『消失』パーシヴァル・エヴェレット 著/雨海 弘美 訳
『消失』
パーシヴァル・エヴェレット 著
雨海 弘美 訳
集英社 刊
パーシヴァル・エヴェレットは、たぶん日本ではあまり知られていなかった作家だと思います(私は『ジェイムズ』を読むまで知りませんでした)。
最近『ジェイムズ』が全米図書賞、ピューリツァー賞ほか、脅威の5冠に輝いたというので、映画『アメリカン・フィクション』の原作となったこの『消失』も、新たに翻訳になったというところでしょうか。
過去の作品も高い評価を得ているそうですから、新作・久作ともに、日本でもますます紹介されるようになるのでは。楽しみです。
さて、大まかにどういう話かというのを説明するまえに、私が「どういう話だと聞かされていたか」を話したいと思います。
——アフリカ系アメリカ人セロニアス・エリスン(通称モンク)は、医師の家系に生まれたいわゆるエリート作家。難解な実験文学みたいなのを書いているけど、全然売れない。エージェントからは「黒人らしさが足りない」といわれ、世間では『あたいらゲットー暮らし』とかいう、黒人を売りにした、しょうもない小説がヒットしている。いわゆる黒人英語(theをdaと発音するみたいな)で、差別、貧困、暴力みたいなものを書くのが「黒人のリアル」とする風潮に、セロニアスは反発。逆に皮肉のつもりでコテコテの黒人小説を書いたらこれが絶賛されてしまい……——
どうでしょう? 面白そうじゃないですか?
実際、そういう話でもあるので、まあ、面白いんです。けど、少なくとも私は、この小説は家族の物語がメインの家族小説だと思いました。文量を数えてちゃんと比較しているわけではないんですが、家族について書かれている部分の方がだいぶ多いと思います。
てっきり、「シャレのつもりで書いた小説がヒットしてしまい、そこから始まるドタバタ劇」かつ「黒人のステレオタイプに対する強烈な皮肉」だと期待していた私としては、ちょっと思ってたんと違うなという感じではあったんですが、それも含めて面白い小説だったので、詳しく書いてみようと思います。
この小説は、大まかに2本の筋から成っていると思います。
一つは前述の、黒人インテリ作家が、ステレオタイプに対する皮肉として書いたコテコテの黒人文学パロディ小説がヒットしてしまうという筋。
もう一つが、認知症の母の介護を中心とする、家族のゆるやかな崩壊の物語です。
また、合間合間にマス釣りや木工、新しい小説のアイデアなどの短いテキストが差し込まれます。
構成で特筆すべき点は、主人公の書いた2つの小説が、小説内小説として差し込まれることで、一つは『F/V実験小説を位置づける』という論文みたいなものの抜粋、そしてもうひとつが『俺の病理(出版時『FUCK』に改題)』の2作で、後者はまるまる全文を読まされます。
まるまる全文ですよ。100ページくらいあるんです。Fワード/Nワードまみれ、性と暴力まみれの、シャレで書いたと知っている小説を100ページ読まされるんです。最高ですね!
つまり、主人公がボケのつもりで書いた小説をまるまる読ませるボケという、「ボケの入れ子構造」になっていて、後者のボケがメタ・フィクショナルだということが重要なのだと思います。
私は専門家でもなんでもないので、話半分に読んでいただければと思いますが、ここから私なりの解釈を書いてみます。
先に書いた通り、私の所感としては、この小説自体は家族小説です。
里帰りした主人公は、老齢の母の面倒を見ていた姉から、母の認知機能がだいぶ衰えていることを聞かされます。
兄には子どもがいますが実はゲイだと明かした結果、離婚することになり、しかもいい歳して自分探しみたいなことまではじめて全然アテにならない(しかし口は出してくる)。
母のもとにはお手伝いさんもいるのですが、この人も母と同じ年齢(あるいはほぼ同じだったか)で、母が亡くなったらこの人を追い出すのか? みたいなことまで考えなくちゃいけないような状況。
そんな中、産婦人科の医師である姉が、中絶反対の団体(はっきりそう断定はされていなかったと思いますが、文脈的にほぼそうとらえていいような感じ)に射殺されてしまいます。
悲しみに暮れる間もなく、主人公にこの家族の問題がのしかかってきます。
また、末っ子の主人公は兄姉とくらべて両親から露骨に可愛がられていて、幼少期からそのことが重圧だった、父には不倫相手がいて、どうやら子どももひとりいるらしい、とかいうことが、過去と現代を行き来しながら、重層的に語られます。
このように、家族小説としてはかなり奥行きのある話なんですが、一方、「シャレで書いた小説が売れちゃった」という方の筋は、たいした掘り下げも展開もありません。
出版社の偉い人に会うよう言われて、(偽名で書いたので)危ない黒人のフリをしていったらまんまと信じたとか、小説がどんどん評価されていくだけで、終盤、残りのページが少なくなっていくにつれ、「え、小説の話しないの?」と不安になるくらいでした。
で、私がこの小説を読んで最終的に思った結論としては、これは「風刺小説の体裁をとった家族小説の体裁をとった風刺小説」なのだろうということです。
そう思うと、めちゃくちゃ上手いと思うところが、序盤にさらっと挿入される、主人公が書いた本気の小説『F/V』で、これはロラン・バルトの《S/Zバルザック『サラジーヌ』の構造分析》をさらに同じ手法で構造分析するというものです。
私はロラン・バルトの『S/Z』を読んでいないし、この『F/V』もほとんど何言ってんのか分かりませんでした(というか、無学な私にとって、このあたりの学者はだいたい何言ってるか分かりません)が、おおむね「言葉は文脈とか音の持つイメージとか、書かれてる単語の辞書的な意味以上に意味を持ち得るよね」みたいなことだと思います。
これを踏まえると、序盤に『F/V』を挿入したことには、2つの効果があると思います。
ひとつは、「ロラン・バルトが『S/Z』でバルザックの『サラジーヌ』に対してしたことを、主人公が『F/V』でロラン・バルトの『S/Z』に対してする」という入れ子構造を意識させること。
もうひとつが、「この小説もまた、書かれている言葉の辞書的な意味以上の意味が、別のレイヤーに隠されている」ということを意識させること。
そう考えると、この小説が、家族の物語にかなりの紙幅をさいて書かれているにも関わらず、「黒人文学のステレオタイプに対する風刺」みたいにプロモーションされることも含めて、エヴェレットはメタ的に風刺しているのではないかと思えてくるのです。
これは私の中でも解釈が定まっていない部分ではありますが、「セロニアス・“モンク”・エリスン」という主人公の名前は、ジャズピアニストのセロニアス・モンク、黒人初の全米図書賞受賞者となったラルフ・エリスンからとられているものとみて、ほぼ間違いないと思います(セロニアス・モンクはあまりにそのままだし、エリスンは彼の代表作『見えない人間』から引用があったので)。偉大な黒人アーティスト・作家です。
一方で、ときおりマス釣りについての文章が短く挿入されますが、アメリカ文学にとってマス釣りというのは、なにか瞑想的な、特別なイメージがあるみたいで、ヘミングウェイも何かいっていたと思います。何を言っていたか忘れたのですが。
私は寡聞にして知りませんが、同じような感じで挿入される木工も、伝統的なアメリカ文学者のイメージみたいなものと紐づいているのかもしれません。
つまり、「白人の作家が伝統的にやってきたようなことを、別に黒人もやるし」みたいなことで、黒人とか白人とか関係なく、(その伝統から脱却しようと試みることも含めて)その伝統に連なる文学者なのだということが言いたいんじゃないかと思います。
そんなこんなを考えながら、この小説を取り巻く批評やなんかを見る限り(といっても、ネットでサラッと見た程度ですが)家族小説としての要素はすっぽり抜け落ちているか、「家族小説としてもなかなか読める」みたいな感じでした。
「黒人文学のステレオタイプが云々——」といいながら、主人公の家族がすっかり『消失』しているのです。
これでは作中でステレオタイプとして揶揄される「黒人のリアル」が、「黒人インテリ層のリアル」に置き換わったにすぎません。
強いテーマが与えられると、その構造ばかりに目がいき、そこにいる人間がすっかり見えなくなってしまうというのは、中絶に反対して姉を撃ち殺した人たちと同じかもしれません。
「目覚めたような顔して、あんたらだって同じだろ?」というエヴェレットの嘲笑が聞こえるように思います。




