第1話:ブランクと呼ばれる男
神創暦1024年。
アストリア王国王立転生学園の講義室は、特有の空気に満ちていた。それは、若さゆえの熱気と、自らが受け継いだ魂の格に対する揺るぎない自負が混じり合った、エリートだけが放つことのできる濃密な空気だ。
教壇に立つ教師が、尊大な口調で講義を進めている。
「――以上が、魂の転生回数、すなわち『魂歴』が社会階級に直結する『魂歴カースト制度』の歴史的必然性である。魂歴50回以上の上級貴族の方々が持つ『伝説の英雄の魂』は、我々が仰ぎ見るべき偉大な遺産なのだ」
生徒たちは皆、誇らしげに胸を張っている。ここに集うのは、魂歴20回以上の貴族の子弟か、それに準ずる才能を認められた者たちばかり。彼らにとって、前世の栄光は自らのアイデンティティそのものだった。
教師は満足げに頷くと、教室の一角に視線を向けた。その視線の先には、窓の外をぼんやりと眺めている一人の少年がいた。
黒髪に、何を考えているのか読ませない黒い瞳。周囲の熱気から切り離されたように、彼だけが静かな空気を纏っている。
「――ゼノ君」
教師の呼びかけに、教室中の視線が一斉にその少年に突き刺さる。侮蔑、好奇、そして憐憫。様々な感情が渦巻く視線に、ゼノは億劫そうに顔を向けた。
「君は、我が学園でも類を見ない特待生だ。魂歴は……『ブランク』。前世を持たない魂は、この世界では新生児として稀に生まれるが、君のように17歳まで『ブランク』であり続ける存在は前代未聞だ」
教師の言葉には、あからさまな侮りが含まれていた。まるで価値のない石ころでも見るような目だ。
「そんな君だからこそ、我々とは違う新鮮な視点を持っているかもしれん。先ほどの講義について、何か意見はあるかね? 前世という偉大な遺産を持たない君にとって、この魂歴至上主義の世界はどう映る?」
意地の悪い質問だった。肯定すれば己の無価値を認めることになり、否定すれば世界の理に楯突く愚か者として嘲笑われる。教室のあちこちから、くすくすという笑い声が漏れた。
「ブランクのくせに、意見なんてあるのかよ」
「前世がないってことは、空っぽってことだろ? 可哀想に」
ゼノは内心で深いため息をついた。
(またか……。毎日毎日、飽きもせずに)
この学園に入学して以来、こうした扱いは日常茶飯事だった。物心ついた時から孤児院で育ち、自分が転生できない特異体質だと自覚していたゼノにとって、今さら傷つくような言葉ではない。だが、面倒なことこの上ない。
彼は静かに立ち上がると、無感情な声で答えた。
「意見、というほどのものではありませんが」
前置きをして、彼は続ける。
「前世の遺産がないということは、前世の失敗や悪評に縛られないということでもあります。過去に縛られず、ただこの一度きりの生で成したことだけで評価される。それはある意味、最も公正な生き方と言えるかもしれません」
ゼノの答えに、教室は水を打ったように静まり返った。皮肉でもなく、反抗でもない。ただ淡々と事実を述べただけのその言葉は、しかし、魂の歴史を絶対の価値とするこの場の空気を、静かに、だが確かに揺さぶった。
教師は一瞬言葉に詰まり、やがて不快そうに顔を歪めた。
「……詭弁だな。座りなさい」
それだけ言うのが精一杯だった。
ゼノは静かに席に着くと、再び窓の外に視線を戻した。青い空を、一羽の鳥が自由に飛んでいく。
(公正、か。そんなものがこの世界にあるものか)
心の中で自嘲する。生きるためには、時にこうした綺麗事も口にする。すべては、この理不尽な世界で、たった一度の命を守り抜くために。
*
講義が終わると、ゼノは足早に教室を出た。騒がしい場所は好かない。特に、自分への好奇と侮蔑の視線が渦巻く教室は、一刻も早く抜け出したかった。
だが、平穏を望む彼の思いを打ち砕くように、廊下で数人の生徒に囲まれた。中心にいるのは、金髪をオールバックにした、見るからに傲慢そうな貴族の生徒だ。確か、魂歴40回を誇る騎士の家系の次男だったか。
「おい、待てよ『ブランク』」
男はゼノの前に立ちふさがり、挑発的に笑う。
「随分と偉そうな口を利いてたじゃねえか。過去に縛られない、だと? 空っぽのお前が何を言うか」
「……道を開けてもらおうか。君たちのように、来世で挽回できる身分じゃないんでね。俺の時間は有限なんだ」
ゼノは感情を殺し、淡々と言い返す。刺激するのは得策ではない。死にさえしなければ、多少の屈辱は甘んじて受け入れる。それが彼の処世術だった。
だが、その言葉が逆に相手のプライドを傷つけたとみえる。
「なんだと、てめえ!」
男がゼノの胸ぐらを掴み上げた。その瞳には、自分たちの価値観を否定されたことへの怒りが燃え盛っている。
「怖いか? 死ぬのが。俺たちは別に怖くねえよ。たとえ今お前に殺されたって、来世でまた会えるからな。もっと強いスキルを持って、お前みたいな虫ケラを叩きのめすさ。だがお前は? 死んだらそれで終わり。無に還るだけだ。虚しくねえのか?」
周囲の取り巻きたちも、げらげらと下品に笑う。
「やめとけよ、マーカス。ブランクなんて殴っても、来世の自慢話にもなりゃしねえぜ」
「本当、哀れだよな。一度きりの人生が、こんな惨めなものだなんて」
虚しいか?
その問いに、ゼノの心の中で黒い炎が揺らめいた。
――ああ、虚しいさ。怖いに決まってる。
お前たちのように、何度でもやり直せるゲームじゃないんだ。俺の人生は。たった一度のプレイで、ゲームオーバーになれば二度とコンティニューはできない。
だからこそ、お前たちのように無意味なことに命(時間)を浪費するわけにはいかない。
死への恐怖は、誰よりも強く俺を生に執着させる。
「……確かに、怖いかもしれないな」
ゼノは、掴みかかってくる男の腕を睨みつけながら、静かに言った。
「だが、終わりがあるからこそ、価値があるものもある。君たちには一生理解できないだろうが」
彼は掴みかかる男の腕を、最小限の動きで捻り上げた。それは前世から受け継いだ華麗な剣技でも、魔法でもない。孤児院で生き抜くために、そしてこの学園で生き残るために、独学で身につけたただの護身術。一度きりの人生だからこそ、必死に培ってきた「技術」だ。
「ぐっ……!」
予想外の抵抗に、マーカスが顔を歪める。ゼノは即座に腕を離し、一歩後ろに下がった。
「言ったはずだ。俺には時間がない。君たちの輪廻転生ごっこに付き合っている暇はないんだ」
冷たく言い放ち、ゼノは呆然とする彼らを置き去りにして、その場を立ち去った。
背中に突き刺さる罵詈雑言を無視して、彼が向かう先は一つ。
学園の巨大な図書館。
そこだけが、彼の唯一の安息の場所だった。
*
荘厳な図書館の、高い天井まで続く書架の森。古紙とインクの匂いが、ゼノのささくれだった神経をわずかに和らげてくれる。
彼は、他の生徒たちのように『英雄譚』や『高名な魂の系譜』といった書架には目もくれない。彼が探すのは、もっと実用的な知識だ。
『戦術論概説』『野外生存術』『初等ポーション調合学』。
すべては、いつか来るかもしれない「本当の死」の危機から、この身一つで生き延びるための知識だった。
(……マスター、見てますか)
書架の陰で、ゼノは唯一の理解者だった孤児院の院長を思い出す。
『お前は、誰とも違う。だが、それは間違いじゃない。お前だけの命を、誰よりも輝かせて生きなさい』
その言葉が、今もゼノの魂を支えている。
そもそも、なぜ自分がこのエリート校にいるのか。それは学園長イライザ・マーロウからの、特待生としての異例のスカウトがあったからだ。 元『賢帝』の魂を持つと言われる彼女は、ゼノの特異な魂を見抜き、何かを期待している節がある。
『君は、この停滞した世界を動かす『変数』になるかもしれない』
そう言った彼女の真意は、まだ分からない。だが、この学園の膨大な知識は、生き抜く術を求めるゼノにとって魅力的だった。だから、彼はここにいる。
数冊の本を抱え、貸出手続きを終えて図書館を出る。夕日が長い影を落とす中庭を抜け、学生寮へと続く道を歩いていた、その時だった。
ふと、視界の端に二人の少女の姿が入った。
一人は、剣の鍛錬をしていた。夕日を浴びて輝く美しい銀髪をポニーテールにし、寸分の隙もない構えで木剣を振るっている。その姿は気高く、見る者を圧倒する気品があった。
アストリア公爵家の令嬢、フィオラ・フォン・アストリア。 代々『剣聖』の魂を受け継ぐ、学園でも一、二を争う実力者だ。 彼女もまた、ゼノを『ブランク』として見下している一人だった。
そして、もう一人。
彼女はただ、噴水の縁に静かに座っているだけだった。淡い色の髪が風に揺れ、その儚げな横顔は、まるで精巧な人形のよう。
だが、ゼノは彼女から目が離せなかった。
うまく言えないが、その存在感が異質だった。見た目は同じ年頃なのに、まるで悠久の時を生きてきたかのような、深く、そしてどこか寂しげな空気を纏っている。魂が、摩耗しきっているような……。
最近転校してきたばかりの、リィナという少女だ。
(……関係ない)
ゼノはすぐに視線を外し、歩き出した。
剣聖の令嬢も、謎めいた転校生も、どちらも自分とは住む世界が違う。魂歴に彩られた、正真正銘のエリートたちだ。俺のような『ブランク』とは、決して交わることのない存在。
自分のやるべきことは一つだけ。
明日も、明後日も、ただ生き延びる。
それだけだ。
自室に戻ったゼノは、ドアに鍵をかけると、ベッドにどさりと倒れ込んだ。軋むスプリングの音が、安物の部屋によく響く。
窓の外では、最後の光が地平線に消えようとしていた。
「……今日も、どうにか生き延びた」
誰に言うでもなく呟かれたその言葉は、彼の祈りであり、誓いだった。
来世でまた会う約束など、誰ともしない。
ただ、この一度きりの人生の限り、明日もまた陽が昇るのを見るために。
それが、『ブランク』と呼ばれる男、ゼノの全てだった。