タイトル未定2026/05/11 22:58
さっきまで当たり前のようにあった幸せが、
一瞬にして消えていく。
私達の生きるこの世界は毎日その悲しい現実を目の当たりにする。
だけど…そんな悲しい現実の中にも…
奇跡はあるのだと…信じたい。
✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎
「こちら松島救命センター。」
「こちら双葉消防です。
零研究所内で30代男性が意識不明の為、救急車で搬送中です。
そちらは受け入れ可能ですか?」
「大丈夫です。」
その日の午前10時01分、ホットラインが鳴り響く。救命医10年となる蒼月直人は、白車を迎えに救急入口へと走りながら同期である空良ひかりと会話を交わした。
「零研究所?」
「ああ。」
「何の研究してるところなの?」
「さあな。」
「薬品の匂いを吸って倒れた?」
「いや、おそらく違う。一緒に実験をしていた他の人達は何ともないらしい。」
「そう…なら大丈夫そうね。」
そんな会話をしながら、救急入口へと辿り着いた二人は患者を初療室へ運んだ。
所見の結果、意識はないようだが、外傷もなければ、これといった異常も見当たらず、二人して首をひねっていた。が、突然患者が嘔吐し、嗅いだことのない臭いに襲われる。意識が朦朧とし立っていることすらままならず…歪む視界の中、互いに手を伸ばすも、倒れこんでしまったのだった。
✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎
ぼんやりとした意識の中「空良…」と聞き馴染みのある声が蒼月の脳を呼び覚ました。
瞬間、空良の姿が映し出される。
…それは、周りの色に掻き消されるかのように、うっすらと消えていく空良の姿。そんな有り得ないはずの光景が、今、蒼月の脳内ではっきりと映し出されていた。
蒼月は早く目を覚ませと脳に指令を送り、必死に意識を手繰り寄せた。そうして…
「空良‼︎」
眠っていた蒼月が、天井に手を伸ばして叫ぶ姿が皆の目に映る。
「蒼月!蒼月!目を覚ましたのか?」
10年来の同期である紫堂大輔と緑川留美が蒼月のベッドに覆い被さらんかの勢いで手をつき叫んだ。
蒼月は自身を覗き込む紫堂と緑川の異様な姿に全身に嫌な予感が纏わり付くのを感じた。
慌てて身体を起こすも己の視界に映るは、紫堂と緑川、そして、後輩である、日渡ゆき、楠木誠、遠藤保仁の五人のみ。そこには空良の姿はなく…
全身の血が一気に下がり、声を出すどころか、息すら吸えなくなる。
呼吸が早く、浅くなり、息苦しくなる蒼月。
「過呼吸だ。蒼月!蒼月!落ち着け!
息を止めて10数えろ。蒼月。
いいか、俺の手だけを見るんだ。
何も考えるな。
いくぞ、いち、にい、さん、しい、ごお、
ろく、しち、はち、きゅう、じゅう。」
過呼吸を起こす蒼月の眼前に紫堂が両手を広げ、一本ずつ指を折り曲げ数を数えさせると、そのまま横にならせる。安静な姿勢を取らせるためだ。
それからゆっくり息を吐かせたのち、鼻から息を吸わせた。
…3秒息を吐き、3秒息を吸わせる。それらを10回程度続けると、蒼月の呼吸も落ち着いてきたようで…皆もホッと胸を撫で下ろした。
…そうして、感情的にも落ち着きを取り戻した蒼月は身体を起こし、五人の顔をゆっくりと一瞥し、口を開いた。
「空良は?」
皆の表情には重苦しい緊張が走り、緑川が意を決したように重い口を開いた。
「いないの。空良が何処にもいないの。」
「…は?」
蒼月の脳裏に浮かぶは、意識を失う寸前の空良。…そう、うっすらと透明になり周りの色に掻き消されるように消えていく空良の姿。
…そんな…まさか…?あの光景は夢ではなかったのか?
「そんな…そんなこと、有り得ない。
有り得るはずがない。」
首を振り、頭を抱えた。
「有り得ないって何?蒼月、どういうこと?
あたし達にも訳が分からないの。
あたし達が初療室についた時には、蒼月、あんただけが倒れていて、空良の姿はどこにもなかった。
あたし達が倒れているあんたを見つけて中に入った時、部屋中に嗅いだ事のない臭いが充満していて、あたし達五人も全員意識を失ったの。
でも、あたし達が意識を失っていた時間はせいぜい10分程度。
後から異変に気がついた甲斐先生が初療室に着いた時には、臭いはしなかったって言ってる。
おそらく、その頃には空気に混ざって消えていたのよ。
その後、あんたは半日、目覚めなかった。
患者は今も目覚めてない。
でも、あらゆる検査をしてみたけど、何が原因なのかが分からないのよ。
ただ、眠っているようにしか見えないの。
その間、みんなで空良を探し回ったんだけど、どこにも姿がなくて。…まるで空良だけが忽然と消えたような…そんな感じなのよ…」
全身の穴という穴から一気に汗が噴き出し…尋常ではない量の雫が滴り落ちる。
どういう事だ?
まさか、本当に空良が…消えた?
いや、そんな事が有り得るわけがない。
しかし、今のこの状況は何だ?
どう説明が出来る?
実際に今、空良は病院内にいない。
あの空良が、皆に何も言わずに忽然と姿を消すはずがない。そんな事言われなくても分かってる。しかし、それを認めてしまえば、俺の薄れゆく意識の中で見た光景が現実のものとなってしまう。
認めたくはない。
だか…だが…限りなく俺の見た光景が現実であるのだと…全ての事柄が物語っていたのだ。
蒼月は意を決したように、ゆっくりと皆に話し始めた。
「救急入り口に患者が運び込まれて、俺は空良と一緒に初療室へと運んだんだ。しかし、これといった外傷も見当たらず、心拍、血圧、呼吸にも異常はなく、意識がないだけのようだった。…そう、ただ眠っているだけのような印象が大きかった。そこで、空良と顔を見合わせ二人して首をひねっていると、患者が突然嘔吐したんだ。その瞬間、嗅いだ事のない臭いが鼻について、意識が遠のいていった。その時だ…空良の身体が透けていったのは。俺の意識が朦朧としているせいなのかとも思った。しかし、どんどん透けていった。まるで、周りの色に掻き消されるかのように…
『消えた。』
そう…消えたと表現するのが一番合っているように思う…」
指を擦り合わせ、どこか焦点の合わない瞳で、ベッドに座る自分の足元に視線を落としたまま…抑揚のない低い声で言葉を零した蒼月。
その蒼月の様子に皆が息を呑んだ。
蒼月が嘘を言っているようには見えない。
今にも壊れそうな蒼月がそこには存在し、気丈に意識を保とうとしているようにしか思えない…
それほどまでに、自分の半身どころか全てを失ってしまったかのような蒼月の姿に、皆が皆、言葉を失った。…かける言葉など見つかるはずもなかったのだ。
その場には、全身の血の気を失ったかのように青ざめたまま立ち竦む緑川の姿。それだけでなく、いかなるときも陽気な紫堂でさえ言葉を失い、唇を噛み締めている。その口の端からは血が滲み…日渡、楠木、遠藤は俯いたまま肩を震わせていた。
皆が皆、最悪の事態を浮かべている。
実際に何が起こったのかは分からない。
しかし、空良はもうここにはいない。
もう二度と逢えないのではないか?と、そんな不安がよぎり、最悪の事態に全ての思考回路が埋め尽くされていく。
病室内には、無情にも皆の咽び泣く声が、鳴り響いていた。
それは深くて悲しい音色を帯びていて…
いつまでも…
いつまでも…
こだまし続けた…




