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Round 10

 国際フォーラムの二日目。開会日の昨日と違って、都内某ホテルを貸し切ったその会場は、若干の落ち着きを見せていたが、それでも、世界規模の会議とあって様々な国の要人たちで今日もあふれ返っていた。

 沼崎と三井は、この日『世界規模にみる麻薬使用者の低年齢化』について話し合う会議に出席する、春木の警護として会場に来ていた。

 こんなのに参加する暇があるのなら、自分の息子を真っ先にどうにかしろという、至極まっとうで、何の面白みのない突っ込みは、あえて二人とも口にはしていなかった。怒りや呆れを通り越し、冗談にしか思えない。互いに、これを口にした時点で負けなんじゃないかと真剣に考えるほどだ。何に負けるのかは分からないが……。


「先輩。試合の方は大丈夫なんスか?」


 三井が会議室の外の廊下で、直立姿勢のまま周囲を見回しながら口を開く。

 春木が出席する会議は会場のあるホテルの二階フロアで、同フロアには他に、結婚式で使用するような大きな大ホール一つと、それを取り囲むようにコの字に春木が使用しているような中ホールが三つ用意されていた。

 出入り口は非常口と、二基あるエレベーター脇の階段を含め、計六か所。そのどの場所にも警護が二名ずつ配置されている。他にも各要人についているSPたちが会場の外に待機しており、会場内にももちろん、主催が用意した警護が張り付いている。主催が用意した警護以外は一歩も中に入る事が許されてはいないのは、会議内容の機密保持とともに、テロ等の対策の意味もあるらしい。

 

 今日、このフロアでは他に会場でも会議が行われているらしく、張り詰めたロビーにも一定のにぎやかさが見受けられた。

 様々な国の言葉が飛び交い、様々な肌の色が通り過ぎる。一面ガラス張りの大ホール前にある談話スペースにも、警護の人間が多数張り付いており、リラックスムードとはいかないが、それでも時折、会議の合間の休憩を楽しむ要人たちの笑い声や、彼らにサーブするホテル従業員の声などが響いていた。

 沼崎は視線を配らせながら


「問題はない」


 とだけ答えた。その傍から、はたして本当だろうか? と自問してみる。


 試合まで、あと二週間と迫っていた。

 なかなか成長を止めなかった身長に対し、フェザー級の減量はもちろん簡単なものではない。が、アマチュア時代から繰り返ししてきた経験もあり、さほどの苦痛ではなかった。また、このSPまがいの仕事も、減量に一役買っている。警護の仕事は勤務時間内、一時も対象者から離れることはできない。むろん、それは生理的な理由でも、だ。つまり、自然と食事制限が要求され、一定の時間前からは、食事はもちろん、水分も最低限しか取る事は出来ないのだ。

 他のSPやセキュリティガードの姿がちらほら見え、そのほとんどが腹を減らしているのかも知れないと思うと、屈強な男たちもただの人間にみえてくるから不思議だった。


 練習の方も、ジムに毎日は通えないが、それでも何とか、コンディションをあげ、仕上げて行く段階にまで持って来れている。

 ただ、なにかがしっくり来ていなかった。毎日、その何かが何なのか、確認するように体を動かすが、全く見えてくる気配がない。どこにも問題が見当たらない。なのに納得がいかない。それが、今、一番の問題のようにすら思えた。


「いやぁ。楽しみだなぁ。僕、一度、生で見てみたかったんですよ。ボクシング」


 三井がニヤニヤしながら口にした言葉に、沼崎は眉を跳ね上げる。思わず三井の方を見かけるが、すぐに思い直し、咳払いした。だが、今の一言は聞き捨てならない一言だ。


「どういうことだ?」


「何がですか? 僕らが中に入れない事ですか? そうっすよね、納得いきませんよね」


 あぁ、わざとだな。とむかつくが、ここははぐらかされるわけにはいかない。沼崎は苛立ちをぐっと抑えて、答える。


「違う。今、お前がいっただろ?」


「何がです?」


「だから……」


 その時だった。視界の外で異質な気配を感じた。すぐに顔を向けることはせず、様子をうかがう。

 何の根拠もない、勘としか言いようのないものだったが、同時に絶対の自信があった。

 三井の顔を見る。三井はすぐに沼崎の視線を感じ、さっきの軽口をたたく長閑さを瞬時に消しさり警官の顔になった。


「お前はここに残れ」


「はい」


 短いやり取りの中には、あらかじめ打ち合わせてある幾通りもの役割分担が込められている。神経を最大限まで研ぎ澄まし、どこかへ向かうふりをしながら感じた違和感の元を探った。

 何がおかしい? 何が引っかかる?

 自分の勘に問いかける。

 その時、ふいにウェイトレスが視界に入った。サーブ用のワインとグラスをワゴンに乗せてやってきたところらしく、エレベーターの前で、警護にチェックされている。

 さっき、視界の外に動いていたのはこれだったのか? それにしても、ウェイトレスの存在なんて、別段珍しくない。なのに、どうして……。

 思案しながら、表情と視線を動かさずに脇を通り過ぎる。

 ホテルの制服に身を包んだ、二十代の女性。まっすぐな姿勢や、警護のチェックが終わるのを待つ表情に特に変わった様子はない。でも、何かおかしい。何か……。

 あるべきものが、欠けている?

 あるべきもの、あって当然の……。


 ふと、潮の香りがした。


 目を見開き。思わず息をのむ。もしかして、自分の中にある、あの・・違和感は……。

 背中で、エレベーター脇の会議室のドアが開く気配がした。そこで開かれていた『所得格差と学力格差についての地域認識と対策』なる会議がインターバルに入ったようだ。

 どやどやと一斉に参加者が部屋から出てくる。


 視界の端に光が見えた。


 沼崎が反射的に体を捻るとほぼ同時に、ワゴンが女によってけり上げられた。盛大な音とともに、ワゴンに乗っていた数本のワインが床に打ちつけられ、真っ赤な液体が鮮血の如くほとばしる。グラスの破片が飛び散り、一瞬にして辺りを針の山に変えた。

 倒れたワゴンはそのまま沼崎や後続との壁になり、女の身を隠す砦となる。

 驚声の中、警護たちが一斉に銃を向けるが、女の動きが一枚上手だ。

 倒したワゴンを死角にし、唯一死角の中にいた警護二人が繰り出した拳をひらりとよけると、そのまま裏拳で一発ずつ、テンプルに打ち込んだ。魔法のように巨大な体躯が簡単に崩れ落ちる。

 沼崎は考え事で初動に後れを取った自分に猛烈に腹を立てながら、思いっきり荷台を蹴り倒し、その足をそのまま踏み込んで女に拳を振るった。

 女は沼崎の行動を予測していたらしく、余裕の表情で目を細めると、その左ストレートをいなすように軽くはじいた。いとも簡単に軌道を変えられ、態勢を崩しかける。何とか踏ん張り、その位置からそのまま体を捻って右アッパーを打ち上げる。

 女は顔を歪め、後方に体をそらしてよける。しかし、その手にはいつ取り出したのか、すでに拳銃が握られていた。

 一刻も早く要人たちの前に警護たちの壁が完成する事を祈りながら、思いっきり足払いを掛ける。が、沼崎の足は空しく空を切った。

 女が跳躍したのだ。

 息をのんだ時は遅い。女のハイキックが思いっきり沼崎のテンプルを正確に打ち抜く。

 脳が揺さぶられる。ボクシングでは受けた事のないような衝撃に、意識を飛ばしかける。女が聞きなれない言葉を何かつぶやいた。

 くそっ。

 沼崎は、着地し銃を構える女を沈む体で見ながら、顔を歪めた。考えるより、体が先に動く。

 がりっ

 思いっきり口の中を自分で噛み切ったのだ。痛みが強制的に意識を呼び起こす。かすむ頭を懸命に振り、凶器と化したガラス破片の上に手をつく。さらなる痛みが襲ってくる。後方に、数人の警護が駆けてくる気配や要人を逃がす声がした。きっと、この数瞬の間にも、かなりの数の要人の安全は確保されたはずだ。

 が、目の前の女は笑みを浮かべていた。まだ、諦めなんか微塵もない、むしろ獲物をとらえたと確信する、獣の笑みだ。

 ふざけんな!

 沼崎は溢れてくる血の味を飲み込みながら、床を跳ね上げた。

 女はその気配に驚き、目を見開く。

 そして、見たのだ。息をのむ余裕も、声をあげる間も、祈りをささげる時間も、微塵も与えはしない冷酷な死神の鎌の、その漆黒の一閃を。

 思いっきり女の顔面にそれは突き刺さる。骨が砕ける感触、すぐに鈍い音が追い掛ける。顔面の中心が陥没し、女の後頭部が思いっきり壁に打ち付けられた。

 静寂が、訪れた。

 女の眼は完全に天を向き、奇妙な形にへこんだ鼻から血を流して、ずるっと力なく床に崩れ落ちる。前歯が数本、床に落ちて硬質の音をたてた。ぐらり、体が揺れると、そのまま重力にいざなわれ、叩きつけられる。女の体は一度床で軽く跳ね、グラスの破片が場違いに美しく光りながら散った。

 一斉に警備たちが、女を抑えに向かってきた。

 沼崎は半ば弾き飛ばされるような形で、その輪の外に出て行く。


 なんとか……なったか?


 息は上がっていないものの、問題はガラスの中についてしまった右手のように思われた。脳へのダメージも、まだ多少ある気がする。足がふらつく。

 三井が春木を守りながらフロアを出て行く後姿が見えた。とりあえず、結果は悪くないか。


 安堵のため息をつきながら、沼崎はそのまま床に座り込んだ。

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