2/邂逅:鎧の廻廊《アデメルドウワン》にて(2)
「私の名前はエンと申します。以後お見知りおきを」
エンと名乗る黒衣を着た女性が丁寧に名乗りながら、ルリリルの手を握りながら優雅に回転する。
それと同時に襲い掛かる《堕天》の伏兵たちが散り散りに吹き飛ばされる。その暴力は舞踏のように華やかで、煌めくほどに美しかった。
襲い掛かって来た生屍は全てエンの手によって破壊されている。武器は持たず、丸腰のまま廻廊を潜っているなんてそんなものは探求者なのではない。ただの自殺行為である。
けれど今はそんなことよりもルリリルはただエンに見惚れていた。これまで地獄のような世界を生き続けたていた彼女にとってはこれが最初の救いだった。その眩しさにずっと照らされていたい。このままでいたい。
ここにいれば、ずっと――怖い思いをしなくてすむのではないのだろうか。
「お名前を、お聞きしても?」
「あ、え、え、えっと……る、ルリリル・リルリと、も、もうします……」
ルリリルがしどろもどろになりながら名乗ると、エンは目を細めて小さくルリリルの名を反芻していた。
「ここではなんですし場所を移動しましょうか」
エンはまた優しく微笑んだままルリリルに提案する。ここに安全な場所なんてない。
だけど今はこの人といっしょにいたいという想いが強すぎて、離れたくなくてルリリルはただ首を縦に振るしかなかった。
「かわいい耳ですね」
迷宮を突破し、廻廊の深層に少しずつ近づく中、ルリリルがピコピコ動く両耳を見たエンは柔和な笑みを浮かべたままそう言った。
「そ、そんなことは……」
あり得ない。
亜人族がこの姿で得をしたことはない。獣を姿をしただけの生き物。
人族以上に奇跡を持たず、与えられたとして人族より扱えず、年月と共に差別される対象となった。今では殆どが奴隷として扱われている。
「そんなことありますよ」
そしてエンがルリリルの手のひらに手を合わせる。
「すこし……お話をしませんか?」
そう言ってエンは立ち止まり、その場に座り込む。ルリリルも頷いて同じように座る。
両耳を意識して遠くまで欹ててみるものの何も聞こえない。脅威は近づいて来ない。それに何があってもエンの強さならば問題ないだろう。
ルリリルと一緒にいたA級探求者は数の暴力で何も出来ずに死んでしまったというのにそんな群れを一人で汗一つ掻くことなく処理してしまったのだからまず間違いなく探求者であるならS級でなければ話が合わない。
「え、エンさまは……どうしてこちらの廻廊に……? しかもおひとりで――」
なので失礼を承知でルリリルはエンに向かって質問するが、エンは頤に手を当てては何か考え込むように言葉を引きずり出している。
「だんじょん……ここはそう呼ばれているのですか?」
だがエンから返ってきたのは意外な言葉だった。
そしてそこからルリリルは幾つかこの世界の常識に対しての質問をしてみるのだが全て返って来る言葉が初めて聞いた用語のように頭を傾げてばかりなのであった。
廻廊のことも、探求者のことも、探求者を証明する階級証明証も持っていない。
(む、無免の違犯探求者……ってわけでもないし……)
別に世界の救済の為でなければ廻廊は最深部まで行く必要はない。金目の物欲しさに廻廊へ進入する者も珍しくはない。
階級証明証を持たず探求者ですら無いのにその金品目当てで潜るものは少なからず存在する。しかしエンの反応を見る限りそうにも見えない。
そもそもエンは本当に丸腰で鞄すら持っていない。それどころか身なりのせいで教会にシスターが祈りを捧げに来たようにしか見えないのだ。
「ごめんなさい。私どうも世間知らずで……十年以上ひとりで山奥に住んでまして」
命の恩人だというのは十分に理解している。
しかしその発言をそのまま受け入れるということもルリリルには出来なかった。
廻廊が各地で現われて確かにまだ十年ほどの歳月しか経っていないし探求者という名称もそれを管理する組合も設立されて同じぐらいの時間しかまだ経っていない。
だがそれでもどれだけ世間に疎くとも、町や都市から遠く離れた山の上で暮らしていたとしてもこれらの言葉を聞いたことがないというのはさすがに無理がある。
だが否定することが出来ない。いや、したくなかった。ルリリルはこのヒトに救われた。声を荒げることもせず生に固執することもなくただ沈黙を徹して命の終わりを受け入れていたその刹那、その手一つで敵を排除し、ルリリルを救った。
あのときエンの姿は後光が射したように見えた。この世界のために貢献していると言われている聖女は奴隷である亜人族に手を差し伸べてはくれない。
けれどこの人だけは何の見返りも求めず、路傍の石に他ならない弱い命を拾い上げてくれた。
だから救われたこの命を献上していいとすら思えた。奴隷ならばこの方のためにどんな命令でも実行し、この身を差し出していいとすら思えた。
だからまずは否定から入るわけにはいかない――この御方が知っている言葉で、会話を紡ぎたかった。
「で、では……聖女さまについてはどの程度、お知りでしょうか……」
その名称を耳にした途端にエンの表情が間違いなく変わったことをルリリルは見逃さなかった。
ほんの一瞬、そう本当に瞬間だけ眉を顰め、一度だけ片目がピクリと痙攣したのが見えた。
だが即座に元の柔和な優しい表情に戻ったので敢えてその変化に対して見逃した振りをした。あの刃の如く鋭い眼差しに触れることは恐れ多い。
ルリリルは奴隷である。
だからこそ飼主の聖女や探求者らの機嫌を伺い、表情をよく観察している。
何が必要なのか、何を要求されるのか、そうやって他者の反応に敏感になってしまうのだ。
間違ったことをすれば、失敗してしまえば飛んでくるのは罵声と乱暴だけだ。そのせいで無意識にも他人の表情の微細な変化が気になってしまう。
だからこそ発言と行動には十分注意している。このまま謝罪し内容を変えるべきか続ければいいか実際のところルリリルは迷っていた。
しかし、
「それは《極光》の囁きに誘われ、穢れ堕ちた《堕天》の者どもから女神によって与えられた最上級の《奇跡》を以て人類史を守るために集った神聖なる救済の乙女――ですよね」
これまでどんな質問をしてもちぐはぐな返答しかなかったエンだったがこれに関しては目を見張るほどに完璧な解答が返ってきた。途切れることなく饒舌に語られるその言葉にルリリルは拍手を送りそうになってしまった。
「聖女さまのことも知っておられるのでしたら……《神話大戦》のこともご存知ですか?」
聖女を語る上で最も外せない《奇跡》の発端――何故に人類は《奇跡》という名の異能を与えられているのか。
「もちろんです――最も有名なおとぎ話ですから。月の傍らに身を寄せるもう一つの金色の月……人類史の始まりを星ともに終焉へと呑み込もうとした最初で最後の最古の魔物……《極光》を封印した《七虹》たちの戦いのお話ですよね」
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
――《聖女》が生まれるよりもっと前の話。
神話大戦――人々が生まれるよりも悠久の昔、遠い遠い宙の上で星が出来るよりも神代の昔――《極光》という魔物がいた。
世界が生まれる瞬間、全てを喰い尽くそうした最初で最後の最古の魔物。未だ魔物という生命体はこれ以降は姿を現してはいない。
人類史が始まる前、まだ星が生まれたばかりの時空でただ理由も無く、ただ破壊の為に現存した否定の怪物――《極光》を退けた七体の救済者がいた。
《七虹》――と、呼ばれる竜がその《極光》を退けたことにより人類史は始まる前から終焉することなく今日まで続くことが出来た。それを神話大戦と呼び、人々に語り継がれている。
そんな人類が生まれる前の物語をいったい誰が伝えたのかそれは作者不明の文献に載っていたとか――それが如何にして見つかったのかか……出土したとか、何処かの遺跡で見つかったとか。
もしかしたら誰かの創造でしかないのかもしれない。それでもこの世界で最も有名なおとぎ話の一つとなっている。
しかしおとぎ話であればよかったのだが、やはりこれは真実であり現実に未だ現存している伝説なのである。
それは《極光》は身体の九割以上を欠損し、残った一部の部位は宙の向こうにある月の傍らに残っているからだ。
やがて地上からも月の横に巨大な《瞳》のように見える。それがただ静かにこの世界を見据えているのだ。人類の目に映るその巨大な怪物の残骸がこの物語の信憑性を確かなものにしているのであった。
だが本題はここからである。
星は守られ、人類史は始まった――しかしそこから数千年が過ぎたころ《極光》は人類に囁きかける。
その声に誘われ、力を欲した者は《堕天》し怪物に変えられてしまうというおぞましい病を撒き散らす。
このままでは世界が《極光》が生み出した怪物で溢れかえってしまう。人類史がゆっくりと滅びに向かいつつあるそんなある日のことだ。
それを危惧したかのように女神が現れた。しかし人類はその姿を見たことはない。だが勝手に神格化し、そのように呼んでいる。何故か?
《奇跡》を与えてくれるからだ。
見えはしない。だが決まって異能を与えてくれる。だから確認すらできていない、いるかもわからない女神とやらを信じている。
人類は無作為に異能を授かる――と、いうことになっている。もちろん誰も証明はできない。しかし人類史は《奇跡》を得る。この世界に魔法は無くともこの力がもはやそれに等しい人類の叡智を超えし異能。
これが《奇跡》の発現の始まり。
そしてその中でも大いなる力に目覚め、最上級の奇跡を持つ者は決まって女性であり、その力で《堕天》した者から全てを守る者こそが《聖女》なのである。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
「と、こんなものでしょうか?」
まるで最初の途切れた応答が嘘のようにまるで語り部の如く話される内容についルリリルも自分自身知っているのことだというのに聞き耽ってしまった。
「そ、そのとおりです……」
「ですが――」
瞬きをしたと同時、エンはルリリルの目の前にいつの間にか立っていた。そしてそのままルリリルは壁際に追い詰められている。
「あなたは聖女さまに助けてもらえなかった」
死を悟り、終わりを受け入れたルリリルが最期に遺そうした恨み言をエンの耳には聞こえていたのであった。
「だから諦めて死を受け入れた――そんな小さな身体で泣き声も出さずに助けも求めずに死ぬことで救われようとした」
手を振り上げる。
反射的にルリリルは頭の上に両手を出して両目を閉じ、怯えてしまう。その様子を見たエンはすぐに振り上げてた手を元に戻す。
「やはり、あなたも……そんなところで生きるしかなかったのですね……」
エンはルリリルが取った反射的に自分を守ろうとする防衛本能を目の当たりにしたとき心の底から悲哀の眼差しをルリリルに向けていた。
ルリリルは今にも泣きそうな顔で震えたまま下を向いている。だけどエンは何もしない。そのままただゆっくりと黒猫の少女を抱き締めて、
「聖女はあなたを助けてくれなかった。なら、どうすればあなたを助けてくれるのでしょう」
エンがギュっと抱き締めて、耳元でそう囁く。こんな薄汚い埃に塗れた黒猫の亜人にどうしてそこまで優しくしてくれるのだろう。
「だから聖女なんて、いませんよ……いるならもっと早くあなたを救ってくれたはずです」
エンの言うとおりである。聖女は全てを救う為に存在すると言われている。ならばなぜ人だけを救うのか。
「力が、あれば……そう、思いませんか――」
その言葉に、ルリリルは目を見開いた。囁きながら強い力を求めるように誘導するような……それは、まるで――――
(こ、これ……え? や、やだ、こわい……)
エンの手に力が篭っているのがわかった。これ以上強く抱きしめられればもう逃げられない。
「ご、ごめんなさいっ……」
ルリリルは自分を救ってくれた者の手を拒んだ。怖かった。まるでそれは月の横でただ何も言わず傍観している《極光》が囁いているような気がして。
それ以上その言葉に耳を傾けてしまえば別の何かに変えられてしまいそうな気がして――叩かれるよりもずっとおぞましい恐怖がエンを押し退けてしまったのだ。
「あっ、ああ……わたし……」
死を受け入れるのはいい。諦めるのもいい。でもあんな化物にはなりたくない。《堕天》は尊厳を殺す病――器だけにされて、違うものを注がれる。そして別のモノに成り代わる。それがこの世界に魔族はいないが、怪物はいる理由だ。
拒絶したのは自分だった。救ってくれたエンの手を振り解いたのも自分だ。ルリリルは最初で最後の希望を自身の心の弱さでエンの手の甲を引っ掻いていた。真っ直ぐ線を引いたように傷が入り、ルリリルは自分の手の甲を見つめている。
「ごめんなさい。初めての出会いに高揚していました……失礼なことを」
だが、そんな無礼を働いたルリリルに対してエンは怒りを露わにすることも不快そうに見つめることもしない。奴隷に傷を付けられたというのにエンは自身の行いを詫びた。
「ごめ、ごめんなさい……せ、せめて手当を……」
そう言って、ルリリルはエンの手に触れるのだが――
「き、傷が……、ない?」
確かにルリリルの猫のような手の爪先はエンの白い肌を傷つけたはずだ。赤い血が滲んでいたかはわからない。
でも確かに傷つけたことはわかる。それなのにまるで時間が巻き戻ったようにあるはずの傷が消えている。
「ルリリルさんは《魔女》と呼ばれた……《聖女》についてはご存知ですか?」
その口元が、三日月のように歪んでいた。ルリリルは知っている。その言葉を知っている。だから、恐る恐る頷いて――
「はぁ……やはりこんなところでは落ち着いて、お話もできませんね」
生屍が再び後方から姿を現す。
「ルリリルさん、もし私のことを信じてくださるのなら先に行っていただけますか?」
「……え?」
「私もそこに用があるので――その前にこのかわいそうなヒトたちを片付けてから行きますのでどうぞお先に」
そう言ってエンは黒衣のスカートの裾を摘まんでお辞儀をする。ルリリルがここにいても足手まといにしかならない。そしてもう今は退路は存在しない。傷をつけてしまったことは謝っても謝りきれない。
にも関わらず憤慨することもなく奴隷に対してここまで優しいエンの言動を前にすれば信じる以外の選択は無い。
「わ、わかりました……あ、あのっ!!」
だからこれだけは、まだ言えていない言葉を。
「助けていただいて、ありがとうございました」
言うのがあまりにも遅くなった言葉を、ここで言う。ここまで来れたのも、諦めたはずの先へ歩めたのも全てあなたのおかげだからと――感謝を篭めて頭を深々と下げる。
「感謝はいつされても心が晴れますね」
そしてエンはルリリルの頭を撫でて、
「お往きなさい。また、逢いましょう……」
それ以上、言葉は要らない。ルリリルは振り向いて最深部へと走り出す。振り返らない。だって彼女はすぐに追い付くだろう。
邪魔にならないようにこの場から離れた方がずっといい。そしてルリリルは背中で響く音が小さくなるまで、走り続けるのだった。
(あのヒトは……いったい、なにもの……なんだろう……)
ルリリルはふと思い出す。聖女でありながら白ではなく黒の法衣を唯一着せられて《奇跡》を持っていながら決して他者に恵みを分け与えることのない聖女がいたと。
しかし分け隔てなく決して選ばず、否応なく一方的に他者のためにその身を呈する《聖女》であったと。
その聖女さまのおかげで、今のルリリルがいるのだと――昔、まだ住んでいた村も平和で両親に寝る前によく教え語られた《第六位》の聖女の話を――




