Round 12
一夜明けて事件の翌日。沼崎は報告の作成と休養を午前中いっぱいに使うと、午後にはトレーニングウェアに着替え、試合に向けて専念するようになっていた。
自宅にも数台の筋トレ用のマシンは置いてある。が、やはりジムのそれとは比べ物にならない。せっかくの『謹慎』期間だ。早めにジムに顔を出そうか……。
近所を十キロほどロードワークしてきた後、体をほぐしながら、壁にかかった時計を見上げる。必要なもの以外何も置かれていない殺風景な自宅の壁には、シンプルなデザインの時計と、これまた味気のないカレンダーが一枚かかっているだけだ。そのカレンダーにもほとんど記載はない。予定はパソコンか電子手帳の中だし、そもそもプライベートではボクシング以外の予定はまず入らなかった。
先日、相田親子がここを訪ねてきた時の事を思い出す。
相田は「モデルルームみたいだ」ときょろきょろと室内を見回し、自分から片時も離れようとしない息子の手を引いてソファに腰を下ろした。
この部屋に人を入れるのは、引っ越し業者を除けば、多恵以外初めてになるな……と思っていたところだったので、相田の言葉に、そんなに生活感が欠けているだろうかと心外だったのを覚えている。
そういえば……。
床に腰をおちつけ、ぐっと足を開く。体を左に倒すと、ペタンとなんの抵抗もなく体が足についた。やはり、一つ一つの動作をする時に、何箇所かに痛みを感じる。特に首筋と拳に一番違和感を感じていた。
きっと、首筋は頭を蹴られた時に、拳は人間を素手で殴った代償として、多少なりと痛めたのだろう。さっき自分で包帯を取り換えた右手のひらを見る。御堂へのうまい言い訳が思い浮かばない。
ふと、同じような傷が誰かにあった事を思い出した。誰だっただろうか? 右手の平の擦過傷。……航。そうだ、航だ。
沼崎はそのまま、今度は体をペタンと床につけた。体の柔らかさは、柔道をしていた頃から定評があったが、窪に言われてからさらにその柔らかさを維持するように心がけていた。筋トレや技術トレーニングなど、他よりずっと地味だが、柔軟は全ての基本に通じる。筋肉の柔らかさは怪我を防ぐだけでなく、どの動作にも生きてくる重要な基礎の一つなのだ。
ひやりと床の冷たさを感じながら、体中の痛みをほぐす様に筋肉を伸ばしていく。
体を起こし、こんどは右に倒すと、視界に航が座っていた場所が入った。
気がついたのは、相田が小用に席を立った時だ。
時間が時間だっただけに、航は沼崎が用意した食事の半分を食べ終えた頃には、船をこぎ始めていた。この時も、父親が席を外したのにも気がつかず、箸を持ったままうつらうつらしていた。
沼崎は苦笑しながら、そっと少年の手から箸と茶碗を取り上げると、ゆっくり起こさないように気を配りながらソファに寝かせた。
箸を持っていた航の掌に、無数の傷を見たのはその時だ。転んだ際にできた傷と言われれば、さほど不思議でもない部位ではあったが、古いものと新しいものがまざりあっていてぼろぼろの手は、頻繁に彼が地面に手をついている事を語っていた。その奇妙な状態の傷に、自身も身に覚えがあり、思わずぐったりと眠りこける少年を観察する。
ハーフパンツから覗く小さな膝にも、同じような擦過傷。すねには痣が多数ある。打撲のものというよりは、つねられてできる種類のものも混じっているようだ。良く見ると半袖で隠れるような場所にも、数か所。すぐに浮かぶいくつかの疑惑に、沼崎は眉を寄せながらも、寝室にタオルケットを取りに一度少年の元を離れた。
相田が? 可能性を考えるが、それは現実的ではないように思えた。あの擦過傷は、どうみても室内より外でできる傷だ。家庭内でのトラブルでつくのなら……。
もうここにはあるはずのない痛みが、体に蘇る。とっくの昔に始末した、忌まわしい実父の顔がふと去来し、臭気を払うように顔を横に振った。
違う。怪我の状態、なにより相田の人柄からも、虐待の可能性は考えにくい。もちろん、相田の人柄など深く知る由はないし、人間の多面性くらい知っているが、それを加味しても、相田は仮面を被るような芸当をする人間には思えなかった。
だったら、答えは一つ。イジメだ。
「あぁ、寝ちまったようで……」
寝室を出ると、部屋に戻って来ていた相田が航の傍に座っていた。愛おしげに息子の髪を撫でている。沼崎がタオルケットを掛けてやると、相田は小さく礼をいい、そのまま続けた。
「こいつには、さびしい想いをさせているんだ。悪いな、とは思うんだけどな。いや、こいつにだけじゃねぇ。俺がボクシングをすることで、どれだけの人間に迷惑をかけているか……」
先ほどの印刷工場の事か? とも思ったが、この場合はそれを含めたすべての事なのだろうと判断する。
昔から、人の気持ちを推し量るのは苦手だったが、事実と情報を積み重ねれば、それなりに相手の意図を読むことはむしろ得意だった。
人の顔色ばかり気にしていた幼い頃ついた、妙な癖なのかもしれない。それは共感ではなく、自己防衛のための観察でしかなかった。だから、こんな場面にも、相田に申し訳ないと思うほど同情はしてやれないが、彼が言わんとする事は察する事はできる。
「奥さんは……」
結果、今、相田が水を向けてもらいたいのはこの話題だと推測した。案の定、相田はその言葉に顔をひきつらせながらも、どこか安堵したような面持ちで、向かいに座った自分をみやる。
「体が弱くて、実家に帰しているんです」
「ご実家に」
「あ、いや。帰してるなんて言い方は違うな。なんていうか、まぁ……」
眉を下げ、頭をかく。言葉を探し、視線をうろうろと彷徨わせてた。相田は、まるで子どもが親に叱られないための言い訳を捻りだすような顔をしている。そんなに困るなら、無理に話す必要もないのに。と思いながら、沼崎はグラスの水を飲んで言葉を待った。
「まぁ、とにかく。次の試合でこんな事は終わるから。なんとかなるとは思うんだけどな」
結局相田は、説明らしい説明を避けた。代わりに、また、他の詮索どころをちらつかせている。雲をつかむような会話に、唯一見える明確なのものは、事情をくんでほしいという相田の気持ちくらいだったが、沼崎は航の事が気にかかり、そのまま会話を続ける事にした。
「次の、試合?」
「そうか、沼崎君は知らない……っていうか、たぶん、ジムの誰も気にしてないよね。次の試合。君のランカー入りをかけた試合のことさ。あれはうちのジム主催の、定期公演だ。ミドル級日本チャンプの関森君のタイトルマッチがメインイベントで、次の君がセミファイナル。他の試合も、全部がうちがらみの興業だろ? で、俺も出るんだ」
沼崎はどこか予想していた言葉に、小さく頷いた。相田が言うように、知っていたわけではない。自分と白石以外の選手に興味はない。もちろん、次の試合だって、同じ公演で他に誰が出るかなんて気にもかけていなかった。
が、自分が用意した食事の残し具合と、他人に子どもを預けてまで遅くジムにいた事実を重ねれば、簡単に考えられる事だった。
沼崎は相槌を打ち、話の先を促す。
「……その日の二試合目に用意された、ちっぽけな前座。それが、俺の引退試合ってわけさ」
ひっそりと、二人の間に静寂が舞い降りる。その中に、今まで交わした言葉以上の言葉が込められていた。
息子の髪を再び撫でる相田の目に、寂しさがよぎる。優しく息子を見やるそれは、彼本来の人の良さに加え、父としての深い愛情がうかがえた。ごつごつした拳は、かえって不器用ながらも純粋な彼の息子への想いを感じさせる。
「年齢、ですか?」
「まぁ……そうだね。来月の初めには三十七になっちまう。たぶん、御堂会長は、それを知ってて……」
「御堂会長とは長いんですか?」
その質問に、奇妙な沈黙が生まれた。ほんの一瞬の間でしかなかったが、わずかな淀みが何か、言葉以外の事を語っている気がした。
相田はあやふやな笑みを浮かべると「俺がジムのプロ一号だからね。それなりに……」と言葉を濁した。
以降、あの夜は航の事を含め、深い話はできなかった。
まぁ、それぞれに事情はあるか……。沼崎は柔軟の終わりと同時に思考も終了させると、時計を見上げた。まだ時計は昼下がりを指している。あまり遅くなると、学生などでジムは混むかもしれない。
「行くか」
ようやく一日の予定の見当をつけると、沼崎は一息ついてシャワールームへ向かったのだった。もう、相田の事も航の事も頭の隅から綺麗になくなっていた。




