1/邂逅:鎧の廻廊《アデメルドウワン》にて(1)
――《聖女》なんていない。
ルリリル・リルリは知っている。
本当の《聖女》である《第六位》が殺された、あの昔話を知っているから。
「……えっとっ――つぎは…………」
とある廻廊にてルリリルは表情を蒼白させたまま、背後から迫る恐怖に怯えながら必死に思考を張り巡らせる。
ルリリルは亜人であった。背丈は小さく、体つきは黒猫のように四肢は体毛が覆われて動物的。大きな猫耳と大きな尻尾。顔つきだけは人間となんら変わりはないがそれでも身体の殆どがもう人間からは離れている。
この世界は人族と亜人族に分かれており、亜人族は獣の血が濃ければ濃いほどにその容姿は人よりも獣に近くなる。そして人族との窮極的な違いは《奇跡》も持っていないことだ。
だが――彼女は亜人でありながらも唯一《奇跡》を所有している。
「こ、こっち……です!」
《奇跡》はこの世界を生きる者に女神が与えた異能。
しかしルリリルが使える《奇跡》はせいぜい聴覚が強化される程度。《奇跡》には名称が付くはずなのだがそのあまりの脆弱さに名を付けるのすら憚られる。
廻廊での道が二分する度に、壁に耳を押し当てて両耳に意識を集中させてピコピコと動かせては常人以上の聴覚を発揮し、壁の向こう側、目で見えない遠い場所まで聞き取れる。そして安全な方の道を選択し、即座に危険から逃れていく。
ここは鎧の廻廊――《アデメルドウワン》
世界地図の中央に聳え立つ最も巨大な都市とされる《聖女都市》から南東にある森林の緑地の中に目立つように白く穿たれた穴がある。それがこの廻廊の入口である。
十年ほど前……あの忌まわしき腐れの竜を世界に誘い、多くの町を、地を、全てを腐らせ世界を終焉に陥れようとしたが五人の聖女たちに斃された人類史に現われた最初の《魔女》であり。
その災厄の討伐から数年後、突如として各地に姿を現われたのが廻廊と呼ばれる迷宮だ。そしてその最深部を目指す者たちが《探求者》とされている。
廻廊にはさまざまな構造をしているが今回探索している廻廊は特に標準的なわかりやすい迷宮のような構造だった。
道が枝分かれしているが、正しい道を選ぶことで終点の深層に辿り着けるようになっている。廻廊内にはいくつもの中身の無いがらんどうの鎧が配置されているが動き出すことも無く、それはただの背景でしかなかった。
廻廊を進む度に小部屋には金銀財宝が視界に入る。並の探求者ならば生活の為にそれを回収するのが普通だろう。
それさえ回収してしまえば別に目的は達成されている。だからこれ以上廻廊の最奥を目指す必要はない。だが、このパーティは違う。
「本当にこっちであってるのかしら?」
六人ほどのA級探求者に囲まれて、不機嫌そうな顔でルリリルの引率に眉を顰めている者の名はロレイメリア・リビィレリナ――彼女は《聖女》である。
「だ、だいじょうぶです……」
ルリリルの耳には脅威が接近する音が聞こえない。ロレイメリアの圧に耐えられず震えは止まらない。
ルリリルは今回この《聖女》に買われた奴隷である。首には奴隷の証である錆びついた銀色の首輪が装着されている。
「アナタの変わりなんてごまんといるけれど、奴隷の分際でゴミとはいえ《奇跡》が使えるっていうから側に置いているだけよ。もし……使えないとわかったらぁ――――」
ロレイメリアはルリリルを射貫くほどに強く睨みつけている。蛇に睨まれた蛙のようにルリリルは動けなくなる。
それは比喩ではない。間違いなく《奇跡》を使って凝視されている。このままでは気を失ってしまいそうなほどに息もできなくなるほど。
「ワタシは《第九十三位》の聖女なのよ。わざわざこんな薄汚い廻廊に来たのも――アレを倒せるのがワタシだけだからよ」
この世界には魔王も勇者もいない。だから廻廊の中に魔物が現われることもない。魔族という種族がそもそも存在しないからだ。
天国と地獄が繋がることも無く、天使や悪魔が姿を見せることも無い。だがこの人類に明らかな悪意を向ける敵が一つだけ存在している。
「もし厄介ごとを引き連れたときは……アナタが責任をもってなんとかしなさいよ」
「は、い――…………」
ルリリルは、選択の余地はなかった――彼女は聖女でも探求者でもなく奴隷だったからだ。今回は《第九十三位》のコンパス代わりにされているが、前回や前々回は違う《聖女》と共に廻廊を歩かされている。
無事に生きては帰って来れたが、生きた心地はしない。道具のように扱われているのだから当然だ。帰れば奴隷商のもとに返され、必要なときだけまた借りにやって来る。
ルリリルは特に耳が良いそれが廻廊には相性がいいのか案外《聖女》の間では便利な亜人ということで人気ではあったりする。所詮、道具として――だが。
廻廊に進入する際は《聖女》であれば誰であれ進入できる。しかし《探求者》の場合は階級を証明する証がいる。
廻廊の難易度に階級が下回っている場合は入れない。しかしここで奴隷が役に立つ。奴隷は道具として扱われるのでこれに関しては数えられない。
そしてルリリルは奴隷であり亜人でありながら他者より遠くの音を聞き分けられる《奇跡》を持ってることで《聖者》や《探求者》に廻廊に連れ回されているのである。
しかしどれだけ便利であろうともぞんざいに扱われているのであるからルリリルにとっては地獄である。
《奇跡》は決まって十の齢を迎えたときに突然与えられる――しかし、それは人だけであり亜人の大半が奇跡を与えられずにいる。
そして仮に亜人が文字とおり奇跡的に《奇跡》を手に入れたとしてもルリリルのように聴覚を強化する程度といった、理を操ることすら可能な異能の中では底辺に分類されるものしか使えない。
だが《聖女》らはルリリルを道具としては評価している。何かあれば囮にすればいいし、ルリリルのような五感を強化するものならそれをコンパスの代わりにできる。
《奇跡》を持つ亜人族はこのように探求者の探索用の道具として扱われるので生きて帰れば明日がある。本当に何の奇跡も持たない奴隷はただの労働力としてしか数えられない。
しかしどちらであれど行きつく先は使い捨ての消耗品。どちらが良いかなど結局のところ地獄であることに変わりはないのだから比べようなどないのだけれども。
「――――……あ!」
廻廊も半ばを過ぎて、ルリリルの両耳が反応した。前方から足音――他の探求者が潜っている場合もあるがしかしルリリルの聴覚がそれを否定する。
「聖女様ッ!」
ルリリルが振り向いて、危険を知らせようとしたときロレイメリアの側近にいた探求者が聖女の名を呼んだ。
「現われたわね」
廻廊には至るところに鎧が鎮座していた。中身の無い鎧だ。動くはずがない。しかし今ルリリルたちの眼前にはその鎧が剣を振り上げながらゆっくりとこちらに向かって動いている。
しかしそれは空ではない。中身がある。
中に、人間が入っている――死んでいる人間が。
それはまるで生ける屍だった。兜の中には腐り果てて異臭を放つ人間だったものが見える。命は喪われているのに何者かが上で糸を括りつけて操っているように不格好に揺れ動いている。
探求者の一人が冷静な声で言う――《堕天》を確認したと。A級の探求者ならば接敵は一度では無いのだろう。すぐに武器を構えて鎧を着た死肉を前に勇敢に立ち向かう。
《堕天》――人類史を脅かす生物を怪物に変える人ならば尊厳を死に到らしめる病のような事象。
原因不明。発生条件不明。ただ《堕天》する者は決まって《何者》かの囁きに耳を傾ける者らしい。その声を聞いたが最期――人の形をしたまま怪物になるか、人の形を逸脱した怪物になるかだ。
そんなおぞましい事象が途絶えることなく数百年が経過してなお続いている。この世界に勇者も魔王もいない以上、魔族も存在しないが故に人類に襲い掛かる人外は何であれ《堕天》と呼称することになる。
しかし全ての怪物を《堕天》と一括りにするとややこしい。よって何度も確認されている怪物は名前が付けられている。
今まさにパーティに接敵している怪物は《生屍》と見たままの呼び方をしている。元は探求者だったか、それとも金品目当てで廻廊に潜り込んだ浮浪者か……もう生前の姿を知る者はここにはいないが。
だがここ最近、この森林にある近くの村人が《生屍》を見たという報告を受け、原因を究明するために調査のためにロレイメリアを派遣したのである。
廻廊から外へ《堕天》が出てくることがあるのは世界の治安に関わる。
十年以上前はまだ指で数える程度の聖女しか存在していなかったこの世界だったが、廻廊の出現と同時に聖女の数は急激に増えた。それのおかげで現われた廻廊に聖女を派遣し、人類を脅かす堕天の対策を行っている。
「ほら、さっさと片付けてくださいな」
そう言ってロレイメリアは一歩下がり、A級探求者の二人が剣を振り翳し、鎧を着た《生屍》に立ち向かう。呆気なく首を刎ね、戦闘はすぐに終わる。
低級の《堕天》は案外《奇跡》を用いずとも容易く討ち倒すことが出来る。
「高い金で雇っているのだから役に立ってもらわないと」
廻廊が世界に現われる前、まだ六人しか聖女が存在しなかった時代――聖女は一人も欠けてはならなかった。だからこそ常に六人で編成され更に聖女を専属で守る騎士を配置し丁重に扱っていた。
だがこの十年――たった十年で聖女の扱いは案外と雑なものになってしまった。廻廊が増え、《堕天》の数も増え、世界が少しずつ壊されていくのを防ぐために廻廊に聖女を派遣する。
しかし廻廊と《堕天》の数の多さに戦力は分散されてしまう。だが脅威度の高い《堕天》を倒すのには聖女の奇跡が必要だ。
そんな危険な場所の最深部に単身で聖女を行かせるわけにもいかない。そんなとき廻廊を探索する探求者を雇うことが主流になっている。金さえ払えば危険な仕事に手を貸してくれる。
「さっさと次に行きますわよ」
異臭を撒き散らして横たわる腐肉にロレイメリアは不快感を露わに鼻をつまんでいる。しかしずっと玉のような汗を額に浮かべているのはルリリルだった。
(ちがう……これでおわりじゃ……こんなのでおわるわけが……)
ルリリルは知っている。《堕天》の獰猛なまでの破壊の衝動を――自分の住んでいた村を呑み込んだ《堕天》の恐怖を。
《堕天》に知能はない。交流をはかろうとしても無闇に攻撃してくる以上、互いに理解し合えるわけがない。だが、それなのに――
「後ろから、来ますッ!!!!」
ルリリルの両耳は確かに滅びの音を拾い上げていた。
前方にゆっくりと現われた《生屍》は時間を稼ぐための囮。
本隊は後方から生前の人間らしさを忘れさせぬほどに早く、速い。甲冑を着ているとは思えぬ速度で聖女たちのパーティに襲い掛かる。
一手遅れた――その遅延が死を招く。ロレイメリアの隣にいた探求者の一人が声を上げる間もなく瞬く間に首と胴を刺し貫かれ絶命する。ロレイメリアは目の前で一瞬で死に絶える命を前に絶句する。
「奴隷っ! はやく正しい道に案内しなさい!!」
ロレイメリアが絶叫し、ルリリルはビクリとその声に反応しまた分かれている前方の二つの道の前に立って、聞き分ける。前からもし同じような《生屍》がやって来たら挟み撃ちにされて終わってしまう。間違えるわけにはいかない。
「…………あっちです!!」
ルリリルが指差せばロレイメリアの表情が明るく希望に満ちたように見える。しかし後方から迫りくる生屍の数はこちらの二倍近くいる。そして速い。このままではすぐに追い付かれてしまう。
「お前たち、相手をなさい」
当然そんなこと許諾できない。この数で戦うなど自殺行為でしかない。探求者たちは首を横に振るが、
「言うとおりにしなさい。もういいわ……探求者が一人が……戦いなさいな」
ルリリルは理解する――《奇跡》が発動した。大いなる力を使うことを女神に許された《数字》を与えられし者――《聖女》
ロレイメリアは《第九十三位》――九十三番目の《聖女》
何が起こったのかルリリルにはわからない。
しかしロレイメリアの言葉を遵守するかの如く、探求者の一人がその場で立ち止まり《生屍》の群れに向かって我先にと言わんばかりに逆走していく。
それは探求者の意思に反して剣を執り、武装する《生屍》に悲鳴を上げながら対峙する。泣き喚きながら無理やりに戦わされている。当然たった一人で数の暴力に勝てるわけもなく。その命は四散する。
しかし時間は十分に稼げた。なんとか《生屍》の波に呑み込まれることなく逃げ切ることが出来た。しかしそれは六人いたはずの探求者の内、二人の犠牲の果てである。
「言ったでしょう? 聖女には変わりはいない。でも他はいくらでもいる。奴隷も探求者も、ね」
ロレイメリアの選択によって死んだようなものだというのに彼女は悪びれた様子もなくけろっとした顔で次の道へと進んでいく。
《奇跡》を使って無理やりに探求者たちに結末を押し付けた。さすがに残っている探求者たちも不信感を露わにしていたが、
「なにその顔? あなたたちも同じように命令して差し上げましょうか? 別にいいんですのよ。ワタシ独りだけがいちばん奥の部屋に辿り着けさえすればそれで終わりなのですから」
そう言って両手で祈るような仕草を取ると探求者はすぐに表情を元に戻した。
《奇跡》を使う際には手で印を結ぶのが主流であり、そのときの手の組み方は使用者が最も《奇跡》をイメージしやすい形で編まれる。
その中で聖女が《奇跡》を使う時に用いるのが両手を握って神に祈るような仕草が標準的なポーズである。
それを見たルリリルはその姿を前に嘔吐感が込み上げている。神に祈るその構えは、ルリリルにとっては断頭台に祈りを捧げているのと同じに見える。
ルリリルがまだ奴隷になる前、それはそれは小さな村でひっそりと住んでいた。何も悪いことはしていない。ただそこで平和に暮らしていただけだ。だけど、ルリリルの村を焼いて、ルリリルを攫ったのは――――
「奴隷、なにを呆けてますの? さっさと道を示しなさい」
「あ、は、はい……ごめん、なさい…………」
そして再び二分する道を前でロレイメリアが叱るように声を掛けることで我に返った。また両耳に意識を傾けて、正しい道を選び取る。音の無い方……前から敵意が流れて来ない正しい道を。
「み、右の道です……」
そう言ったと同時に《生屍》の波が再び襲い掛かる。走っては来ない。
ただゆっくりとゆっくりとルリリルたちの距離を詰めて来る。早く逃げないと――そう、振り返ったときロレイメリアが手でルリリルを制していた。
「これ、あなたのせいでしょ?」
違う。
《生屍》が襲ってきたのはルリリルが原因ではない。生きる者が廻廊に潜ればきっと何処かで《堕天》と接敵するのは仕方がないことだ。
廻廊も終点へと近づけばそのリスクも大きくなる。だが度重なる精神的苦痛にロレイメリアも生き残っている探求者たちも、全ての原因を奴隷であるルリリルに責任があると他責的に考えている。
だがルリリルは弁解するよりも先に探求者の一人に押されて、その場でぺたりと倒れてしまう。
「奴隷なら最期まで役に立たないといけませんとね?」
「わ、わたしは……なにもしてませんっ! おねがいです……た、たすけて……」
だがロレイメリアは酷く歪んだ顔をのまま、
「亜人のお前を助ける意味がどこにある。穢らわしい《魔女》のしもべが……」
その言葉にルリリルは何も言えなかった。
人類史に終焉をもたらそうとした最初の《魔女》――その魔女は人ではなく亜人を救おうとしたという。
そんなものはでたらめだ。亜人たちも魔女など知らない。しかし人類は勝手にそうでっちあげて、元よりあった亜人に対しての差別の根強いものにした。
だが人類に深く根付くこの意識がある限り亜人はどうすることもできない。対抗する《奇跡》の一つでもあれば戦ったのかもしれない。しかしそんなものは与えられることはなく、聖女は人類だけしか救わない。
「最期ぐらい役に立って。……ねぇ?」
そうロレイメリアが言うとそれと同時にもう一人の探求者が両手を翳せば《焦がす炎の奇跡》を発動させる。
それはルリリルの前に炎の壁を生み出し、ルリリルが選んだ正しい道を進むことを拒絶する。聖女らは正しい道を――ルリリルだけがもう片方の道を進まされる。
背後からはゆっくりと抵抗できない獲物を狩るために絶望の如く押し寄せる《生屍》たち。
当たりの道を進めばそのまま聖女たちのパーティは悠々と最深部に到達することだろう。
しかしはずれの道を選ばされたルリリルは迷宮のように入り組んだ道を進むことになる。後方からは常に命を刈り取る刃が迫って来ている。彷徨えば死に浚われる。
「は、はやく……にげ、ない、と――」
そんなとき、やけに頭の中が冷静になっていた。どうして……逃げるのだろう、と。
ふと迷宮で逃げ惑うルリリルはそんなことを思ってしまった。
自分は奴隷で、生きていても――もしも何らかの奇跡が起こってここから出ることができたとしても結局待っているのは中であれ外であれ目に見えるのは地獄でしかない。両親も村のみんなも知らぬ間に殺されて、自分だけが連れて行かれた。
人族は《奇跡》を与えられ、更にそこから選ばれた者は《聖女》と呼ばれるほどの強大な異能が使える。
しかし亜人族は殆ど言っていいほどに《奇跡》が発現することはなく、仮にその《奇跡》を手に入れたとしても他の誰かに施しを与えられるような素晴らしい力が目覚めることもない。
いつしかこの世界には必要のない片割れだと罵られ、人族の礎にされている。
もう帰る村も無い。大好きな両親も、笑い合えた思い出も――何もかも失っているのに誰も助けてはくれない。
逃げる必要があるのだろうか?
このまま静かに、終わってもいいのでは?
走っていたはずのルリリルの足がゆっくりと遅くなって、気が付けば壁を伝いながら歩いていた。背後からは未だなお《生屍》たちの足音が聞こえている。
しかしいつの間にか思考は遮断され、ふらつきながら前へ前へと進んではいるものの、既に足取りはおぼつかない。体力も限界だった。そしてそこがルリリルにとっての終点だった。
「あ、ああっ…………………………」
間違った道を進んでいた。ルリリルの眼前に道は無く、逃げ道など何処にもない。そして戦う力もない。だからここが彼女の終わりなのだと理解した。
行き止まりの壁にもたれかかり、そのままペタンと座り込む。諦めが全てを殺す。
最初からそれは解っていたことだ。
これだけ生き続けても、どれだけ生き残っても行きつく先はこの迷宮の行き止まりのようにルリリルの未来が変わることはない。ただそれは早いか遅いかの彼女の一生の果てに辿り着く。
もうこれでいい。ここでいい。
わたしはもう、ここまでにしてほしい。
それがルリリルの最期の願いだった。
はやく、みんなところに逝きたい――どうして自分は今までそれを選べなかったのだろう。
ルリリルの双眸がゆっくりと閉じられていく。まだこの身に刃は届いていない。けれど接近する絶望の足音は彼女に永遠の眠りを与えてくれる安らぎの音にすら聞こえていた。
心地よいとまで思えるほどに。痛いのだけは嫌だから、せめてひと思いに――でも、みんなのところに早く逝かなかったことが罰なら時間を掛けて殺してくれてもいい。
「聖女さまは……さいごまで、たすけてくれなかったなぁ……」
項垂れては額が地に触れるほどに崩れたまま遺言を添えて、完全に視界は塞がれた。もう、このまま、眠らせて、くれたら――――
「すみません、そこ通りますね」
「…………………………………………………………………え???」
幻聴にしてはあまりにも都合が良過ぎる。今まさに結末を受け入れて、全てを諦めて、このまま眠ってしまおうと思っていたルリリルの感情を混乱させる一声がその大きな耳に飛び込んでくるのだ。
「あ、邪魔ですねこれ」
轟音と共に、黒い影が壁を突き破っていた。そして面倒くさそうに投げやりに腐った肉が詰まった鎧をそのまま片手で掴んだと思えばパンを握り潰してそれは弾けるように砕け散った。
何が、起こったのかルリリルには理解できなかった。今まさに全ての終わりを受け入れていた彼女の前に現われたのは――
「助けて、とは言わないのですね」
まるで心の中を見透かされたような物言いだった。言えるわけがない。それを叫んだところでどうにもならないことはこれまでの人生が教えてくれている。
助けてと叫んでも、手を差し伸べてくれる者はいなかった。だから、ルリリルは本心を言葉に乗せることを止めた。
「死ぬことすら、受け入れて……」
見上げればルリリルを大きな影が見下ろしていた。とても背の高い女性だった。ルリリルの背が小さいせいで余計に高く見えてしまう。
修道士のような黒衣を着た大きな女性。スカートの裾には金色で大きく描かれた逆十字と薔薇の刺繍。そして長い黒い髪。その漆黒の合間から見せる白い柔肌だけがこの女性を人族だということを証明していた。
だがそれよりも気になるのは瞳すらも両目共に深い闇のような黒だったということ。
(くろい、ひとみ……?)
この世界に黒い瞳をした者は存在しない。
この世に生をなす者は人であろうが亜人であろうが誰しもが瞳に色を帯びている。ルリリルですら見た目はどれだけみすぼらしくても紫みがかった青い瞳をしている。
黒色の瞳は未だかつてルリリルも初めて見た。
それは《奇跡》を持たぬ人族。この世界から存在を忘れられた者――《色無し》と呼ばれるらしい。
「お救済い……おひとつどうですか?」
しかしそれは優しく、柔らかな笑みを浮かべたままゆっくりと手を伸ばす。
ここが地獄の渦中だというのに降り注がれた光はあまりにも眩しすぎた。その煌めきを掴むのが怖かった。
幾度と無く裏切られ、強奪されて、何もかもが零れ落ちて行った少女の胸中を困惑と躊躇で圧し潰そうとしている。
だから手を伸ばすことができたない。けれどぴくりと揺れ動く指先を見た女性は自ら手を掴んで、引き寄せる。
「求めてくださって、ありがとうございます」
その日、ルリリル・リルリはこれまで一度として自身に救いの手を差し伸べてくれなかった《聖女》というものがもし本当にいるとするのなら、これを最期に信じてみたいと強く願うのだった……。
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