Round 13
「お前、これ、どうすんだよ」
ジムに入って、御堂の口から出た二言目の言葉がこれだった。ちなみに一言目は挨拶に対する「おぅ、こんな時間に珍しいな」だ。
沼崎は包帯の巻かれた右拳を見やる御堂に苦笑しながら「昨日仕事で……」とだけ答えた。あの事件が世間にどのように報道されているのか、はたまた春木の一件のように隠ぺいされているのかは分からないが、深く話す必要もないと思われた。大切なのは、試合を取り上げられないようにすることだけだ。
「仕事って……。お前、大丈夫なのか?」
御堂の様子に、一応自分の担当という事になっている、このジムのチーフトレーナーである大神が駆け寄ってきた。御堂はほれっと大神に沼崎の手を見せる。
大神は、まだ三十代そこそこの関西出身の若いトレーナーだった。体育大を出ているだけあり、年齢にそぐわず、様々な知識と技術は持ち合わせている。自身もプロボクシングの経験もあり、十分に御堂ジムのチーフトレーナーとしての役割を果たしている男ではあったが、沼崎は毛頭彼の指示に従うつもりはなかった。大神が気に食わないわけではない。自分の事は自分で決めたいのだ。
案の定、大神は勝気な視線をちらりと沼崎に送ると、ほぼ断りもなく、包帯を解いて怪我の具合を確認した。
「他に怪我はあらへんか? 試合まで、もうこんな仕事はないやろな?」
沼崎は答える義務はないと肩をすくめるだけでやり過ごそうとしたが、御堂がその前に軽く沼崎の足を蹴り、彼は渋々口を開いた。
「試合まで、仕事は休める事になりました。たぶん、あす以降も早い時間からジムには来られると思います。怪我は他にはありません。この掌の切り傷も、一週間ほどで完治との医者の診断でした」
嘘はついていない。一応丁寧に説明すると、これ以上関わるなと言わんばかりに大神から自分の手を引き上げた。器用に包帯を巻きなおして行く。
それを見ながら、御堂と大神はいかつい顔をさらに険しくして、なにやら顔を見合わせていた。
「調子は上がってきているのか?」
「問題ありません。スパできるくらいまでには、仕上げてますよ」
自分にトレーナなどは必要ないといわんばかりに、二人の視線をはねのける。しかし、大神は無遠慮に何箇所か沼崎の体を触ると、さらに顔を険しくした。
「打身も何箇所かあるなぁ。今日はミット打ちやサンドバックはなしで、一日、基礎トレだけやな」
「断ります」
「へ?」と言葉を詰まらせる大神に、沼崎は巻きなおした包帯の緩みがないか確かめるように掌を開閉し、カチンときた様子の大神を見やった。
「自分の事は自分が一番理解していますし、責任も持っています」
トレーナーだかなんだか知らないが、お前は口出すな……という一言は飲み込み、にっこりとほほ笑む。その笑みを大神は気色悪いと噛みつかんばかりに睨みあげた。
「あのなぁ。そういう自分勝手が許されるとでも思ってんのか? 思い上がりもいい加減にせぇよ? プロの世界はなぁ、お前が思っ取るほど、甘ぅないで」
「だったら、その苦みを感じてみたいですね」
「なめんのも、たいがいにしとけや」
「まだなめた事はないので、味がいまいちわかりません」
からかいの言葉に大神の顔が赤くなっていく。御堂はそんな二人の中に苦笑しながら割って入ると、誰かを肩越しに読んだ。
「はい?」
「相田。こいつの体、ちょっと見てやってくれ」
意外な事に、すでに汗だくの様子の相田だった。ジムにいたのか……という驚きとともに、なぜ御堂が彼を呼んだのか、見当がつかず首を捻る。
相田は沼崎のそんな視線に気がつくと「やぁ。こないだはすまなかったね」とだけ照れくさそうに零し、沼崎の両拳を自身の掌の上に似せた。
色々、動きを確かめるように、沼崎の体を引っ張ったり曲げたりする。
それはいたずらに体を動かしているというよりも、職人が作品の出来の良しあしを確認するような手つきで、思わずされるがままになる。
相田は一通り、拳を初めとした各部位の動きを試すと、御堂と大神を振り返ってこう言った。
「試合には問題ないと思いますが、一応、明日までは強度のトレーニングは避けた方がいいでしょう。右手の怪我よりも、左拳の打撲の方が心配です。あと、首筋も多少痛めていますね」
沼崎は正確に自分の問題を言い当てた相田に、思わず目を見張った。大神は「なんで言わへんかってん」と睨んでくるが、かまわず沼崎は説明を求めるように相田を見た。相田はその視線に気恥ずかしそうにうつむくばかりだ。見かねた御堂が、相田の背中を軽くたたき、まるで自分の自慢をするようにこう言った。
「こいつ、これでも柔整の資格を持ってるんだ。腕は確かだぜ。復帰する前までは、それで飯くってたからなぁ」
「よしてくださいよ」
相田は謙遜しながらも、本当に恥ずかしそうに俯いていた。柔整? 復帰? 気になる単語がいくつか飛び交うが、沼崎はとにかくさっさとトレーニングを始めたくて、一切の疑問を飲み込んだ。こんなことなら、自宅でもう少し筋トレしてからくればよかったとも後悔し始めている。少なくとも、大神が忙しい時間を狙えば良かった。
「とにかく。心配はいりません。今まで通り、自分で調整していきますから」
「おい!」
大神の吠声が沼崎の腕をつかもうとするが、それを無視してアップ用の縄跳びを取りに行く。いちいち自分の体を気にして、ちんたらフィットネスまがいの事をする気は全くなかった。
そもそも、このジムにいるのも、プロでやるにはどこかに所属しないといけないという理由だからだ。どうせ所属するのならば、御堂のいる場所がいい……選らんだ動機もそれくらいのもので、別に誰かの師事を仰ぎたいわけじゃなかった。
白石との因縁を、誰かに理解してもらえるとも、また理解してもらいたいとも思わない。
とにかく、あの男をマットに沈めるのに、ボクシングのリングに上がる条件を整え、邪魔にさえならないでもらえれば、それでよかった。
大神がいきり立っている気配がする。そんなに血の気が多いなら、お前がリングに立てよ。そう思いながら縄跳びを手にした。
その手を、そっといなすようにつかむ者がいた。
相田だった。




