4/邂逅:鎧の廻廊《アデメルドウワン》にて(4)
「……どう、いうこと?」
再度、《奇跡》を用いて同じ命令をヘイルバイトに告げる。しかしヘイルバイトはロレイメリアの《奇跡》を受け付けることなく一歩、また一歩と距離を詰めてくる。
ロレイメリアは自分の目の前に突き付けられる現実を受け入れることができずにいた。ヘイルバイトはロレイメリアの《奇跡》を聞き入れた瞬間、本当にその一瞬だけ行動を停止した。
だが、それはほんの数秒。気味の悪い声で嗤うことを止めたと思えば、耳を劈く程の雷鳴にも似た咆哮を上げて、ロレイメリアの《奇跡》は通り過ぎる。
炎も効かない。精神を操作することも出来ない。この《堕天》は自身が受ける《奇跡》の影響を牛のような顔の顎からその腹部まで割ける大口を開けただ食事を行うだけではなく《奇跡》すら喰ってしまうのである。
これまでの多くの人間を殺し喰らうからこその《第6終止符》に属する討伐依頼が出回るほどの危険な怪物なのである。戦いは知識だ。未調査の廻廊の最深部にどんな特性を持った《堕天》が潜んでいるかはわからない。
それでも廻廊を潜るのならば《堕天》に冠する情報は一つ残らず頭に入れておくべきだ。しかしロレイメリアは自分の《奇跡》の強さを驕りそれを怠った。ロレイメリアはヘイルバイトの特性を知らなかった。
《奇跡》さえ発動すれば確殺できたとしても、発動を阻止されてしまえばただの人間に変わりない。そしてロレイメリアは理解する。口が裂けるほどに嗤い、腹部は割れて開口する。この《堕天》がいまロレイメリアを餌と認識し喰うことだけを考えている。
「助けなさいッ! 奴隷ッッ!!」
初めて悟った死。このまま《堕天》の餌になるわけにはいかない。この失敗は次に活かせばいい。こんなところで死にたくない。まずはここから逃げればいい。そのためにまだ生きているルリリルを利用する。
「あっ……」
ロレイメリアの《奇跡》が《堕天》に効かずともルリリルには問題なく通る。壁に打ち付けられてまだ痛みが残っている状態で強制的にロレイメリアの《奇跡》によって操作される。大きく口を開くヘイルバイトの前に立たされる。そして喰われるはずだったロレイメリアは難を逃れ、そのままルリリルがヘイルバイトの両腕に掴まれる。
「いや……やだ……やめ、……っ」
どれだけもがいたところで巨大な白い怪物の腕に掴まれてしまえばびくともしない。しかしヘイルバイトはルリリルのような小動物と変わらない小柄な肉はこのまま藁を絞るように捻じれば簡単に殺せるというのに、それをしない。
探求者を喰い殺すときは一切の躊躇もなく口の中に放り込んでいたというのにルリリルは片腕でその矮躯を握りながらゆっくりと万力を締めるようにルリリルの苦悶から悲泣する表情に変化していくさまを愉しんでいるようにすら見える。知能の欠片もないはずの怪物が、殺す方法を選んでいる。
あのときも、そうだった。
両親がルリリルに逃げるように泣いて叫ぶ様子を愉悦に浸るように厭な声を上げていたことを。
ひと思いに殺すことはせず、悲しませ、苦しませて、時間を掛けて殺すおぞましい趣味だ。
ロレイメリアもまた嗤っている。
逃げようとしても扉は開かない。ここにもう逃げ場などない。このままルリリルが殺された後に、続けて殺されることを解ってしまったから。だから、その事実を受け入れることが出来ずに――これは夢だと逃避している。
聖女でありながら、その力に溺れ、勘違いをした結果がこれだ。
「なんで……こ、んな……」
ルリリルの視界が白く染まっていく。声も出ない。鼻と口から血が滴っているのはわかるが、それを拭うことも出来ない。このまま雑巾のように絞られて、口の中に詰められて終わりなのだ。
けれど痛くない。もう感覚が麻痺して痛覚が無くなってしまったのか――でも痛くないならそれでいいかな、なんてルリリルは自暴自棄になっている。両親と同じ《堕天》に同じ殺害方法で略奪される。死んだ後の世界のことを考えてしまう。
ここが地獄なら、死んで救われるなら――次は、天国がいい。
「聖女さま……」
ロレイメリアに視線を移しても、決して身を呈してルリリルを救おうとはしてくれない。今もこうしてルリリルが《堕天》に喰い殺される瞬間を前に《堕天》と同じように嗤っていた。
そんな無様を前に、ルリリルの途切れつつある意識が繋がった。痛みも、苦しみも、そんなことよりも――眼前に落ちぶれる聖女にルリリルの中で膨らみ続けている失望の念が爆ぜていた。これが聖女――全てを救うために世界を滅ぼそうとする『堕天』へ祈りを捧げ戦う者の姿か? これが?? これが、か???
そんな者が――
「ち、がう……」
そんな者が――
「あなたは、聖女さまなんかじゃない――」
――聖女である、はずがない。
「なん、ですって………………??」
今際の際でありながらそれでもロレイメリアの存在を否定するルリリルの失意に満ちた瞳を前に絶句する。
今から怪物の腹の中で生涯を終えるとわかっていても、そんな自分の死を受け入れることよりも、それだけは絶対に否定しておきたかった。
だからこれがルリリルの最期の抵抗であり反逆だ。ここでわたしは死ぬと――理解しているからこそ、最期に存在だけは否定して終わってやると。
救えぬ聖女など、聖女に非ず。本当の聖女ならば分け隔てなく全てを救うはずだ。全てを救ってくれた聖女がいたはずだ。どうして人だけを救う――人以外を救わない。だからルリリルは否定する。
両親が教えてくれた秘密の話を……ずっと言い聞かせてくれた《本物》の《聖女》の物語を知っているから。
それが作り物だとしても、大好きな父と母が教えてくれた聖女の輪郭をルリリルは追い続けていた。いつまで経ってもルリリルの命の終着をもってこの目で見ることは叶わなかったけれども、だからこそ両親が伝え教えてくれた本物の聖女以外は《贋者》だと――だからルリリルは思い出の中の聖女以外を認めない。
「やっぱり……聖女さまはわたしを助けてくれなかった――」
だけど、ルリリルの思い出の中でずっと光り続けている記憶がある。
――ルリリル……あなたが、この世界に生まれてこれたのは……《聖女》さまのおかげなのよ。
だから、
「わたしが信じている聖女さまは……たったひとりです――」
それは両親が、よく寝る前に絵本を読み聞かせるように語ってくれた《第六位》を冠する聖女の話を。
ルリリルが生まれる十数年前に、《堕天》に襲われたルリルルの村に村を救ってくれた聖女がいた。
その聖女が持つ《奇跡》の性質は他の聖女と違い他者に恵みを与えることも、施しを授けることも出来ない聖女と言われている。しかし、その身がいくら傷ついても、削れても、壊れても、何度でも元に戻り立ち上がる文字とおり盾となる聖女だった。
――――イズク・フォーリンゲイン。
今や三桁近い聖女が生まれているこの世界で人類史に腐れた竜を招いたとされる《一桁位》の《聖女》――そして人類を裏切ったことで侮蔑の念を篭めて《魔女》と呼ばれている。《第六位》を冠していた聖女は――ただ死なないだけの奇跡を持っていたとされている。
しかし他の聖女たちに《奇跡》の重ね掛けにより、不死である彼女はついに滅び、腐れた竜と共に谷底に沈んで消えた。
それから大罪を背負いし、名を呼んでいけない禁忌の対象として歴史上から全ての情報は抹消され、《第六位》は欠番とし、この世全てからイズク・フォーリンゲインの存在は消滅した。
名を呼ぶだけで叱責されるだけでなく《第六位》を《聖女》として崇める者は否応なく処断される。そうして力によって彼女を庇い立てる者はこの世界から一人残らず消され、ルリリルはどれだけ《第六位》のことを知りたくても両親に聞かされた思い出の中でしか存在を知らない《聖女》なのである。
そして《第六位》がこの世界から消え、ルリリルが生まれたあとに再び《堕天》が村を襲い、今度こそ誰も助けに来ることはなく――ルリリルもまた全てを失ってしまったのだった。
「オマエたち何の《奇跡》も持たない、持っていたところで何の役にも立たない劣等すぎる分際を助ける意味がどこにある!!」
自身の死を受け入れられないロレイメリアが目先で殺される寸前のルリリルに激怒する。
「オマエを助ける聖女がどこにいるっていうのッ!!」
「……それでも……《第六位》の、聖女……さまは、きっと……わたしを、わたしたちを――助けて、くれます……」
ヘイルバイトに掴まれた手がまた一つ強くなる。もう息が出来ない。これ以上は声が出せない。もう終わりだ。最期に役立たずの聖女を見下して、自分が下に観ている種に侮られて、そのままこの怪物に殺されてしまえ。
ざまあみろ、と。
ルリリルは舌を出して、そのまま目を閉じた。痛くないのだけが救いだった。息が出来なくて苦しいだけで、このまま眠りに付けば怖くない。
諦めていたくせに、この世界が地獄だと嘆いているくせに自分から命も断てない臆病者には相応しい終わりだ。
けれど目を閉じれば、思い出す。廻廊の途中でルリリルを助けてくれたあの黒衣を着飾った勇敢な女性を。あれは全て失って孤独になって永劫地獄を彷徨っていたルリリルが見た煌めきだった。あの優しさが眩しくて、温かくて、もう一度だけ、あの光に照らされたかった。
おやすみ、なさい――
と、今度こそ意識は途切れ呼吸は停止する筈だった。
それなのに圧迫感を感じない。今にも二つにへし折れるはずだったルリリルの身体は解放されていた。誰かが抱きかかえている。何が起こったのかわからない。ここはまだ地獄のままだ。望んでいる天国にまだ逝けずにいる。閉じられていた瞳を、再び開けるのが怖い。ここはまだ現実なのだから。
しかし、両目を開けばヘイルバイトが反対の壁に向かって吹き飛びそのまま壁にめり込んで動かない。そしてルリリルを抱きかかえていたのは――――
「知っているのですか? 《第六位》を……?」
扉が、溶けている。腐り果てて消えている。だがそれよりもその優しい声と手を憶えている。
「え、エン……さんっ…………」
優しく抱きかかえたまま、それでもエンは真っ直ぐルリリルを見据えている。その真っ直ぐな視線にルリリルは目を逸らすことが出来なかった。誰かと目を合わせることなんて怖くて出来なかったのに、エンと目を合わせることに恐怖はなかった。
開かずの扉と化していたがエンが破壊したことでロレイメリアが我先にと逃亡している。しかし二人は目を合わせて、ロレイメリアが逃げ出していることに気付かない。だが二人にとってそれはどうでもいいことだった。
「あなたも知っているでしょう? 《第六位》がこの世界に何をしたのかを……」
正体不明の腐敗した竜を人類史に呼び寄せて世界を滅ぼそうとした聖女――誰もがその者を《魔女》と呼ぶ。しかしルリリルは首を横に振り、
「知ってます! でも……わたしが生まれてこれたのは……《第六位》の聖女さまのおかげなんです!!」
ルリリルがこの目で見た真実ではない。両親が教えてくれた話でしかない。それでも、
「だ、だけど、わたしは信じています! わたしがいまこうして生きているのが証明なんです!!」
世界はいつまでも残酷で、生き続けたところで地獄でしかない。それでもこの世界に生まれることが出来たのは《第六位》の聖女がルリリルの両親を、村を守ってくれたおかげだった。
「わたしの一族を救ってくれた《第六位》の聖女さまを……あの方がわたしが生まれる前のわたしの一族を救ってくださったと……死んだ両親から聞き伝えております!!」
そこでエンは目を見開いて、ぎゅっと少しだけ手に力が篭っている。
「リルリの……民――」
ルリリルの姓を口にして、何か言いかけたときそれまで壁にめり込んでいたヘイルバイトが勢いよく飛び出し、怒りを篭めて割れるほどの咆哮が部屋中に響き渡る。ルリリルは両耳を押さえているが、エンは横目で面倒くさそうに睨んでいる。
右眼の眼球が――その瞳が二つに増えたように、見えた。
だが瞬きすればすぐに戻っていた。それはきっと見間違えだろう。
「それで……生まれて来れたのにこんな残酷な世界にあなたを放り出したまま二度目は現われずあなたを裏切ったのではないですか? そんな無責任な聖女がもし目の前に現われたらどうしますか……?」
ヘイルバイトが地団駄を踏み締め、今にもこちらに向かって襲い掛かって来そうだというのにエンは一切の興味も無くルリリルを見つめて問い掛ける。
怒りを、恨みを、憎しみを、ぶつけると。
いや、
「わたしを生んでくださってありがとうございますと……」
だがルリリルの言葉は感謝だった。
「ここは地獄ですし、いまも地獄のままです……どこにいっても居場所なんてない。わたしを救ってくれる人なんて誰もいない……」
世界はいつまでもルリリルを追い詰め続けていた。そしてそれはきっと死ぬまで変わることのないと諦めていた。けれどこれまで一度足りとも《第六位》の聖女に憎悪を抱いたことはない。だって、それは――
「それでもお母さんと、お父さんと……いっしょに過ごしたあの時間はかけがえのないものです。わたしの大切な時間です。思い出なんです……本当に短い時間でした……それでもあの温かさをわたしに与えてくれてありがとう、ござい、ます……と……」
生まれて来なければそんな時間にすら廻り会うことは出来なかったから。だから一度だけお礼を言いたい――ルリリルの願いはたった一つだけだった。こんなことを言ったところで叶わないけれども。
しかし、
「あなたは……《第六位》を、信仰している……?」
「はい」
「ならあなたは……《第六位》の信者であると……?」
「はい」
「その言葉に、嘘偽りは無く?」
「はい」
「あなたは、《第六位》に……会いたいと――」
「はい」
それが、叶うのならば、
「あの方こそが、わたしの敬愛する……聖女さまです――他はすべて、にせものです」
親しいわけでもなく、顔さえ知らない聖女に対してルリリルはそう誓った。
「ならば《第六位》だけが――」
そしてこれが最後の問い。当然、ルリリルの答えは出ている。
「――《本物|》《・》で、ございます」
ヘイルバイトの咆哮が止まり、両腕で地を打つと弾丸のように突進を開始する。
「ありがとう」
それはとても小さく息と共に漏れた感謝だった。それでもルリリルの両耳はしっかりとその言葉を聞き取っている。
そしてエンはゆっくりとルリリルを地に下ろし、襲い掛かるヘイルバイトに向かって右拳を打ち付ける。とてつもない速度で撃ち放たれた拳はヘイルバイトの額を貫き、そのまま祭壇まで弾き飛ばされていく。祭壇のような台に背中から落下したことで衝撃音を響かせその台の上に山積みになった腐った肉と共に横たわる。
「こんな不出来な私を知る者よ――」
だがそれは横たわる怪物に向けられたものではない。ヘイルバイトに背を向けたまま、ルリリルに正面を向けて彼女は黒衣の両裾を掴み、片足の膝を少しだけ曲げて背筋を伸ばしたまま挨拶をした。
「私の名は《終わら不》の《聖女》が――《第六位》――」
信じられない。
これは本当に現実なのだろうか?
これは自分が生み出した妄想ではないのか。夢想の中に沈んで溢れた幻想なのではないか。両粒の涙がルリリルの目元から溢れていた。どれだけ痛くても、苦しくても流れることのなかった涙が……歓喜に打ち震えながら流れ続ける。
そうだ、これは現実だ。
「――――イズク・フォーリンゲイン」
今まさにルリリルがずっと両親に語り聞かされていた本当の奇跡を垣間見ている。
「今すぐ気にせず、呪われろ――――」
そして振り返れば『堕天』に向かって指差せば呪詛を振り撒き、ゆっくりとヘイルバイトに向かって近付いていく。
エンと名乗る黒衣の女性の正体は《第六位》の聖女――そして歴史上から存在を抹消された《魔女》――イズク・フォーリンゲインだったのである。




