第33話:歪んだ救済
「あなたたちも苦しんでいるのでしょう? 生きることに」
聖母のような微笑みを浮かべたまま、魂狩りの幹部ヴァレリーは言った。
「ならばわたくしが、救って差し上げますわ」
その言葉は穏やかな祈りのようでありながら、絶対的な死の宣告だった。
ゼノは即座にリィナとフィオラを背後にかばった。
「……問答無用、ということか」
「いいえ」とヴァレリーは静かに首を振る。
「これこそが魂の対話。あなたたちは生への執着という病にかかっている。わたくしはそれを治療する医者。ただそれだけのことですわ」
彼女がそっと手を前に差し出す。
攻撃的な魔力の奔流ではない。
まるで春の陽光のような、温かく穏やかな光の波が部屋全体に広がっていった。
だがその光を浴びた瞬間、フィオラは自らの魂が急速に色褪せていくような感覚に襲われた。
「……っ、これは!」
体の力が抜けていく。
『剣聖の魂』が誇る強大な魂魄強度が、まるで砂の城のように内側から崩れていく。
戦う気力が、生きる意志そのものが根こそぎ奪われていくような恐ろしい感覚。
「フィオラ、しっかりしろ!」
ゼノが叫ぶ。
だがその光は、ゼノには何の影響も与えなかった。
彼の規格外の魂には、この魂の摩耗を強制的に促進させるヴァレリーのユニークスキルが一切通用しないのだ。
だがその事実は彼に安堵ではなく、焦りと怒りをもたらした。
仲間だけが蝕まれていく。
自分だけが無事でいる。
その無力感が彼の心を焼いた。
「あらあら」
ヴァレリーは興味深そうにゼノを見た。
「あなた、面白い魂をしていますのね。病にかかっていない健康な魂。ですが、そのせいで周りの病人の苦しみが分からない。あなたこそ最も哀れで孤独な魂ですわ」
彼女の視線がゼノの背後、リィナへと向けられた。
その瞳が恍惚とした光を帯びる。
「……ああ、見つけた。この場所で最も永く苦しみ続けてきた哀れな子羊」
ヴァレリーの標的はリィナだった。
彼女にとって、魂の摩耗が末期にあるリィナこそ、最も救済すべき魂。
「さあお嬢さん。もう頑張らなくていいのですよ。その永い旅を、終わらせて差し上げますわ」
彼女はリィナに向かって、その全霊を込めて囁いた。
「――《終焉への誘い(インビテーション・トゥ・ヴァニッシュ)》」
「……っ、ああ……!」
リィナの体が小さく痙攣した。
彼女の魂を蝕むあの諦観と虚無感が、濁流のように精神へと流れ込んでくる。
(もう、いい……)
(疲れた……)
(ここで、終わるのも、悪くない……)
永い永い輪廻の果てに、彼女がずっと抱えてきた死への憧憬。
ヴァレリーのスキルはそれを増幅させ、魂を内側から崩壊させる悪魔の囁きだった。
リィナの膝ががくりと折れる。
その瞳から光が消えかけていた。
*
「――ふざけるなッ!!」
ゼノの絶叫が実験室に響き渡った。
リィナがその生を諦めようとしている。
自分がようやく見つけた生きる理由が、目の前で消されようとしている。
その事実が、ゼノの心の奥底にあった最後の理性のタガを引きちぎった。
彼の中で何かが燃え上がった。
それは恐怖ではない。
純粋な、そして暴力的なまでの怒りだった。
《瞬間集中》!
思考が加速する。
だが今回のそれは、今までとは全く質が違っていた。
冷静な分析ではない。
怒りの炎が彼の魂を焼き尽くさんばかりに燃え盛る。
「貴様にッ!」
ゼノは床を蹴った。
その動きはもはや潜入者のそれではない。
全てを破壊し尽くす一匹の獣の動きだった。
「貴様に、何が分かる!」
ヴァレリーはその聖母の微笑みを崩さないまま、ゼノを迎え撃とうとした。
だが彼女の予測は甘かった。
彼女は魂を扱う専門家だ。
だが魂に頼らない、ただの人間の剥き出しの怒りを知らなかった。
「その歪んだ自己満足で、人の命を弄ぶな!」
ゼノはヴァレリーが放つ魂を蝕む光のオーラをその身に浴びながら、一切構わず突っ込んでいく。
その光は彼には効かない。
その事実が今、最強の武器となる。
「……!?」
ヴァレリーの顔に初めて焦りの色が浮かんだ。
彼女は近接戦闘の専門家ではない。
ゼノの荒々しくも洗練された体術に、全く対応できない。
ゼノの拳が、蹴りが、その聖女の仮面を容赦なく打ち砕いていく。
「生きることを、足掻くことを、望むことを、笑うなッ!」
それはゼノ自身の魂の叫びだった。
一度きりの人生だからこそ、その一瞬一瞬が何よりも尊い。
その輝きを安っぽい同情で消させてたまるか。
*
ゼノの叫び声は、薄れゆくリィナの意識にも届いていた。
(……ゼノが、怒ってる……)
(私のために……?)
彼女の虚無に沈みかけていた魂の水面に、小さな波紋が広がった。
ゼノの姿が見える。
傷つくことも厭わず、ただ自分を守るためだけに戦ってくれている。
彼は生きろと叫んでいる。
お前には価値があると、その全身で示してくれている。
(……嫌だ)
リィナの心に新しい感情が芽生えた。
(まだ、消えたくない)
(この人の隣に、もっといたい)
彼女がゼノと出会って初めて抱いた、生きるという願い。
そのか細い光が、ヴァレリーの深い闇を内側から打ち破った。
「わたくしは……まだ、消えたくないッ!」
リィナが叫んだ。
その瞬間、彼女の体から今までとは比較にならないほどの膨大な魔力が溢れ出した。
それは彼女の魂の最後の輝き。
残された全ての生命力を振り絞った、抵抗の光だった。
「な……!?」
そのあまりの魂の輝きに、ヴァレリーが怯んだ。
彼女の救済の術は、相手の魂に諦めがあって初めて成立する。
これほど強い生への執着を前にしては、その効果は半減する。
その一瞬の硬直。
フィオラはそれを見逃さなかった。
彼女もまたゼノの戦う姿に勇気づけられ、気力だけでその体を動かしていた。
彼女の剣がヴァレリーの肩を深く切り裂いた。
「ぐっ……!」
ヴァレリーは後方へ飛び退いた。
その穏やかな笑みは消え、信じられないといった表情で三人を見ている。
「……なぜ。なぜあなたたちはそこまでして、その苦しみにしがみつくのですか」
その問いに、ゼノが答えた。
「苦しみも痛みも全部含めて、生きるってことだ。お前には一生分からない」
ヴァレリーはゆっくりと首を振った。
その顔には深い悲しみと失望の色が浮かんでいた。
「……可哀想に。あなたたちもいつか分かる日が来るでしょう。このわたくしの救済の本当の意味が」
彼女はそう言い残すと、その姿を闇の中へと消した。
後に残されたのは、破壊された実験室と疲労困憊の三人。
そして今も虚ろな目でベッドに横たわる、魂を抜かれた患者たち。
歪んだ救済との戦いは辛うじて退けた。
だが三人の心に残ったのは勝利の高揚感ではない。
あまりにも重く、そしてやるせない現実だけだった。




