第30話 1月14日 水曜日
昨日の夜は眠れなかった。
良平から「美波ちゃんには今夜話しに行くから、それに返信しないで」と言われた。
この場合の既読スルーが、内容を肯定してしまうのは分かっていたけど、嘘をつけば話が余計にこじれるだろうから、これでよかったんだと思うことにした。
できれば夜のうちにどうなったか知りたかったけど、連絡がないまま朝になってしまった。
『一緒に出社しよう』とメッセージを送った。
『オッケー』とだけ返事がきた。
支度を済ませて、少し早いかなと思いつつ、エレベーターを降りると良平がいた。
「ごめん。待った?」
「いや。今来たこと。おはよう」
「おはよう」
前を向いたまま駅に向かう。
早く話してよ!と、私の我慢が悲鳴をあげているけど、良平が口を開くのを待つ。
改札が見えて来たとき、良平が言った。
「ごめん。別れられなかった」
「へ?」
「昨日、美波ちゃんに言ったんだけど泣かれちゃって、百花が裏切るはずない、祥太と別れるはずがないって信じてもらえなくて……」
「そっか」
私たちは自分の気持ちばかり優先するあまり、本来守るべき手順をすっ飛ばしてしまった。お互い相手のいる事だから、先にきちんと礼儀を通すべきだった。
「今日、祥太に話してみるよ」
「ああ。がんばれ」
そのレス合ってるの?間の抜けた良平の応援に笑ってしまった。
祥太とたまに来る定食屋に来た。
「なんかあった?」
マラソン大会以来で、最後の会話がそっけなかったからか、少しよそよそしい感じがした。
「話さなきゃならない事があって」
「父さんの事だろ?」
「え?」
「舞子から聞いた。マラソンの時、百花に会って話しちゃったって言ってた」
「そうだね……」
「気にすんなよ。俺は必要な時間はかけた方がいいって分かってるから」
「あ、うん」
料理が運ばれてきて、私には棒棒鶏、祥太には冷しゃぶサラダが置かれた。
「孫とかさ、気が早いんだよ。余命つったって、何もしなきゃって前提だし、ちゃんと治療してっから意外と長生きすんじゃね?」
どうしよう言えなくなりそう。
「今の家の更新、3月だろ?解約の連絡っていつまでにすればいいの?」
「あ……えと……」
「百花?」
泣くのは卑怯だ。私が涙を零していいタイミングではない。でも、勝手に溢れてきて止まらない。
「別れてほしい」
「は?」
祥太が箸を置いた。
「なんで?」
どう言えばいい?好きな人が出来た?結婚はしたくない?
「続けていける気がしない」
「俺と?」
「うん」
「理解できないんだけど。ちょっとくらい意見が食い違うことがあってもさ、基本的に上手くいってたよね?」
言葉に出来なくて、首を横に振った。
「そんな感じだった?俺が気付いてなかっただけ?」
「ごめん」
「そんなに結婚が嫌?百花の気が向くまで待つって俺、言ってんだけど」
「ごめん」
「家族のプレッシャーがえぐかった?舞子の言ったことなんて気にしなくていいから」
「ごめん」
「話になんねぇよ。ごめんじゃなくて、なんか言えよ」
喉が締め付けられて、息がし辛い。
込み上げてきそうな嗚咽を堪えて言った。
「良平と付き合いたい」
「は?良平?なんで?」
服の袖で涙を拭いながら、声が大きくなり過ぎないように気を付けながらしゃべる。
「好きなの」
「いつから?」
「いっ……かげつ……くらい……ま、え」
祥太の怒りの感情が音になって聞こえてくるようだった。
握りしめた拳が震えていて、怖かったけど、いっその事、殴ってくれていいのにって思った。
「じゃあなに、クリスマスの時も年末に実家帰った時も、良平のこと思ってたわけ?」
「ごめ……ちが……祥太と向き合おうって思って……た」
「ふざけんなよ。結婚する気がそもそもないくせに、親に挨拶するとかおかしいだろ。俺がどんだけ準備したと思ってんだよ。時間返せってんだよ、マジで、腹立つ」
祥太は付き合い始めた時から変わっていない。
私はこんな祥太を好きになったし、なんとなく一緒にやってくんだろうなって思ってた。
他人と暮らすなんて、多かれ少なかれストレスはあるし、折れたり折れてもらったりして過ごすのが普通なんだろうって。良平と居る時の心地よさを知る前なら、それでよかった。
「ごめんなさい」
祥太は何も言わず席を立った。
良平に会いたかった。
でも、今はいけないって気がする。
祥太を傷つけといて、私が泣いちゃってる。
まるで私が可哀想みたい……良平に慰めて欲しいなんて図々しい。
目と鼻から出てくる水をハンカチで押さえながらトボトボと歩く。
明日からどうしよう、とぼんやり考える。
マンションの綺麗に並んだ明かりが見えてほっとする。
ちゃんと帰って来れてよかった。
「百花」
エレベーターホールに良平が居た。
「大丈夫?」
だめだ。だめだめだよ。
「えーん」
声をあげて泣いた。
良平は優しく抱きしめてはくれなかった。
少し離れたところで、心配そうにこっちを見てるだけだった。




