第56話:天上の視線
水晶の山を後にして数日が過ぎた。
ゼノとフィオラの旅は以前とは比べ物にならないほど希望に満ちていた。
ゼノの手には完成した『神殺しの神器』がある。
リィナを救うための絶対的な切り札。
そして世界の理さえも覆す可能性を秘めた力。
二人は仲間が待つアグネスの診療所へと帰路を急いでいた。
だが彼らはまだ知らなかった。
神器の再誕が天上の神々の揺りかごを揺り動かしてしまったことを。
その異変は唐突に訪れた。
穏やかな昼下がり。風がぴたりと止んだ。
鳥のさえずりが途絶え森の全ての音が消えた。
まるで世界が一瞬だけ息を止めたかのようだった。
「……何ですのこれは」
フィオラが剣の柄に手をやり警戒する。
ゼノは空を見上げていた。
その表情は険しい。
空の色がおかしい。
青い絵の具にインクを垂らしたようにじわりと黒い何かが広がっていく。
そして何よりも肌で感じる圧倒的な違和感。
見られている。
遥か天の上。
人間の理解を遥かに超えた冷たくそして巨大な何者かの意識が、自分たち二人だけに集中しているのを感じた。
それはまさしく天上の視線だった。
やがて空の黒いシミの中心から一つの光が降りてきた。
それはゆっくりとしかし一切の物理法則を無視して、二人の目の前の草原に着地した。
光が収まった時そこに立っていたのは人ではなかった。
美しいという言葉では表現できない。
純粋な光と幾何学模様だけで構成された生命体。
それは慈愛も怒りも一切の感情を感じさせない絶対的な秩序の化身。
神々の使い。
世界の理を監視し修正する高次元の存在。
『熾天使ガーディアン』。
その一体が今二人の前に降臨したのだ。
*
ガーディアンは声を発しない。
だがその意志は直接ゼノとフィオラの脳内に響き渡ってきた。
それは冷たい機械音声のような思考だった。
《――警告。システム内に未登録の魂魄因子を検知》
《警告。禁忌指定された対神性兵装の再活性化を確認》
《これより異常因子の分析及び修正プロトコルを開始する》
その言葉に慈悲はない。
自分たちを人間としてではなくただの処理すべきデータあるいはバグとして認識している。
その絶対的な格の違いにフィオラは息をのんだ。
これが神。
これが自分たちがこれから戦おうとしている相手。
ガーディアンがその光の腕をゆっくりと持ち上げる。
抵抗の意志を示す間もなく世界が歪んだ。
ゼノとフィオラは金縛りにあったように身動き一つ取れなくなった。
空間そのものが神の意志によって固定されてしまったのだ。
《――分析開始》
ガーディディアンの視線がまずフィオラを捉える。
《個体名フィオラ・フォン・アストリア。『剣聖の魂』を継承。だがその記録から逸脱した自己同一性を形成中。魂の輝き、不安定。修正の必要あり》
次にその視線はゼノへと向けられた。
《個体名ゼノ。魂魄因子未登録。完全な規格外。システムの根幹を揺るがすバグと認定》
そして最後にゼノが持つ神器へと。
《対神性兵装、再統合を確認。危険度レベル7。最優先での破壊あるいは無力化を推奨》
一方的な分析。
それはまるでまな板の上の鯉だった。
だがその時、ゼノが握りしめていた神器が主の危機に呼応した。
槍が所有者の許可なく勝手にその力を解放したのだ。
古代の英雄たちの神々への怒りが爆発する。
眩い光が槍から放たれ、ガーディアンが作り出した空間の束縛を破壊した。
「……っ、動ける!」
フィオラが叫ぶ。
彼女はすぐさま剣を抜きガーディアンへと斬りかかった。
だが彼女の渾身の一撃は、まるで幻を斬ったかのように、その光の体をすり抜けていく。
物理攻撃が一切通用しない。
「――無駄だ」
ゼノが言った。
彼は暴走する神器を必死に抑え込みながらガーディアンを睨みつけていた。
「そいつを傷つけられるのはこいつだけだ」
ゼノは神器を構え直した。
そしてその切っ先をガーディアンへと向ける。
神器が神の気配に反応し激しく共鳴する。
「――行けぇっ!」
ゼノは叫んだ。
それはまだ彼が完全に制御しきれない不完全な力。
だがその一撃は確かにガーディアンを捉えた。
光の槍がガーディアンの光の体に触れた瞬間、甲高い不協和音が響き渡る。
ガーディアンの体の一部がノイズが走った映像のように乱れた。
神器の力は確かに神の使いに通用する。
だが。
《……対神性兵装による干渉を確認。軽微な損傷。脅威レベルを8に更新》
ガーディアンは瞬時にその傷を修復した。
そしてその無機質な視線に初めて明確な敵意が宿った。
《――修正プロトコル変更。異常因子をその場で削除する》
ガーディアンが再び腕を掲げる。
だが今度の攻撃は先ほどとは次元が違った。
それは力ではない。
世界の理を書き換える絶対的な権能。
ゼノの足元の地面が音もなくその存在を消し去った。
まるで最初からそこには何もなかったかのように。
「……!?」
ゼノは咄嗟に後ろへ飛び退きその消滅を回避した。
だが彼の心は凍り付いていた。
勝てない。
今の自分たちでは絶対にこの存在には勝てない。
あまりにも次元が違いすぎる。
*
だがガーディアンの攻撃はそこで止まった。
彼は自らの光の腕を見つめている。
そこには神器によってつけられたごく僅かな傷が残っていた。
《……分析完了。異常因子の潜在能力及び対神性兵装の有効性を確認。サンプルデータとして十分な収穫》
ガーディアンは一方的にそう結論づけた。
《最終的な削除はシステムの中枢『中央神殿』にて実行する。これ以上の干渉は他の観測対象へのノイズとなるためここで中断する》
それは宣告だった。
お前たちを殺すのはいつでもできる。
だが今はその時ではない。
最後は我々の本拠地で確実に処理してやる、と。
神の気まぐれ。
ただそれだけで二人は命を拾ったのだ。
ガーディアンは天を見上げた。
そして現れた時と同じように静かに光の中へと溶け込み、空のシミの向こう側へと消えていった。
後に残されたのはえぐり取られた大地と、呆然と立ち尽くすゼノとフィオラだけだった。
空は何事もなかったかのように元の青さを取り戻している。
「……あれが」
フィオラが震える声で言った。
「あれが神……」
ゼノは何も答えられなかった。
ただガーディアンが残した言葉だけが彼の頭の中で反響していた。
『――最終的な削除はシステムの中枢、中央神殿にて実行する』
敵はもう自分たちを追いかけてはこない。
彼らはゴール地点で静かに待っているのだ。
自分たちがそこへ来るのを。
そして虫けらを潰すように消し去るために。
リィナを救うための旅。
それはいつの間にか自分たちの処刑台へと向かう道となっていた。
だがゼノの心に絶望はなかった。
むしろ逆だった。
目的地がはっきりと定まった。
中央神殿。
そこに行けばリィナを救う手がかりも、そして全ての元凶である神々もいる。
彼はフィオラに向き直った。
その瞳には死への恐怖を乗り越えた静かな炎が宿っていた。
「……行くぞフィオラ」
「……ええ」
二人の進むべき道はもはや一つしかない。
世界の全てを敵に回してでも彼らはその道を進む。
神々の視線の下で、世界のバグと呼ばれた少年少女の最後の戦いが始まろうとしていた。




