プロローグ 女帝の焦燥
"The pleasure of love is in loving. We are happier in the passion we feel than in that which we inspire."
(愛の喜びは愛することにある。我々は、人に抱かせる情熱よりも、自らが感じる情熱によって、より幸福なのだ)
– François de La Rochefoucauld/フランソワ・ド・ラ・ロシュフコー
【しおの】
2006年、春。河北省、石家荘市。
経済開発区管理委員会の、だだっ広い書記室は、死んだように静まり返っていた。窓の外では、春の訪れを告げる埃っぽい風が、枯れた木の枝を揺らしている。だが、その風も、この部屋に満ちる氷のような空気を、少しも和らげることはできない。
私の名は、李霃帘。人は私を、共産党の若き女帝と呼ぶ。私は、この国の男たちを、その権力と知性で支配し、手玉に取ってきた。私の前に、跪かなかった男は、いない。たった一人、あの男を、除いては。
青木義成。
その名を、舌の上で転がすだけで、私の体の奥底が、疼くように熱くなる。あの日、中央規律検査委員会の連中が、私の城になだれ込んできた、あの絶望的な状況。狼狽するだけの無能な部下たちの中で、ただ一人、彼は、涼しい顔で、炎と水で、私の危機を救ってみせた。あの瞬間に、私は、理解したのだ。私は、生まれて初めて、自分を超える男に、出会ってしまったのだ、と。
あれから、1年。
彼が、急に消えた。
まるで、春の靄が、陽光に溶けて消えるように、忽然と。上海の拠点も、香港の連絡先も、すべてが沈黙している。
「…どこへ消えたのよ、義成…」
誰に言うでもなく、呟きが漏れる。私の声が、この広すぎる部屋に、虚しく響いた。
苛立ちが、腹の底から、込み上げてくる。この、私を、こんなにも、かき乱しておきながら。この、私に、初めて「敗北」という名の快感を、教えておきながら。
あの夜のことが、脳裏に焼き付いて、離れない。
私の、秘密の城である、あのマンションで、初めて、二人きりになった、あの夜。
私は、彼に、すべてを、明け渡した。
これまでの男たちのように、私が、支配するセックスではなかった。私は、自らの意思で、彼の前に、跪いた。女帝としての、最後のプライドを、捨て去り、彼の、熱く、猛々しい龍を、その、自ら唇で、恭しく、迎え入れた。
『あなたの、その、素晴らしい頭脳と、度胸に、敬意を表するわ』
それは、私の、偽らざる、本心だった。そして、その瞬間から、私たちの関係は、単なる、肉欲と、利益の、共犯関係では、なくなった。
彼は、私の、すべてを、見抜いていた。私が、この、男社会の中で、孤独な戦いを、続けていることも。私が、心のどこかで、自分と対等に渡り合える、知的な魂を、渇望していることも。
彼の、硬い腕に、抱きしめられながら、私は、初めて、ただの「女」になった。彼の、鍛え上げられた胸に、耳を当てると、その、心臓の鼓動が、まるで、戦の前の、太鼓のように、力強く、そして、どこか悲しげに、響いていた。彼の、肌の匂い。バーボンと、高貴な煙草と、そして、彼自身の、孤独の匂いが、混じり合った、むせ返るような、雄の香り。それが、私の、理性を、麻痺させていく。
彼の、唇が、私の、首筋を、そして、胸の谷間を、探るように、滑っていく。その、一つ一つの、動きに、彼は、私という、人間を、読み解こうとしているかのようだった。
そして、彼が、私の中に、その、圧倒的な、存在を、突き入れた、あの瞬間。
私は、叫んだ。
それは、快感の、絶叫であると、同時に、私の、鋼鉄の、プライドが、音を立てて、砕け散った、悲鳴でもあった。
彼は、ただ、激しいだけではなかった。彼は、私の、体の、一番、敏感な場所を、知り尽くしていた。まるで、百戦錬磨の、チェスプレイヤーが、相手の、王の、詰み筋を、完璧に、読み切るように。彼は、緩急をつけ、私を、焦らし、嬲り、そして、快感の、頂へと、何度も、何度も、導いた。
そして、気づいた時には、私の方が、彼に、しがみつき、懇願していた。
『お願い…義成…もう、やめないで…私を、あなたの、もので、めちゃくちゃにして…!』
あの、李霃帘が。この、私が。
一人の男に、これほどまでに、身も心も、支配された。その、屈辱と、そして、それを、遥かに、上回る、甘美な、征服感。
あの夜から、彼は、私の、ものになった、はずだった。
いや、違う。私の方が、彼の、ものに、なってしまったのだ。
「…私を、裏切ったというの?」
まさか。あの男が、私から、逃げる?あり得ない。
では、何かに、巻き込まれた?
あの、救出劇。どこかで、綻びがあったのか。規律委員会の、連中の、報復か?
そうだとしたら、許さない。たとえ、相手が、国家であろうと。私の、獲物に、手を出す者は、誰であろうと、容赦はしない。
私は、内線電話の、受話器を、掴んだ。
「王書記に、繋いでちょうだい。至急よ」
私の、声は、自分でも、驚くほど、冷たく、そして、硬質だった。
待っていなさい、義成。
たとえ、あなたが、奈落の底に、囚われていようとも。
この、私が、必ず、あなたを、探し出してみせる。
そして、今度こそ、あなたに、決して、逃れることのできない、甘美な、首輪を、つけてあげるわ。
あなたは、私の、龍なのだから。




