第39話:父、ゲオルグ公爵
古都アイギスでの夜が明けた。
ゼノとフィオラは長老エルダの館を後にし、旅立ちの準備を整えていた。
二人の心は決まっていた。
胸元で淡い光を放つ銀のロケット。それが指し示す未知の場所へ向かい、リィナを救うための鍵『魂の箱舟』を探し出す。
それは世界の理にさえ逆らう無謀な旅。だが彼らの瞳に迷いはなかった。
「準備はいいか」
ゼノの問いにフィオラは力強く頷く。
「ええ。いつでも」
彼女の顔にはもう以前のような苦悩の色はない。自分の意志で道を選ぶという覚悟が彼女を何倍も強く見せていた。
だが、二人が街の門をくぐろうとしたその時だった。
アイギスの静かな空気を破るように、複数の馬蹄の音が響き渡った。
それは整然とした軍隊の行進の音。
やがて見覚えのある紋章を掲げた一団が、彼らの前に姿を現した。
アストリア家の紋章。
そしてその先頭で馬を駆るのは、フィオラの誰よりもよく知る人物だった。
鋼のような体を寸分の隙もなく甲冑で固め、その顔には一切の感情を読み取らせない鉄の仮面のような厳格さを浮かべている。
アストリア家当主、ゲオルグ・フォン・アストリア公爵。
彼女の父だった。
ゲオルグは馬から降りると、娘に一瞥もくれず、まずその周囲の状況を確認した。
古都の古風な街並み。
そして娘の隣に立つ、魂の歴史を持たない名もなき少年。
彼の眉間に、深い深い皺が刻まれた。
その怒りは炎のように燃え盛るものではない。全てを凍てつかせる絶対零度の静かな怒りだった。
「……フィオラ」
父が初めて娘の名を呼んだ。
「そのみすぼらしい身なりは何だ。そしてなぜお前が、このような過去に囚われた辺境の地にいる。婚約者であるサイラス殿との盟約の儀を放り出してまでな」
その声は娘を案じる父親のものではない。
家の名誉という一点のみを問いただす、審問官の声だった。
「わたくしはわたくしの意志でここにいます」
フィオオラは父の圧倒的な威圧感を前にしても、一歩も引かなかった。
「そしてわたくしはもう、『剣聖の魂』の器として生きるのはやめにしました。わたくし自身の剣の道を歩むと決めたのです」
「……ほう」
ゲオルグは面白そうに口の端を歪めた。
「お前をそう唆したのは、隣にいるその『ブランク』か。魂の歴史も持たぬ虫けらが、我がアストリア家の至宝に何を吹き込んだ」
彼の侮蔑に満ちた視線が、初めてゼノを捉えた。
「彼は関係ありません。これはわたくし自身の決定です」
「黙れ!」
ゲオルグの静かな一喝が響く。
「お前の意志などどうでもいい。お前の魂はお前一人のものではないのだ。それは何代にもわたって受け継がれてきたアストリア家の歴史そのもの。それを、お前は自らの気まぐれで汚そうとしている。その罪がどれほど重いか分かっているのか」
彼はゼノを指さした。
「衛兵、あの虫けらを捕らえよ。我が娘を惑わせた罪、万死に値する」
ゲオルグの言葉に、同行していたアストリア家の騎士たちが一斉に剣を抜いた。
だが、ゼノは動じなかった。
彼はフィオラの前に立つと、静かに言った。
「これはあんたたちの家の問題だ。俺が口を挟むことじゃない。だが俺の仲間に手を出すというなら話は別だ」
ゼノは剣を抜かない。
ただそこに立っているだけ。
だがそのあまりにも静かな佇まいは、歴戦の騎士たちを逆に戸惑わせた。
彼らはゼノの魂の奥底にある、自分たちの常識では計れない何かを感じ取っていたのだ。
「……何をしている! さっさと斬れ!」
ゲオルグが苛立ちに声を荒げる。
一人の騎士が意を決してゼノに斬りかかった。
その一撃をゼノは最小限の動きでいなす。
そして相手の体の重心を巧みに利用し、その騎士を地面に転がした。
それは力と力の衝突ではない。
ただ純粋な技術と観察眼による完璧なカウンター。
アイギスの人々が最も尊ぶ個の力だった。
その光景を見ていた街の人々がざわめき始める。
彼らは魂の歴史など信じない。
今、目の前で起こっている事実だけを見ている。
一人の名もなき若者が、高名なアストリア家の騎士を手も無くあしらったという事実を。
その無言の視線が、ゲオルグの権威をじわじわと蝕んでいく。
彼は理解した。
ここは王都ではない。自分の権威が絶対ではない、異郷の地なのだと。
「……フィオラ」
ゲオルグは戦術を変えた。
「お前がどうしてもその愚かな道を行くというなら止めはせん。だが聞け。お前がこのまま王都に戻らぬのであれば、アストリア家はお前を勘当する。お前はもはや我が娘ではない」
それは最後通牒だった。
「そして忘れるな。お前のその身勝手な行動は、婚約者であるサイラス殿と彼が率いるヴァレンシュタイン家の顔に泥を塗った。この借りは、いずれ必ず返してもらうことになるだろう」
その脅しを最後に、ゲオルグは踵を返した。
彼は倒れた騎士を一瞥もせず、馬上の人となる。
アストリア家の一団は嵐のように現れ、そして嵐のように去っていった。
後に残されたのは、重い沈黙とフィオラの震える肩だった。
彼女は泣いてはいなかった。
ただ自分の過去との完全な決別を、その身で噛みしめていた。
「……ありがとう、ゼノ」
彼女は小さな声で言った。
「わたくしを信じてくれて」
「当たり前だ」
ゼノは短く答えた。
「俺たちは仲間だからな」
二人は顔を見合わせた。
彼らの前にはもう何の障害もない。
あるのはただ、どこまでも続く道だけだ。
胸元のロケットが再び温かい光を帯び、北の山々を指し示している。
父との決別。
それはフィオラにとって、本当の自由を手に入れた瞬間だったのかもしれない。
二人は迷いなく、その光が導く道へと新たな一歩を踏み出した。




