駄々っ子を見るような苦笑で頷く。「俺から院には電話入れとくから」という相田の声を背に、あえて大神の方はみないように沼崎は出入り口に向かった。

 

 じっとこちらの様子をうかがていた荒尾と目が合う。

 荒尾秀成は御堂ジムの唯一の世界チャンプだ。奇しくも御堂がとった同じ階級で、同じ年齢に世界のベルトを腰に巻いた選手だった。もちろん、この名門ジムのトップに君臨する男で、練習生はおろか、彼の担当トレーナーの窪と会長の御堂以外は、スタッフでさえ荒尾に頭が上がらない。

 とはいえ、荒尾自身は寡黙で偉ぶるような性格ではない。むしろ誰よりもストイックで、己に厳しいタイプだ。なのでジム内では、彼の持つタイトル云々より、そのボクサーとしての生き方に憧れ尊敬の念を抱く練習生がほとんどだった。


「試合前に怪我か。余裕だな」


 それはすれ違いざまの事だった。

 荒尾が低い声でぼそり、沼崎に苦言を零したのだ。沼崎は廊下に一歩だしかけていた足を戻し、荒尾の動かぬ横顔を睨みつける。

 精悍な顔立ちの男だった。細面の沼崎とは対照的に、えらの張った打たれ強そうな形の輪郭をしている。糸目といってもよい細い目はつりあがり、太い眉が意志の強さを思わせた。鼻がどっかり顔の中央で座っていて、もはや骨は存在しないように見える。これも、すっと鼻筋が通り、まだ曲がってもいない沼崎とは対照的な形だった。


「そうですね。たかが日本ランク入りの試合ですからね」


 挑発的な視線そのままに、沼崎はあえて生意気な口を利く。ジム内に沼崎に向けての非難感情が湧きあがると同時に緊張が走る。めったに表情を崩さない荒尾のその顔が、修羅の如く憤怒に歪められたからだ。視線が凶器になるならば、それだけで相手をのしてしまいそうな目つきで、身長差のある沼崎を睨みあげる。


「プロボクシングの誇りを汚すつもりなら、俺が許さない」


 様子をうかがっていた練習生たちの鳥肌が一気にたち、背筋に冷たいものが滑り落ちる。自分に言われているわけではないのに、恐怖にすくみあがる者も少なくはなかった。

 しかし、当の沼崎は、周囲がハラハラするほど口の端をつり上げ、不遜な態度を改めようとはしない。


「許さなかったらどうなんです? ここでは貴方の許可がなければボクシングができないのですか?」


 相手を小突くような沼崎の物言いが、さらに二人の間の緊張を高めた。荒尾はゆっくりと体の向きをかえ、真正面に沼崎と対峙すると、ぐっと襟首をつかみ顔を寄せた。沼崎の薄笑いの目を覗きこみ、真意を見定めるようにしばし睨みつける。

 まさに一触即発の空気に、御堂が動こうとした時だった。荒尾の口から掠れた声が、沼崎の鼻先に押し付けるように放たれた。


「お前、ボクシングを侮辱してるな?」


 沼崎は首を傾げ嘯いて見せる。


「尊敬するべきポイントが見当たりません」


「なら、なぜ、ここにいる」


「あなたに話す必要がありますか?」


 低く唸る闘犬のような荒尾の拳を、パンとはじき自分の襟を解放させると、服の乱れを直しながら、沼崎は鼻で笑った。

 やっぱり、ボクシングをやるような奴は、どいつもこいつも野蛮で阿呆ばっかりだ。沸点がとにかく低いし、思慮も浅い。礼儀もわきまえなければ、自身の過大評価だって当たり前のようにする。


「お前が考えているほど、ボクシングは簡単じゃない」


「そうですか? 自分には残念ながら、そう感じさせてくれる相手はまだ見当たりませんが」


 ジム中を敵にまわすような沼崎の態度に、荒尾は拳を握りながら、一度自分の怒気を逃がす様にため息をついた。そして、再度、沼崎を睨みあげると、たっぷりの間を置きながら、一言一言、沼崎の横っ面にねじ込んだ。


「戻ってきたら、俺が、相手してやる」


「え?」


 思わず沼崎は笑みを浮かべ、訊き返してしまった。

 世界チャンプが直々に練習台になるというのか? これはいい!

 手を打ちたい衝動を辛うじて抑え、嬉々として荒尾の顔をみる。荒尾は口を挟もうとする御堂を片手で制し


「すみません、会長。勝手な事をして。でも、これじゃ他の練習生にも示しがつきませんから」


 とキッパリと制止をはねのけた。


「俺が、ボクシングの難しさと誇りをお前にたたき込んでやる」


「楽しみにしていますよ」


 本音だった。沼崎は久々に感じる興奮を体中に感じながら、形ばかりの礼を皆に向ける。

 ボクシングなんか大嫌いだし、仲間も理解者も、必要ない。

 沼崎は非難の視線を背中に痛いほど感じながら、一人、ジムを後にしたのだった。

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