6/邂逅:鎧の廻廊《アデメルドウワン》にて(6)
静寂が辺りを包んでいた。
廻廊の深層に鎮座していたヘイルバイトは今はもう跡形も無く融解していた。イズクの腕に内包していた瘴気を文字通り喰らわされたからだ。
「やはり、ここにも無かったか――」
ぼそりとイズクはそう呟いていた。無意識に呟いてしまったのはこれが初めてではないからだろう。
成果の出ない戦いの結末がイズクの口から感嘆が漏れ出る。だがどれだけ離れていても今はもうイズクに全ての意識を傾けているルリリルの耳が聞き逃すことはなかった。
(聖女さまは……何かをお探しになってる?)
しかしルリリルはそれが何か知ることはなく、そして聞くこともなかった。
今はただ没したと思っていた思い出の中の理想がこの世界に現存していることが喜ばしい。それはそうだ。ルリリルがこの世界に生まれることが出来た救済者が目の前に立っているのだから。
それよりも、これからどうすればいいのだろう――ルリリルの運命は大きく変わってしまった。本来ならばここが彼女の最果てだった。
この廻廊で生を全うし、諦め、終わるはずだったルリリルの物語は《第六位》の聖女との邂逅によって続いている。
ルリリルを救ってくれたのはイズクだが、ルリリルがイズクと共に歩く未来は想像できなかった。
この世界で忌み嫌われる亜人の種族であり、頭には大きな猫の耳。手と足は殆ど黒猫の毛で覆われ、顔と胸元だけ色素が白いから人間のように見えるだけだ。
そして《奇跡》も耳が人より良くなるだけ。こんな自分が聖女と共に歩くことなど憚られる。だからそっとイズクと目が合った時、不相応な自分の存在が虚しくて目を逸らしてしまった。
だから、ここでお別れ――なんだろう。どこまで行っても奴隷は奴隷。聖女と奴隷は相容れない。今までだってそうだったのだから。道具でしかない。道具だから殺されずに今まで生かされていただけだ。
それなのに、
「もしも……」
遠くから、イズクが手を差し伸ばしている。
「私を知っているなら……良ければ――いっしょに行きますか?」
その言葉はルリリルを地獄から連れ出してくれる美しい言葉だった。ルリリルは今までどうして生きることを止めなかったのか分らずにいた。
両親は死に、帰る場所も殺され、世界に置き去りにされた少女は尊厳すら強奪され、道具として生かされていた。しかし自ら止めを刺すことは出来ず、光の無い闇の中を彷徨い続けていた。
しかして、その闇は晴れた。
光が目の前にあるのなら、その手を掴む以外他にない。どうしてこれまで諦めいたくせに生きることだけは諦めなかったのだろう。
それはきっと、この聖女と出逢うために――
「《動くな》」
美しい未来への道筋を遮るように割って入る声がイズクの身動きを止めていた。ルリリルが振り返れば扉の前に逃げたはずのロレイメリアが立っていた。
「これはこれは……聖女としての仕事もせず何の真似ですか? 私は――《堕天》じゃあないですよ」
イズクは指先一つ動けない。しかしロレイメリアに嫌味を言う。イズクはロレイメリアに対しては初対面だ。だがその聖女が揃って着ているであろう白い法衣が目印だった。
そして祈るように両手を組むことで《奇跡》を行使する。そこまですればもうそれが誰であれイズクにとっては敵であることを察知する。
「ワタシは貴女のことを知りません――しかし伝え聞いております。貴女は《堕天》以上に危険な存在だということを」
「私は何もしていないのに?」
「何も、していない?」
イズクの反論にロレイメリアの眼光は鋭く、ただ下唇を噛み締めて、
「人類史を終わらせようとした、貴女が……何も、していない? 世界を滅ぼそうとした貴女が、何をふざけたことを――」
「私のことは何も知らないのに??」
イズクは両目が眼窩から零れ落ちそうなほど目を見開きながらロレイメリアの見つめている。
底知れぬ闇に射貫かれて、ロレイメリアは反射的に後ずさるがそれでも祈る手を強め《奇跡》を使う。イズクの身体は蝋で固められたように完全に自由を奪われる。
それでも、
「誰も私を知ろうとしなかった。誰もが私を知ることをしなかった。誰かが私を知りたいとはしなかった――なのに、どうして、私は……全てを奪われて……」
ブツブツと呟きながら下を向くイズクは世界に失望しながら血を吐くように言葉を零す。そんな小さな呪いをルリリルの耳だけは全て捉えていた。
ルリリルは今にも泣きそうなほどその身を震わせている。ルリリルも自分は地獄で生きていたと言い切れる――なら《第六位》を冠していた聖女は地獄以外の何処で生きていたというのだ。
「カカッ……」
だがそれ以上イズクの口から漏れ出た言葉は、音だった。
「呵呵呵呵呵呵呵呵呵呵呵呵呵呵呵呵ッ――――」
ロレイメリアの《奇跡》によって完全に束縛されているのにも関わらず、イズクは腹が千切れるほどに大声で笑いを示す音を響かせている。
「いや、はは……ひぃ……おもしろい……」
片手間で喜劇を横目で見ていたようにイズクはロレイメリアの発言の全てが滑稽に思えて笑いが止まらなかった。
「《奇跡》の強さは……何に比例するか知っていますか?」
「な、なにを突然……」
動きを止めた程度でどうやって《第六位》に勝つのか知りたいが、それよりもこの聖女の言葉通りに事を進ませることなど到底看破できないイズクであった。
「信仰の数――ですよ……」
不愉快極まりない聖女の言動にイズクの瞼が痙攣したまま、答えを教える。
聖女と言わず《奇跡》を使う者の異能の強さは信者の数に比例する。聖女でなくとも女神に祝福されれば《奇跡》は使える。しかし所詮個としての限界は低く《奇跡》の力は強大な《堕天》を前にすれば遠く及ばない。
しかし《聖女》は人々を救い、恵みを与え、信仰を獲得できる。
《聖女》は何故、《聖女》と呼ばれるのか――聖女の崇める信者の数が多ければ多いほど《奇跡》は強大なものとなるからだ。
そして《一桁位》と呼ばれる聖女たちが何故に他の聖女よりも一線を画す能力の強さを秘めているか――それは千も万も人々を救済し、その千万らの教信が力に繋がるのである。
「聞いたところ《第九十三位》ならまだ聖女になって日も浅いのでは? そして貴女のその言動と覚悟の浅さ……大した信者の数もいないでしょう。だから――……」
イズクの指先が少しずつ小さく震えている。
「動けてしまう」
ロレイメリアの《奇跡》によってイズクは完全に自由を奪われているはずなのに、イズクの四肢は拘束から逃れようと小さく震えていた指先が、腕へ、肩へとその震えが伝わっていく。
「だが、貴女を信仰する者など……」
イズクはロレイメリアの《奇跡》を打開する。動こうとする意志だけでイズクはロレイメリアの《奇跡》から逃れた。ロレイメリアは信じられないと驚きの顔をしたまま、イズクへ問い掛ける。
「なんておぞましい――」
「私の《奇跡》は信者の数は関係ないのでね。そこだけはありがたいかな」
死なないというだけの《奇跡》――《終わら不》に信者の数によって能力に何の補正もない。
既に《奇跡》としても終わっているこの力に、信者の数を増やすことで能力を高めることなど何の意味もない。そう、能力を強化するために信者を増やす必要はない。
「なら、なぜ……アナタを信仰する者などいないというのに――人々のために《堕天》と戦っていた!?」
イズクには信者を増やす必要がない。それでも《魔女》と呼ばれ悪役にされる前から《一桁位》の聖女たちと共に戦っていた。祈りを捧げていた。身を呈し続けていた。
「……………………なぜ?」
ロレイメリアの問い掛けに、酷く失望したようにイズクは嘆くように顔に手を当てていた。本当に残念そうに、無念そうに――
「それは私が《聖女》だからだよ……人を救いたいなら名乗らず救え」
人より優れた《奇跡》なら、その《奇跡》で多くを救えるのなら、施しを与えることが出来るなら――選ばれた存在だと言うのなら――《聖女》と名乗るのならば――自身のためだけに力を振るのは止めろと。
「私のこんな《奇跡》でも救えた命がある。私を《魔女》と呼んで未来を殺される前の死ねないだけの私でも指で数える程度の誰かを救った――他の『一桁位』はどうだ? 大勢を救ったことだろう……しかしその果てに何を願ったと思う?」
ロレイメリアは答えない。
「ただ自身を崇めよと……そう、動いたのさ。《堕天》が現われれば英雄のように攻め立て何処かで小さな村が滅ぼされようとも人の数が少ないと足を運ばない。人のいる場所で力を誇示した。そんなものを《聖女》と呼べるだろうか?」
誰よりも多くの人が救えるというのにまだイズクが《第六位》の《聖女》として共に他の《一桁位》の 《聖女》たちは全てを救おうとはしなかった。
「死ねないだけの《奇跡》しか持たないアナタは誰も救えないのに?」
「その通りだな……私はせいぜい盾か囮になるしか出来ない。死ねないだけで戦う力は当時はなかったから」
いつだって《終わら不》の《奇跡》が出来たことは死なないという不死性を利用したただの肉盾だ。身を捧げて《堕天》の攻撃を受け止め、その隙に他の《聖女》が持つ攻撃性の強い《奇跡》で狙い撃つ。イズクにはそれしか出来なかった。
「私が許せなかったのは……私を謀った《聖女》たちは何処かで大勢の人を救うたびに、何処かで村や里が滅んでいた――」
イズクは両手を強く握り締めて、
「都市と村に同時に《堕天》が襲ったと知ったとき……あいつらは人間の住む都市を選び、亜人の住む村を――救うという選択肢を捨てたんだぞ?」
そしてイズクがルリリルと視線が合う。イズクは決して逸らさない。その村がルリリルの住んでいた村だったかはわからない。まだ生まれる前、ルリリルには知る由もないことだ。
「私ひとりじゃ……囮になるのが精いっぱいだったけどさ。あの頃は本当に死なないだけだったから――」
そして大袈裟に溜息を吐いて、
「けれど最期は死なないだけの私を《魔女》に仕立て上げ、腐った竜の死骸に棄てられた」
死体になっても漏れ出る瘴気を塞ぐための《蓋》にもされた。人類を裏切った最初の《魔女》として、その《魔女》を産んだ罪悪人として家族も殺された。
人に――殺されたのだ。
世界の敵は《堕天》だというのに、仲間であった《聖女》――人間に、イズクは全てを奪われたのだった。
「まだこうして生きているのは、私を謀った全てを殺さないと――私は先に進めそうにないんだ。私の《終わら不》を終わらすのは聖女らの血と涙だけだ」
復讐の怨嗟だけがイズクを突き動かしている。その為のまず最初の一歩を始めようと、
「だからお前も聖女なら……私はお前のことなどどうでもいいし、どうなろうが知ったことではない――だがな、だけどな……《一桁位》と同じことを言うお前なんぞ、ここで殺してしまった方が私のためだ」
ロレイメリアが両手を組み《奇跡》の発動を行う。行動を阻止しようと「《動くな》」と発言しても、イズクの意志はロレイメリアの《奇跡》を拒む。「《自害しろ》」と叫んでも、イズクの意志がそれを反する。
「私は誰も救えない。だから、私で私を救う――」
全ての聖女を、殺すことで。
「……やはり、アナタはおそろしい《魔女》そのものだ」
「私は《聖女》だったよ……《魔女》にしたのはお前たちだ」
イズクも自身の持つ《奇跡》が他の《聖女》らの持つ《奇跡》のように温かく、希望に満ちた力ならば同じ道を歩めたのだろうか。
しかしイズクの《奇跡》はこの身を削がれても、臓物を撒き散らしても、どれだけ残酷な状態に変貌してしまっても元に戻るだけの誰が見ても恐怖させてしまうおぞましい力だった。
そしてこの力は誰にも施しを与えることも、傷を癒し、病を治すことなどできない――ただイズクだけの《奇跡》だった。そんな《奇跡》では誰もイズクを信仰する者などいなかった。気味悪く、化物のような力。
それでもイズクは人々のためにこの身体を傷つけて来た。人であろうが、亜人であろうが――小さな村であっても、どこであっても。他の聖女らが救わないのなら、せめて逃げるための道を拓くぐらいは、と。イズクが過去に出来たことはその程度だった。
「私が知りたいのは《一桁位》のこと。廻廊を潜れば必ず他の聖女に出会えるだろうし」
「世界の敵である貴女に……教えるとでも?」
「別に――」
しかし返ってきたイズクの言葉は意外なものだった。
「ここで聖女を一人……殺すだけ、かな」
イズクはロレイメリアのことを知らない。しかし《一桁位》に加担するのならば――《第六位》を敵として定めるのならば、イズクの行いは結局そこに繋がる。
「聖女は、――鏖殺だ」
右眼の眼球からいくつもの瞳が重なりながら、まさに自身を怪物だと言わんばかりに。そしてロレイメリアに判決する――イズクの未来を奪い去った《聖女》に復讐するために。その《聖女》の味方をする者は誰であろうと許しはしない。
「……ワタシを、殺すのですか」
「まぁ、そうするかな」
「なら、ワタシも《聖女》の末端。ここでアナタを倒すことにします」
自分の《奇跡》が効かない相手の前で逃げた《聖女》がよく言うと――イズクは目を細めるが、ロレイメリアには何かしらの勝算があるのだろう。でなければ死という概念が存在しないイズクを止めることは出来ない。
「……ワタシにはあるのですよあの御方に譲り受けた階梯を上げる手段が」
そう言ってロレイメリアは懐から手のひらにすっぽりと収まるほどのサイズの注射器を取り出していた。中には黒く染まった不気味な液体が見ていた。




