第37話:剣聖の故郷、古都アイギス
リィナをドクター・アグネスに託しゼノとフィオラの二人旅が始まってから十日が過ぎた。
王都の喧騒はすでに遠い。
彼らが目指す古都アイギスはアストリア王国の南西、険しい山岳地帯の奥深くにあるという。
街道を外れ獣道に近い山道を進むにつれてフィオラの口数は目に見えて少なくなっていった。
「どうかしたのか」
馬上で揺られながらゼノが尋ねた。
「いつもより静かだな」
「……別に」
フィオラは視線を合わせずに答える。
だがその横顔には懐かしさと戸惑い、そしてどこか悲しげな色が浮かんでいた。
ゼノはそれ以上何も言わなかった。
彼女が自ら口を開くのをただ待った。
やがて一番高い峠を越えた時だった。
眼下に霧に包まれた幻想的な盆地が広がった。
その中心にまるで世界の始まりからそこにあったかのように静かに佇む街の姿が見える。
「……アイギス」
フィオラがぽつりと呟いた。
「わたくしの母の故郷。そしてアストリア家が王都へ移り住む前にその本拠としていた始まりの場所」
彼女はついに告白した。
「ここはわたくしの故郷でもありますの」
ゼノは驚いて彼女を見た。
「剣聖の家門の故郷……? だがクロエさんの話ではここは輪廻転生を信じない土地のはずだ」
「ええ。それこそがわたくしたちアストリア家の最大の矛盾なのですわ」
フィオラは自嘲するように笑った。
「アイギスの民は古来、魂の歴史ではなくただ今を生きる個の力を尊ぶ独自の信仰を持っています。ですがわたくしの父をはじめとする王都の一族はその教えを捨て『剣聖の魂』という血の系譜を絶対の価値としました。……わたくしはその矛盾の中で育てられたのです」
彼女の複雑な生い立ち。
その根源がこの美しい故郷にあったのだ。
*
古都アイギスに足を踏み入れたゼノは、その異質な空気に目を見張った。
街は巨大な石と古木を巧みに利用して作られている。
まるで街全体が一つに生命体のようだ。
そして何よりも違うのは人々の眼差しだった。
王都や学園で常にゼノに向けられていた侮蔑や好奇の視線がここにはない。
彼らはゼノの魂がブランクであることなどまるで気にも留めない。
ただその人間そのものをじっと見つめてくる。
そのあまりにも真っ直гуな視線にゼノは戸惑いすら覚えた。
ここでは誰もが対等。
魂の過去ではなく「今」の姿で評価される。
それはゼノがずっと心のどこかで求めていた世界だったのかもしれない。
「……おや」
街の中心で道行く人々に聞き込みをしていた二人の元に、一人の老婆が声をかけてきた。
「その顔立ちは……もしやラウラ様のお嬢君ではありませんか?」
ラウラ。それはフィオラの母の名前だった。
「……はい。フィオラ・フォン・アストリアです」
「おお、やはり! こんなに大きくなられて……」
老婆は懐かしそうに目を細めた。
だがすぐにその視線はフィオラの隣に立つゼノへと向けられ、わずかに険しさを帯びた。
「……して、そちらの王都のお方は?」
その問いには首都から来た人間への警戒心が滲んでいた。
フィオラは毅然として答えた。
「彼はゼノ。わたくしの命の恩人でありただ一人の信頼できる仲間ですわ」
その迷いのない言葉に老婆は少し驚いたように目を丸くした。
「『方舟の守り手』ノアという人物を探しています。彼が残したというこの紋章に心当たりはありませんか」
ゼノは老婆に記憶の中の紋章の形を伝えた。
その紋章を聞いた途端、老婆の顔色が変わった。
「……それは」
彼女は周囲を警戒するように声を潜めた。
「……それは『箱舟の紋章』。この街の長であるエルダ様にしか分からぬ印じゃ。じゃがエルダ様は今、外部の者とは一切会ってはくださらん」
やはり一筋縄ではいかないようだ。
*
二人は老婆に教えられた街で最も古い大樹の根元に建てられた質素な館へと向かった。
そこが長老エルダの住まいだった。
案の定、館の入り口は屈強な門番によって固く閉ざされていた。
「フィオラ様。お久しゅうございます。ですがお帰りください。長老は今何人とも会うことはできませぬ」
門番はフィオラに敬意を払いながらもその態度は頑なだった。
「これはアストリア家の問題ではありません。世界の存亡に関わる一大事なのです。どうかお通しください」
フィオラの必死の訴えにも門番は首を縦に振らなかった。
(……万事休すか)
ゼノが諦めかけたその時だった。
彼は思い出した。
この街では魂の歴史など意味をなさない。
重要なのは「今」の自分の価値だ。
ゼノは一歩前に出た。
そして懐からノアが残した銀のロケットを取り出した。
彼は何も言わなかった。
ただ静かに自らの魂のエネルギーをロケットに注ぎ込む。
ロケットは淡い光を放ち、あの不思議な『箱舟の紋章』がその表面に浮かび上がった。
その紋章を見た瞬間、あれほど頑なだった門番の顔が驚愕に染まった。
そして彼はゆっくりとその場に片膝をついた。
その動きは貴族に対する儀礼的なものではない。
神聖な何かに対する心からの畏敬の念が込められていた。
「……『箱舟の印』。まさかこの目で見ることになるとは……」
彼は深々と頭を下げた。
「……無礼をお許しください。長老はあなた様のようなお方をずっとお待ちでありました」
ギィと重い音を立てて閉ざされていた館の扉が開かれた。
その奥は薄暗く何も見えない。
だがその闇の向こうから古くそしてどこか懐かしい木の香りが漂ってきた。
二人は顔を見合わせた。
そして意を決してその闇の中へと一歩踏み出した。
世界の秘密の欠片は彼らをついにその真実の入り口へと導いたのだ。
彼らの本当の旅はここから始まる。




