9/??:聖女さまの夢のなか
ルリリル・リルリは沈んでいる。
雪の中で埋もれているように動くことはできない。目を開いているのに真っ黒い闇の中で、身動きも取れず右も左もわからない。
手探りで見えないまま感触を探り求めても何もない。両耳の《奇跡》で聴覚を強めてもやはり聞こえない。どうやらここでは《奇跡》も使えない。
では、ここはどこ?
ルリリルの知らない景色が広がっている。これはまるで夢のよう。
両目を開いては閉じ、閉じては開いてを繰り返す。やはり視界は暗いまま。このまま永遠に真っ暗なままなのだろうか。恐ろしくて身震いしてしまう。
だがそのまま視界が急に明るくなっていく。
白い法衣を着た《聖女》が五人。ローブを被っているせいで顔は見えない。しかし一人だけ黒い法衣を来た女性がいる。
その黒衣に見覚えがある。スカートに金色の薔薇と逆十字の刺繍。知っている。ルリリルはそれを見たことがある。
(せ、せいじょさまだ……)
ローブを被ることなく黒衣と同じ黒い長い髪を靡かせたままイズク・フォーリンゲインは五人の《聖女》よりも更に前に立ち尽くしている。
そして場面が転々と変化していく。昼の時が、夜の時が、中で、外で、山で、森で、海で悉く場面は映り変わる。
しかし常にイズクの立ち位置と行動はいつも同じだった。各地に現われる『堕天』を六人の『聖女』が迎え撃つ。イズクは前に、他は後に。
映り変わる景色の中で、イズクが行うことはただ一つだ。《第六位》としての《聖女》の仕事を全うしている。
イズクが《堕天》に対してできることは他の《聖女》の為に身を呈し、時間を稼ぐことだけ。
東の海に現われた巨大な蟒蛇のような《堕天》と戦ったときは身動きが取れぬほどに締め上げられ四肢を食い千切られた。
右の砂漠で発生した蝗の化物のような《堕天》に対しては無数の蟲に毒を浴びせられ全身の穴から血液を噴出させられた。
他の《聖女》が救うことを諦めた何処かの小さな村ではたった一人で村人たちを逃がすための時間を稼ぐために小鬼の王に似た《堕天》に脳漿を撒き散らされその手に持つ棍棒で挽肉になるまで殴られ続けた。
他の《聖女》が救うよりも先に向かった何処かの森では蜘蛛の姿をした《堕天》に糸で縛られ呼吸することさえ出来ずに肉を削られた。ここまで何度も悲惨な目に遭ってもイズクは死なない。元に戻る。
まだこの時は《聖女》が六人しか確認されていなかったあの頃、全ての人類を《堕天》から救うことなど不可能だった。選択を余儀なくされることもあった。
二つに一つ。
人か亜人かと言われれば前者と即答することも何度もあった。しかしイズクはそのときは決まって後者を選んだ。戦う力を持つイズクでは救えない。
それでも救うことすらせず終わりを宣告することに反抗した。救うために選ばれた者が、救うことを諦めるなんて――救いを待っている命を放棄することは出来ない。
裏切れない。喩え救えなくとも、どうして助けてくれなかったのだと憤慨されても。
とにかく如何なる場所であれ、誰かが救いを求めていれば聖女たちが直ちに向かい、世界の為にこの身を捧げるべきだと――《終わら不》の《奇跡》を持つ、ただ死ねないだけのイズクは『聖女』としての責務を全うしていた。
けれどイズクには死ねないという《奇跡》しかない。それでは誰も救えない。
だからこの身を盾にして、囮にして、自分以外の聖女に力を借りることでイズクもまた聖女と名乗ることが赦されていた。
夜になると、イズクはいつも独り泣いていた。誰にも知られることなく、声を押し殺して泣いていた。
――もういい、誰か私を、助けてくれ。
本当は、本当はそう叫びたかった。
人々を《堕天》の怪物から救ったところで、いつも感謝の言葉を向けられるのはイズク以外の《聖女》だけだった。イズクはいつも戦いの場以外は何の役にも立たない。
だからイズクが何をしているのかは誰も知らないのだ。どれだけ傷ついても、その傷すら消えてしまうせいでイズクがどれだけ人々のために傷ついても誰にも気づいてもらえない。
「ありがとう、聖女さま」「聖女さまが来てくれてほんとうによかった「聖女さまのおかげです」「聖女さまがいなかったらきっと――」「聖女さま」「聖女さま」「ありがとう」「ありがとう」「ありがとう」」「聖女さま」「聖女さま」「聖女さま」「聖女さま」「聖女さま」「聖女さま」
通り過ぎていく人々の感謝の言葉はイズクに向けられたことはなかった。
『……そんな、そんなことって』
ルリリルは絶望した。
自分も地獄を見てきたつもりでいた。何もかも奪われて、失って、孤独を彷徨い続け、生きることを何処で諦めるか悩み続けていた。
だがこの夢の底で、イズクの体験をこの目で見てルリリルは絶句する。如何におぞましい地獄を生かされ続けていたのかと。
そして――――――
これが最後の光景へと変わる。
北の最先端にある渓谷にそれは現われた。肉は腐れ落ち、羽根は削げ落ち、顔の骨が剥き出しのそれを竜と呼ぶのは間違っている気がする。竜の死骸が動いている。
それは瘴気をばら撒きながら、亀のようにゆっくりと進んで来る。進む度に全てが腐り果てて行く。このまま地図の中央にある都市まで来られてしまえば大勢の人が死ぬ。
ルリリルは今まで知らなかった。
それを竜と呼ぶのなら《神話大戦》で人類史が始まる前に星ごと滅ぼそうとした《極光》を封じた七体の竜の一体なのではないだろうか――《七虹》と呼ばれる竜の一翼。
なぜ、その一体が腐りながら世界を滅ぼそうと人類に向かって侵攻しているのか答えはわからない。
だがそれを前にイズクは立っている。瘴気を浴び、竜と同じく腐り落ちていく身体に目を背いたまま全ての瘴気を自身で受け止め、その間に他の《聖女》の《奇跡》によって竜は斃された。世界は再び平和を取り戻した。
はず、だった――
その竜を手引きしたのはイズクだと他の《聖女》がそう言った。
イズクは何も言わない。
どうして何も言わないの?
ルリリルは反論すべきだと、私ではないと言うべきだと――どれだけ叫んでもこれは夢の中。ルリリルはイズクの過去に干渉できない。
だが、よく目を凝らして見て理解してしまった。イズクは何も言わないのではない。言えないのだ。
喉を――潰されている。
如何にイズクの《奇跡》が死なない力だとしても、腐れた竜の瘴気はイズクの身体を元の傷の無い身体にするには時間が掛かりその身体は欠損したままぐったりとその場に倒れている。
だが抉れた喉は瘴気によるものではない。意図的に何者かに傷つけられている。千切ったような跡。凄惨なイズクの姿を前に《聖女》たちはほくそ笑んでいる。
『うそ……』
ルリリルは信じられないものを見た。
竜の死骸が渓谷の谷底に棄てられた。《聖女》の《奇跡》で活動を停止させることは出来たが、完全に消滅させることができず瘴気は未だ死骸から溢れだしている。
死骸の処理が叶わないと解った《聖女》らは死骸を谷底へと棄てた――イズクと共に。
深い、深い、闇の底へと消えていく。
ルリリルの身体は動かない。夢の中でルリリルはイズクを追いかけることはできない。
こんなのあんまりだ。
世界のために祈りを捧げ、人々のためにその身を捧げた。
その《聖女》に対して、この仕打ち――そしてまた目の前が真っ黒になった。夢の終わりが近い。
谷底。
竜の死骸に、イズクの身体が埋まっていた。
死骸から漏れ出る瘴気は世界に向かうことはなく、イズクへと流れていく。
もう手も、足も、幾度と無く腐り落ちて溶けて消えて、黒い茨がイズクの腐り果てた断面と同化していた。いや、もうイズクは自分が人の形をしているのかもわからなくなった。
眼球も、髪も、全てが爛れて溶けて、呪いと混ざって別のモノに変わっているのだけは解る。
もう自分は人間ですらなくなっている。それなのに《奇跡》が死を赦してくれない。ただ痛みと苦しみを与え続けながらイズクは死骸と一つになっている。
しかしそれが《蓋》となって、この世界に腐れた呪いを巻き散らすことなく――ただ一身で全ての呪いを受け続けることで救い続けている。
『やだ……こんなの……』
ルリリルはこのおぞましい惨劇を見ていられなかった。夢なら醒めて欲しいと何度も願った。だが本当にそう思っているのはイズク本人だろう。
瘴気の流れを遮る《蓋》にされて否応なく救わされ続けている。だがイズクは救われない。
では、イズクは誰が救ってくれる?
泣いても、喚いても、声すら出ないこの無間で――地獄が何処にあるのかとすれば此処がそうだろう。
どうして世界を救っても私は救われないのか。イズクはただ助けを求めても声は何処にも届かない。
誰も、彼女を知らない。
知らぬまま、永遠に殺され続けている。
終わらない。終わってくれない。
錆びた鎖で鞭打たれ、無数の針で刺され、溶かした鉄を浴びせられているような、ただ形容しがたい痛みを与えられている。どうして? どうして? いつまでこんな? この苦行はいつまで続く?
イズクは《聖女》と呼ばれることはなく《魔女》とされ、人類史を滅ぼそうとした反逆者として住んでいた家は焼かれ、父も、母も殺された――そして妹までも殺された。
守っていた全てを殺され尽くし、それでもまだ足りないのか。だからまだ私を殺し続けるのか。死ねない私を、永久に殺すのはなぜ?
世界のためにこの身を捧げた。何度も身を呈して痛みを受け続けた。右の頬を差し出せば、当然に左の頬も差し出した。この身に受ける痛みの先に世界の救済があったから。
それなのに、どうして私を殺すの?――イズクは嘆き苦しみ続ける。
あなたたちは、私から、すべてを、うばうの。
私は、私は、私は、私を知っている人たちのために戦ったのに――戦ったのに、私を殺し、知らぬふりをした。
やっとこれで死ねると言った。死こそが救いだと聖女らは言った。
だが死なない。
ならなぜ死ねない? これでも死ねない?? 誰でもいい、早く殺して。殺してください。お願いします、殺してください。
何もかもを奪われた。何もかも取り返せない。間に合わない。もう全て無くして殺されたのだ。
殺したと結論付けた聖女らの下で、死に続けている私はなんだ。
女神さま――どうして私にこのような《奇跡》を……このような試練を与えるのですか? 空の向こうで見下ろす月の眼すら――声を掛けて来ない。
誰も私を、知ろうとしない――
痛みだけが、この地獄の沙汰だけが私に眠ることすら赦してくれない。
酷い。
復讐は何も生まない――喪ったものは返って来ないから。
でも、死は救いと言った――
なら、私だけが救われるのは不公平だ。
救わないと、救わないと、そうだ、救わなければ――私だけではなく全てを。この世の統べてを。そうだ、おかしいじゃないか……救済わなければ……人類史を――――
目を開いても、開く目がない。閉じられているわけではない。もうイズクの目という器官は殺され続けてそこにはない。
身体は完全に消滅しているのに、魂だけが瘴気の中に渦巻いている。意識はある。死にたいのに、終わりたいのにイズク・フォーリンゲインの存在はまだ竜の死骸の中にある。
もう、疲れた。
眠りたいのに、眠れない。起き続けるこの意識がいつまでたって痛みと苦しみの最中にある。
今まで何も考えずとも無意識のまま失った身体の部位は戻っていた。《奇跡》は無条件でイズクを生かし続ける。
まだ生きてはいる。だが身体がない。どうする。眠れないし、どうしようもない。なら自分から身体を作ろうと念じればどうだろう。
イズクは願う。
無いのならば、作ればいい。《奇跡》は未だここにある。《終わら不》の力によって魂だけになってもイズクの存在は消滅しない。
願えば、生える――それができる。これまでもそれができた。
だから目を、生やす。
これもちろん瘴気によって溶解する。
しかしその生やす――を、続ける。永遠に殺し尽くす腐敗の瘴気が生きるもの全てを腐り覆うのならばそれをも上回るほどに終わらせなければいいだけだ。この答えに気付くのにずいぶんと時間が掛かってしまった。
心まで腐り落ちていたのだ。聖女ではなく、ただの人間として壊されていたのだから無理もない。
しかし殺すのならば、いつまでも殺すがいい。しかし未だにイズクを殺せぬ瘴気など――他愛もない。愛など何処にも無い。
死が救いならば、未だに殺せぬ私はなんだ? 何も救われていない。殺せぬ呪いにに、意味などない。
そうだ。
お前に、意味なんてないんだ。
私と同じだ。
お前は私と、同じなんだ。
意味もなく、誰かに怖がられていろ。
溶かされ、腐らせ、無限にイズクを殺し続ける呪いすら超えるほどの速さでイズクの身体は生え続ける。人としての原形は完全に失われていた。
尊厳すらも塵芥になるまでに崩壊していたイズクの身体が少しずつ、また少しずつ、形を成していく。崩されても、壊されても、また再び、やり直しを始める。
やり直す?
何を?
新しい生を?
「私が、私だけが――」
何をやり直すのだ。
新しく生まれ変わって何をするのだ。
答えは一つ。
その一つのために、諦めることを止めた。
《終わら不》と呼ばれた《奇跡》が――
《六番目》と、呼ばれる《聖女》は――
《彼女》を知らない人類全てを救済するために。
「竜よ……お前の全てを寄越すがいい」
光を失った瞳に、火が灯る。
腐れた竜の正体などどうでもいい。
しかしその力があれば、一人でも戦える。
生まれ続けるイズクの身体は少しずつ形を成していく。一瞬で溶けて消えたはずの肉が、多少のことではもう崩れることすらない。
イズクの身体が形成されると同時に、腐れた竜の身体が溢れる瘴気と共に消えていく。そしてイズクの身体の中へと流れ込んでいく。
「ああ、やっぱり……お前も、同じじゃないか」
しかしイズクだけが理解する。
腐れた竜は《七虹》が一翼。
どうしてここにいるのか、人類史を始めるために《極光》という終焉と戦ったはずの竜がこの有様なのか。それはイズクにしか解らない。
だが、イズクは全てを悟る。
「なら、眠れ。私が連れて行ってやる」
死骸は完全に消えて無くなり、そこには一糸纏わぬイズクの姿があった。存在そのものすら否定された筈のイズクが現世に再び蘇る。
ルリリルはただ静かに涙を流している。
これがイズク・フォーリンゲインが《魔女》と呼ばれるまでに至った顛末。
イズクはただ手を伸ばす。
《魔女》に仕立て上げた理由を知る為に、全てを奪った《聖女》へ復讐する為に。彼女は今ここで《七虹》の一翼を手に入れる。
そして、いつかこんな怪物のような存在に変貌してしまった《聖女》を信じてくれる誰かに出会えることを信じて――イズクの旅は始まった。
ルリリルの眼前が眩く光る。
そしてここで夢が終わる。
目を、醒ます。
だけど、もしこの夢を覚えていられるのなら――
――「わたしは、信じています」とそう、言いたい。
ここでルリリルの意識が覚醒する。




