第65話:それでも進む理由
王都アストルの地下水道。
それは地上の華やかな喧騒が嘘のような暗く冷たい沈黙の世界だった。
悪臭と湿気が二人の体力を容赦なく奪っていく。
ゼノとフィオラは壁に身を寄せ荒い呼吸を繰り返していた。
神殿からの脱出には成功した。
だがそれは新たな絶望の始まりに過ぎなかった。
神敵。
世界の全てから追われる存在。
その烙印の重さが今ずしりと二人の肩にのしかかっていた。
「……これからどうしますの」
暗闇の中でフィオラがか細い声で尋ねた。
その声にはいつものような気丈さはなかった。
「……世界中が敵。行く場所などどこにもありませんわ。わたくしたちの戦いはもう終わってしまったのかもしれません」
それは彼女が初めて見せた弱音だった。
父に捨てられ婚約者に裏切られ、そして今信じていた世界の全てからも拒絶された。
彼女の心が折れかけているのをゼノは痛いほど感じていた。
ゼノは何も答えなかった。
彼はただ静かに立ち上がると懐から一つのものを取り出した。
それは彼がリィナに渡したはずの銀のロケット。
診療所を出る直前、眠る彼女の手からそっと抜き取り再び自分の懐にしまっていたのだ。
お守りだと言った。
だが本当は違った。
これだけが今の自分を繋ぎ止める唯一の希望の糸だったからだ。
彼はそのロケットを開いた。
中には何も入っていない。
だが彼はその空っぽのロケットをじっと見つめた。
そして静かに語り始めた。
「……俺たちは負けたのかもしれない」
その言葉はフィオラの絶望を肯定するかのようだった。
「論理的に考えればそうだ。二人で世界を相手に勝てるわけがない。神々の力は絶対だ。俺たちのやっていることはただの無駄な足掻きなのかもしれない」
彼は一度言葉を切った。
そしてフィオラに向き直る。
その瞳には諦めではない静かな炎が宿っていた。
「だがなフィオラ。俺たちはまだ進まなくちゃならない」
「……なぜですの? もう希望など……」
「希望じゃない。……約束だ」
ゼノは言った。
「俺は約束したんだ。リィナに必ず迎えに行くと。彼女の魂を救い出すと。お前も誓ったはずだ。彼女の手を取り連れ戻すと」
その言葉にフィオラの肩が小さく震えた。
「世界がどうなろうと知ったことか。神々が俺たちをどう裁こうと関係ない。俺たちが戦う理由はそんな大それたものじゃない」
ゼノはロケットを強く握りしめた。
「ただ一人の仲間との約束を守るため。ただそれだけだ。それこそが俺たちがどんな絶望の中にいても、それでも前に進む唯一の理由だ」
そのあまりにも真っ直ぐでそして純粋な言葉。
それはフィオラの絶望に凍てついた心の奥深くに小さな温かい火を灯した。
そうだ。
わたくしは忘れていた。
この戦いの始まりを。
それは世界のためでも正義のためでもない。
ただ一人の大切な友を救いたいという小さな願いから始まったのだ。
その原点を見失ってどうするというのだ。
「……あなたは」
フィオラは顔を上げた。
その瞳には涙が浮かんでいた。
だがそれは絶望の涙ではない。
「……あなたは本当にどうしようもないお人好しですわね」
彼女はそう言うとふっと笑った。
それは心の底からの偽りのない笑顔だった。
「ええそうですわね。約束は約束。アストリア家の人間は一度交わした約束は決して破りません」
彼女は涙を拭い立ち上がった。
その佇まいはもはや折れかけた少女のものではない。
ゼノという光を得て再び立ち上がった気高き剣士の姿だった。
「わたくしの理由も同じです。リィナを救うため。そして……」
彼女はゼノを見た。
「……あなたというどうしようもない愚か者を一人で死なせるわけにはいきませんから」
二人の心が再び固く結ばれた。
絶望のどん底で彼らは自分たちの戦う本当の意味を見つけ出したのだ。
*
覚悟が決まればやるべきことは一つ。
この絶望的な状況を打開するための次なる一手だ。
「……王都を出る」
ゼノが言った。
「この街はもはや巨大な牢獄だ。だがどこへ?」
フィオラの問いにゼノはありえない答えを口にした。
「……魂狩りの本拠地へ」
「……! 正気ですの!?」
「ああ。今の俺たちにとって世界で一番安全な場所はどこだと思う?」
ゼノは続けた。
「敵の敵は味方とは限らない。だが敵の本拠地は少なくとも神々の信者の手が及ばない唯一の聖域だ」
それは毒をもって毒を制すあまりにも危険な賭け。
だが今の彼らに残された唯一の選択肢だった。
カインが言っていた『取引をしよう』と。
その言葉に乗るつもりはない。
だがその懐に潜り込み情報を集め体勢を立て直す時間は稼げるかもしれない。
フィオラは最初は驚愕したがすぐにその奇策の意図を理解した。
「……分かりましたわ。あなたの狂気の賭けに乗りましょう」
*
その夜。
嵐に紛れて二人は地下水道から脱出した。
王都の城壁を見上げる。
そこはもう自分たちのいるべき場所ではない。
二人は一度も振り返らず北東の荒野へと向かって歩き出した。
魂狩りの本拠地『解放区』があると言われる無法の地へ。
彼らの前には道などない。
光も見えない。
あるのはただ絶望的な現実とそして胸に抱いたたった一つの約束だけ。
それでも彼らは進む。
仲間を救うその瞬間まで。
それが彼らが見つけ出した唯一の生きる理由なのだから。
二人の影が闇の中へと消えていく。
それは敗走ではない。
新たな戦いへと向かう決意の旅立ちだった。




