第8話:平穏に響く警報
――ウウウウウウゥゥゥゥーーーーーンンンン。
空気を引き裂くような、耳障りな警報音。
それは、アストリア王国王立転生学園の生徒たちが、誰も聞いたことのない音だった。創立以来、ただの一度も鳴ることのなかった、最高レベルの侵入者を告げる『赤の警報』。
中庭にいたゼノとリィナの間に流れていた静かな時間は、暴力的に断ち切られた。
「な、何だ、この音は!?」
ゼノは、咄嗟にリィナの手を掴み、身を屈めて周囲を警戒した。長年、孤児院の裏社会で生き抜いてきた彼の生存本能が、これがただの訓練ではないと告げている。
建物からは、パニックに陥った生徒たちが、無秩序に飛び出してくる。教師たちの怒声が飛び交うが、前代未聞の事態に、その統制もすぐに崩壊した。
「みんな、落ち着いて! 教師の指示に従いなさい!」
遠くで、フィオラの凛とした声が聞こえた。彼女は、恐怖に泣き叫ぶ下級生を庇いながら、冷静に状況を把握しようと努めている。その姿は、まさしく有事における貴族の責務を体現していた。
その時、学園全体に、学園長イライザ・マーロウの声が、魔力を通して響き渡った。
『全生徒に通達します。落ち着いて、速やかに指定された地下シェルターへ避難してください。繰り返します。これは訓練ではありません。本学園は、正体不明のテロリストによる襲撃を受けています』
「……テロリスト!?」
「嘘でしょ、ここが襲われるなんて!」
『襲撃』という言葉が、最後の引き金となった。生徒たちのパニックは頂点に達し、我先にとシェルターへと続く道へ殺到する。
「こっちだ、リィナ!」
ゼノは、人の波に逆らうように、リィナの手を引いて最も近いシェルターへと走った。今は、とにかくこの混乱から離れ、安全を確保するのが最優先だ。
だが、彼らの希望は、絶望によって打ち砕かれた。
シェルターへと続く広場の中央に、突如として、ゆらり、と黒い影がいくつも現れたのだ。
フードを目深に被った、漆黒のローブ。その異様な集団は、まるで悪夢から抜け出してきたかのように、生徒たちの行く手を塞いでいた。
*
「諸君、ごきげんよう。アストリア王国の未来を担う、魂のエリートたち」
ローブの集団の一人が、増幅された不気味な声で語りかける。
「我々は『魂狩り(ソウルイーター)』。神々の遊戯盤の上で、意味もなく輪廻を繰り返す哀れな魂を、『解放』するために参上した」
魂狩り。その不吉な名前に、生徒たちの間に戦慄が走る。
「ふざけるな! お前たちのような輩に、僕の偉大な魂を汚されてたまるか!」
一人の、騎士の家系に連なる血気盛んな生徒が、剣を抜いて魂狩りの一人に斬りかかった。
だが、魂狩りは、身じろぎ一つしない。
「哀れだね。その魂も、来世ではまた別の誰かのものになるというのに」
魂狩りが、ゆっくりと手を前に突き出す。その手のひらに、紫色の禍々しい光が灯った。
それは、物理的な攻撃ではない。魂に直接作用する、精神攻撃。
「――《魂魄汚染》」
「ぐ、ああああああッ!」
斬りかかった生徒が、突然頭を抱えて絶叫した。その瞳から光が失せ、まるで魂そのものが悲鳴を上げているかのように、体を痙攣させながらその場に崩れ落ちる。意識はあるようだが、その魂は深く傷つけられ、戦闘不能に陥っていた。
その常軌を逸した光景に、他の生徒たちは完全に戦意を喪失した。
だが、彼らの思考は、ゼノとは決定的に違っていた。
(だ、駄目だ……勝てない)
(こうなれば、仕方ない。殺されるのは一瞬だ。来世では、もっと強いスキルを持って生まれて、復讐してやればいい)
(そうだ、どうせまた生まれ変われるんだ……)
『ディヴィナ・サイクル』。
世界の根幹を成す輪廻転生システムが、皮肉にも、彼らから「最後まで生き抜く」という気力を奪っていた。死は、ゲームオーバーではなく、次のステージへの移行に過ぎない。その常識が、彼らの魂を諦めへと誘う。
ある者はその場に座り込み、ある者は静かに目を閉じて「来世」に希望を託す。
それは、魂狩りにとって、最も望ましい反応だった。
*
「ははは、そうだ。それでいい。無駄な抵抗はやめて、我々の『解放』を受け入れなさい」
魂狩りの一人が、満足げに笑いながら、近くにいたゼノとリィナに目をつけた。
「おや、こんなところに、か弱い子羊が二匹。君たちから、解放してあげよう」
魂狩りの手が、再び紫の光を帯びる。
「――《魂魄汚染》!」
先ほどと同じ、魂を直接蝕む精神攻撃の波が、ゼノとリィナに襲いかかった。
「……っ、ぁ」
隣で、リィナが苦痛の声を漏らした。彼女の魂は、ただでさえ摩耗している。この種の攻撃は、まさに天敵だった。
ゼノは、咄嗟に彼女を庇うように前に立った。
そして、覚悟した。魂に直接来る攻撃など、防ぎようがない。だが、一瞬でも、彼女の盾になれるのなら――。
しかし。
予想していた衝撃は、いつまで経ってもやってこなかった。
精神をかき乱されるような苦痛も、魂が軋むような感覚も、何一つない。
魂狩りの放った禍々しい光は、まるで存在しないかのように、ゼノの体を素通りしていった。
――彼のユニークスキル《魂魄固定》。
神々の輪廻システム『ディヴィナ・サイクル』に登録されていない彼の魂は、そもそも、魂を標的とする干渉を受け付ける「アドレス」を持たない。
それは、システムに管理されないがゆえの、絶対的な防御能力。
「な……!?」
目の前の魂狩りが、信じられないといった顔で目を見開いた。
「なぜだ……!? なぜ、貴様には我々の術が効かん!?」
「……さあな」
ゼノにも、理由は分かっていた。だが、それを説明してやる義理はない。
今、この瞬間、理解したことは一つだけ。
(こいつらの魔法は……俺には、効かない)
呪いだと思っていた己の特異体質が、今、この絶望的な状況を覆す、唯一無二の武器となったのだ。
魂狩りが、混乱から我に返り、別の術を放とうと手を構える。
その、一瞬の隙。
ゼノは見逃さなかった。
*
「リィナ、下がってろ!」
ゼノは、怯えるリィナを背後に押しやり、腰に差したままだった訓練用の剣を抜き放った。
それは、名工が鍛えたわけでも、魂の力が宿っているわけでもない、ただの鉄の棒だ。
だが、今のゼノにとっては、それで十分だった。
敵が、己の最強の武器である魂魄攻撃を無効化されたことに、動揺している。
その心の隙を突く。
《瞬間集中》!
ゼノの思考が加速する。
魂狩りが、物理的な魔力弾を放とうと印を結ぶ、その予備動作が、スローモーションで見えた。
体を横にひねり、魔力弾を紙一重で回避。
一気に、懐へ踏み込む!
「なっ……速い!」
魂狩りは、魂への絶対的な攻撃力と引き換えに、純粋な身体能力や近接戦闘技術を疎かにしていた。ゼノの、生きるためだけに磨き上げた、泥臭く、しかし洗練された動きに、全く対応できていない。
「これで、終わりだ!」
ゼノの剣が、魂狩りの腕を切り裂いた。悲鳴と共に、術の構築が中断される。返す刀で、その腹部に強烈な蹴りを叩き込んだ。
「ぐふっ……!」
魂狩りは、短い呻き声を上げて、その場に崩れ落ちた。
それは、お世辞にも美しい勝利ではなかった。
フィオラのような華麗な剣技でもなければ、リィナのような神秘的な魔法でもない。
ただ、生き残りたいという一心だけで、死に物狂いで敵を無力化した、生々しい戦いの結果だった。
ぜえ、ぜえ、と荒い呼吸を繰り返しながら、ゼノは倒れた魂狩りを見下ろす。
周囲の光景が、目に飛び込んできた。
ほとんどの生徒は、来世に希望を託して、ただ座り込んでいる。
一部の、フィオラのような実力者だけが、敵の精神攻撃を自身の魔力でかろうじて防ぎながら、孤軍奮闘していた。
だが、フィオラもまた、信じられないものを見る目で、ゼノの方を凝視していた。
『ブランク』。
学園で最も無価値だと、自分が最も軽蔑していたはずの少年が、魂狩りの本質的な脅威である精神攻撃をものともせず、敵を打ち破った。
その事実は、彼女が信じてきた「魂の格」という価値観を、粉々に打ち砕くには十分すぎる光景だった。
鳴り響く警報の中、ゼノは、リィナを背に庇い、たった一人でそこに立っていた。
倒れた魂狩り。呆然とする仲間たち。そして、警戒を強める残りの敵。
この絶望的な戦場で、魂の過去を持たない彼だけが、唯一、本当の意味で『戦える』存在だった。
平穏は、砕け散った。
そして、『ブランク』と呼ばれた少年の、たった一度の人生を懸けた本当の戦いが、今、幕を開けた。