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10/想起:第1聖女都市近辺:始まりの旅路(1)

 ルリリル・リルリは夢を見ていた。


 違う誰かの終わりと始まりの行く末を。


 それはとても冷たくて寒くて、恐ろしい夢。


「せいじょ……さま……っ!」


 ルリリルは目を醒ます。


 溺れてしまいそうなほどの悲哀の連続に呼吸をするのを忘れてしまう。目を醒ましたと同時に《聖女》の名を呼びながら何度も何度も大きく息を吸い込んだ。


「はぁ……はぁ……はぁ……」


 額には玉のような汗が滲んで、目元からは涙がずっと溢れて止まらない。悪夢を見ていたのはわかる。


 だけどその悪夢を忘れたくなかった。ずっとずっと憶えていたい。この出来事があったからルリリルは《聖女》と出会えたのだから。


 ――いや、あり得ない。


 ルリリルは酷く動揺した。


 終わったはずだ。


 ルリリルの物語は既に完結している。


 自身の心臓に刃を突き立て、何一つ遺すことなく静かに途絶えたはずだ。


「あ、あれ……なんで??」


 胸元に目をやれば、心臓に突き刺さっていた刃は無かった。それどころか傷すらない。


 黒猫の亜人であるルリリルは両手や両脚、背中といった部分はほとんど黒猫と同じ毛並みで揃っている。

 

 顔は人間の作りであり、胸元から腹部にかけては黒猫でありながら人肌に近い。だから傷が毛で隠れることはない。しかしあったはずの死に至る傷痕は存在しない。


 いや、それよりも――


(な、ななな、なんでぇ……わたし、は、はは、……はだ――――)


 声に出してはいないが、言い切ることは出来なかった。ここが何処かは定かではないが、河川の近くで横たわる朽ちた巨木に背中を預けてルリリルを抱き締めたまま目を閉じているイズクの姿があるからだ。もし同じように眠っているのなら騒いで起こしてしまうのは避けたい。


 ルリリルを両手でギュっと抱き締めたまま、目を閉じているがルリリルは耳を(そばだ)てても寝息が全く聞こえない。つい気になってしまって失礼を承知でルリリルはイズクの胸に顔を埋めた。


(心臓の音がしない……)


 呼吸の音も、脈の音も、人の形をしているのに全ての音が聞こえない。目を閉じているのは眠っているというよりは気絶に近い。だがルリリルをしっかりと抱き締める両腕の力は強いまま。


「あ、お、おはよう……ございます」


 ルリリルが目を醒ましたことに気付いたのか、心配していたルリリルを他所にイズクの左右の目は開かれていた。


 廻廊(ダンジョン)での出来事が嘘のようにイズクの声はやはり優しかった。しかしどこかよそよそしい。お互いの視線が重なるとイズクがルリリルから目を逸らすのである。


(あれ……聖女さま……?)


 ルリリルよりずっと大きな身体できっとこのまま力を篭めてしまえばルリリルを壊すことなど容易な程に強い力を持っているのに、まるで腫物を扱うかのようにその両手は震えていた。


 その様子に気付いたルリリルは上目遣いでイズクを見ていた。だがイズクの視線はルリリルと重なることなく右へ左へと揺れ動く。


「これを……」


 お互いの身体を包んでいたシーツをルリリルに渡し、イズクはそのまま背を向けていた。朝焼けの陽射しが川の水面に反射している。


 イズクは「汗がすごいですね……水浴びされてはどうですか?」と言ってそのまま動かない。どうせ身体を洗うのだから裸になるけれど、それでもそのまま川に近付くのは服を着ていないままで恥ずかしいからシーツで隠してルリリルは川に近付く。


(聖女さま、どうしたんだろう……)


 身を屈め、肩口まで水に浸かる。冷たくて気持ちよかった。だがルリリルはずっと横目でイズクを見ている。イズクはやはり背中を向けたまま動かない。


 夢の中でイズクの過去を見た。《魔女》と呼ばれるに至った出来事をこの目で見てしまった。けれどずっと独りだった《聖女》に何の力も持たないルリリルが役に立てる自信はない。あの凄惨を前に、何一つ掛ける言葉は見つからない。


 そしてゆっくりと身を乗り出して、川から出ようとしたその時だった――


「……あ、あれ? 目が――――」


 胸の傷が治っているのは目が醒めてすぐに気付いたけれど、ルリリルは水面に映る自分の顔を見るまで瞳の色が変わっていることに今まで気付かなかった。瑠璃色の瞳が漆黒に染まり、それはイズクの瞳の色と遜色ない。


 止まったはずの心臓が動いている。ドクン、ドクンと……鼓動は脈を打っている。顔が赤い。熱を帯びる。


(聖女さまと…………おなじ、いろ…………)


 頬が赤い。


 本当ならば死んだはずのルリリルの人生はまだ終わることなく動いている。ルリリルはイズクの背をジっと見つめている。


 このヒトと出逢わなければルリリルの未来は閉ざされていた。これはどれだけ感謝しても足りない。


 いつの間にかルリリルは駆け出していた。言葉だけじゃ伝わらないかもしれない。それでもこの巡り合わせを、邂逅に感謝を。何も差し出せるものはないけれど、それでもこれからも、いつまでも《第六位》の信者として信仰したいと。


 イズクの大きな背中に向かって、ルリリルは走る。このような小さな命を救ってくださったその慈愛に感謝の意を表したい。だから手を伸ばして、恐れ多い聖女の肩にそっと手を――――


「ご、ごめん……なさい……」

「……え?」


 だが、触れようとしたその手を止めたのはイズクの謝罪だった。意味がわからなかった。その言葉を投げかけられる理由がルリリルには皆目見当もつかず、首を傾げることしかできなかった。


 それなのにイズクは振り向いてルリリルの足元にしがみついていた。裸のままのルリリルより遥かに大きな背丈のイズクが小さく項垂れたまま嗚咽を零しながら懺悔しているのだ。


「私は……自分が、ひとりになりたくないだけの理由で――あなたの、色も……未来も……、奪ってしまった…………」


 ルリリルは鈍器で頭を殴られたような衝撃を受けた。何を言っているのか本当にわからないのである。


 奪われたという言葉の意味を必死に理解しようとしているのだがルリリルにはそれがわからない。どこに奪った要素があるのだろう。誰か教えて欲しい、と。


「あの…………」


 言葉の意味が――――そう、言いたかっただけだ。


「――――………………っ」


 それなのにルリリルの言葉を聞くこともせずイズクは今まででいちばん大きく身体を震わせた。悪いことをして叱られる子どものように。


 ただイズクは何かルリリルに対して謝っても謝りきれないことをしてしまったのだろう。感謝しても感謝しきれないルリリルには目を合わせることもせずに。ルリリルの目に映っているヒトは別人なのではないかと錯覚してしまう。


 それが何倍も巨大な《堕天》の前でも、おぞましい《奇跡》を使う《聖女》の前であっても――臆することなく圧倒的な力でねじ伏せ、それは本当に完璧で、素敵な、《本物》の《聖女》――《第六位》の姿だった。


 ルリリルのか細い声だけでイズクは呼吸を荒くして、酷く怯えるように震えている。知っている。この様子をルリリルは知っている――奴隷だった頃の、《探求者》や《聖女》たちの道具として廻廊(ダンジョン)を連れ回されていたころの自分とそっくりだったのだ。


 視線を逸らし、こちらの顔を見ないように頭を下げたまま何度も「ごめんなさい」と謝り続ける脆弱な様子。ルリリルは知ってしまった。どうして自分も奴隷だったあの頃、そんな無様なまま謝り続けても、赦してくれなかったのか。


(な、なんだろ……これ…………)


 ゾクリ……と、胸の奥に黒い靄がかかったような気がした。


 聞き分けのない心臓が、ずっと高鳴って止まってくれない。イズクを前にルリリルはどうしていいかわかなくなってしまった。


「聖女さまっ」


 とても信じられない光景だった。


 イズクはただ独りで勝手に自分を罰している。何かしらの行為によって死んだはずのルリリルを生き返らせたのは事実。


 しかしそれをルリリルは恨んでいない、寧ろまたこうしてイズクと共に生きることを認めてもらえたようで嬉しかったのにそれなのにイズクはルリリルにひたすら謝り続けている。


 感謝をしたいルリリルを置き去りにしたまま呼吸の仕方を忘れたように口を何度も開閉させて、今にも意識を失ってしまいそう。


 だからルリリルはイズクの頭にそっと手を置いて、


「だいじょうぶ、だいじょうぶですから」


 わたしは敵ではありません。


 わたしはあなたの味方です。


 と、同じ目線でイズクを落ち着かせるように何度も何度も「だいじょうぶ」と繰り返す。


 イズクの手を掴んで、ゆっくりと呼吸するように促す。するとイズクはやっとルリリルの心境を理解できたのか嘘のように呼吸が落ち着いていく。


 ぐったりと脱力してルリリルの両脚に体重を乗せる。ルリリルの小さな身体でなんとかそれを受け止めることが出来た。


 胸の奥を刺した黒い感情も、消えてくれた。もう「だいじょうぶ」だろう。そんな気がした。

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