第6話:剣聖の家系の令嬢、フィオラ
フィオラ・フォン・アストリアは、怒っていた。
彼女が使うアストリア家専用の第一訓練場に、激しい剣戟の音が鳴り響く。それは、対人用の訓練人形を相手にした、一方的な蹂躙だった。
キィン! と甲高い音を立て、ゴーレムの剛腕が弾かれる。返す刃で、フィオラの振るう剣が、魔力の輝きを纏って閃光を放った。
《魔力剣》。
彼女の魂に刻まれたスキルが、ただの訓練剣を必殺の刃へと変える。ゴーレムの分厚い装甲が、バターのように切り裂かれた。
暫定資格試験の結果は、一位。
フィオラのチームは、他の追随を許さない圧倒的な速さで、ダンジョンを完全攻略した。それは、代々『剣聖の魂』を受け継ぐアストリア家の令嬢として、当然の結果だった。
完璧な勝利。そのはずだった。
(……なのに、なぜ)
脳裏に蘇るのは、試験後の教官たちの態度と、生徒たちの囁き声だ。
賞賛は、確かにあった。だが、それ以上に彼らの心を捉えていたのは、二位で帰還した、あの『落ちこぼれ』チームの存在だった。
『ブランク』のゼノ。謎の転校生リィナ。そして、努力だけの平民レオ。
ありえないはずのメンバーが、格上の魔法生物を打ち破り、数々のトラップを潜り抜け、自分たちとわずかな差で帰還したという事実。
それは、フィオラの世界観を根底から揺るがす、不快な雑音だった。
「くっ……!」
怒りに任せて振るった最後の一撃が、ゴーレムの胴体を両断する。残骸が床に転がり、訓練場に静寂が戻った。
フィオラの人生は、常に『剣聖の魂』と共にあった。
物心ついた時から、父であるゲオルグ公爵に叩きこまれたのは、家門の誇りと、魂の偉大さ。彼女の持つスキル、身体能力、そして美しさまで、その全てが『剣聖の魂』という偉大な遺産の一部なのだと教えられてきた。
彼女は、その教えを信じて疑わなかった。歴史と伝統に裏打ちされた、魂の系譜こそが絶対的な強さの源泉なのだと。
だからこそ、ゼノの存在が許せなかった。
何の歴史も持たない『ブランク』が、小手先の知恵だけで自分に迫るなど、あってはならない。それは、彼女が信じる世界の理そのものへの冒涜であり、先祖代々、命を懸けて魂を繋いできた者たちへの侮辱に他ならなかった。
「お嬢様」
静寂を破り、背後から感情の籠らない声がかけられた。年老いた執事のセバスチャンが、銀盆を手に立っている。
「公爵様より、伝言でございます」
「……父上が?」
「はい。『一位は当然の結果。だが、素性の知れぬ下賤の者どもに、アストリア家の背中を脅かされるような醜態を演じたこと、深く恥じ入るように』とのことです」
淡々と告げられる言葉は、刃となってフィオラの心を突き刺した。
やはり、父もあの結果を問題視していたのだ。一位という結果ですら、圧倒的でなければ意味がない。それが、アストリア家の基準だった。
「……分かっています。下がりなさい」
フィオラがそう言うと、執事は音もなく一礼し、去っていった。
一人残された訓練場で、彼女は握りしめた剣の柄が、ギリ、と音を立てるのを聞いた。
(なぜ、分かってくれないのです、父上……)
心の内で、届かぬ叫びがこだまする。
私が、どれだけ努力しているか。どれだけ『剣聖』の名に恥じぬよう、血の滲むような鍛錬を重ねているか。
だが、父が見ているのは『フィオラ』という個人ではない。『剣聖の魂』を継ぐ、ただの器だ。
彼女に求められるのは、常に完璧であること。歴代の剣聖たちを超える、絶対的な強さ。
その重圧が、少女の細い肩に、生まれた時から重くのしかかっていた。
彼女の尊大に見える態度は、その重圧から自らを守るための、必死の鎧だったのだ。
*
気分転換に、と足を向けた図書館の裏庭で、フィオラは忌々しい姿を見つけてしまった。
ベンチに座り、熱心に本を読んでいる少年。ゼノだった。
その手にある本の題名は『古代戦術における兵站の重要性について』。また、彼女の理解の外にある本を読んでいる。
(……この男)
怒りが再燃する。全ての元凶。私の心を乱す、不規則な存在。
フィオラは、衝動を抑えきれず、彼の前に歩み出た。
「あなた、『ブランク』」
ゼノは、ゆっくりと本から顔を上げた。その無感情な瞳が、フィオラを捉える。
「……何の用だ、剣聖様」
「単刀直入に聞きます。試験で使ったあの戦術、一体何なのですか。あれは、伝統的な騎士の戦い方ではない。どこの家の、どの魂から受け継いだ知識です?」
彼女は、詰問するように言った。どうしても、理解したかった。彼の力の源泉が、何かしらの「歴史」に紐づいているはずだと、信じたかった。
ゼノは、ぱたりと本を閉じると、静かに答えた。
「だから、言っているだろう。俺には過去などない。あれは、本で読んだ知識と、ただの観察、そして論理的な推測の結果だ」
「論理、ですって?」
フィオラは、鼻で笑った。
「そんなものは、平民が使う小手先の道具に過ぎませんわ! 本当の強さとは、魂に刻まれた歴史そのもの。幾多の戦場を乗り越えてきた先人たちの経験の結晶なのです! あなたは、この世界の根幹を否定するつもりですか!」
ゼノは、感情的になる彼女を、ただ静かに見つめていた。
そして、彼の放った言葉は、冷たく、鋭く、フィオラの鎧の隙間を抉った。
「その『経験の結晶』が、もし間違っていたらどうする?」
「……なに?」
「敵が、君の先祖が書いた教科書通りに動かなかったら? 予期せぬトラップが、歴史書にない場所に仕掛けられていたら? その時、君の信じる『歴史』は、ただの思考停止を招く檻になる」
ゼノは立ち上がると、フィオラと視線の高さを合わせた。
「君は、自分で戦況を判断しているつもりかもしれないが、違う。ただ、偉大な幽霊の足跡を、必死になぞっているだけだ。自分自身の地図を描くこともできずに」
――幽霊の、足跡。
その言葉は、呪いのようにフィオラの耳にこびりついた。
それは、彼女自身が、心の奥底でずっと抱えていた、最大の恐怖そのものだったからだ。
私は、本当に『私』なのだろうか。『剣聖の魂』という偉大な幽霊に乗っ取られた、ただの人形なのではないか?
「……あなたのような、『ブランク』に!」
気づけば、フィオラは叫んでいた。声が、震えているのが自分でも分かった。
「あなたのような、空っぽの魂に……! 偉大な魂を背負う者の、この重圧が、分かってたまるものですかッ! 期待も、歴史も、何一つ持たないあなたには、失うものなど何もないじゃない!」
言ってしまってから、ハッと我に返った。
しまった。弱さを見せた。この男の前で、あってはならない失態。
だが、ゼノの反応は、予想とは違っていた。
彼は、フィオラを嘲笑しなかった。ただ、少し驚いたような顔で彼女を見つめ、やがて、その視線から敵意が消えていく。
「……そうか」
彼は、何かを理解したように、ぽつりと呟いた。
「君も、囚われているのか。俺や、リィナとは違う……金色の、檻に」
その同情するような視線が、フィオラには屈辱だった。
彼女は、すぐさま完璧な令嬢の仮面を被り直す。
「……今の言葉は、忘れなさい。ただ、これだけは覚えておくことね、『ブランク』」
彼女は、氷のような声で言い放った。
「二度と、あなたのような異端の戦術に、私が後れを取ることはありません。必ず、我が『剣聖』の道が絶対であることを、証明してみせますわ」
そう言うと、彼女は踵を返し、逃げるようにその場を去った。
一人残されたゼノは、遠ざかっていく彼女の、気高くもどこか寂しげな背中を見つめていた。
(失うものがない、か……)
それは違う、と彼は心の中で反論する。
たった一つしかない命は、何よりも失うのが怖い。
だが、彼女の言う「失うもの」は、きっとそういう意味ではないのだろう。
家名、伝統、歴史、期待。何重にも彼女を縛り付ける、輝かしい鎖。
「……どっちも、厄介なことに変わりはないな」
ゼノは小さく息を吐くと、読みかけだった本に再び視線を落とした。
「檻は檻だ。金メッキだろうが、鉄製だろうが」
空に浮かぶ雲を見ながら、彼は思う。
あの気高い令嬢もまた、この理不尽な世界で、自分だけの戦いを続けている。
敵であることには変わりない。だが、その見え方は、ほんの少しだけ、変わったような気がした。
交わるはずのなかった三つの視線が、今、それぞれの痛みを理解し始めたことで、複雑に絡み合おうとしていた。