第15話:この一瞬に全てを懸ける
イライザ学園長との対面を経て、ゼノの中で、何かが決定的に変わった。
彼はもはや、ただの孤独な生存者ではない。神々のゲーム盤の上で、唯一、盤面を引っ掻き回せる『バグ』としての自覚。そして、リィナや、変わり始めたフィオラといった、守るべき存在。
彼の日常の鍛錬には、以前とは比べ物にならないほどの熱と、明確な目的意識が宿っていた。
だが、彼らが覚悟を決めるのを、世界は待ってはくれなかった。
その日の午後、学園を、再びあの不吉な警報が引き裂いた。
しかし、今度の襲撃は、前回とは全く様相が異なっていた。
無差別なパニックを引き起こすのではなく、まるで外科手術のように、正確に、そして静かに、脅威は学園の中枢へと侵入していた。
黒いローブを纏った数人の魂狩りが、一切の抵抗を無力化しながら、一直線に、ゼノのいる学生寮へと向かっていたのだ。
「――見つけたぞ、世界の『バグ』。我々と共に来てもらおう」
寮の廊下で、ゼノは、前回とは比較にならないほどの圧を放つ、魂狩りのエリート部隊と対峙していた。リーダー格の男は、その顔を禍々しい仮面で隠しているが、その実力は、前回の部隊とは比較にならないことが、肌で感じ取れた。
「ゼノ!」
駆けつけてきたリィナと、異変を察知したフィオラが、彼の隣に並び立つ。
「こいつらの狙いは俺だ。お前たちは、逃げろ!」
ゼノは叫ぶが、二人は首を横に振った。
「あなたの戦いは、わたくしの戦いでもあると、あの日決めたはずよ」とフィオラが言う。
「もう、ゼノを一人にはしない」とリィナが呟く。
三人の間に、言葉はなくとも、確かな覚悟の連携が生まれていた。
「……愚かな。ならば、三人まとめて、魂の塵にしてくれる!」
仮面のリーダーが号令を発し、魂狩りたちが一斉に襲いかかってくる。
「こっちだ!」
ゼノは、意図的に、開けた場所ではない、入り組んだ地形の場所へと走り出した。彼の頭脳こそが、最大の武器となる戦場を選ぶために。
彼が目指したのは、学園の象徴でもある、巨大な時計塔の内部だった。
*
無数の歯車と、複雑に絡み合った機構。
巨大な時計の内部は、まさしく、鉄でできた迷宮だった。ゼノは、この立体的な地形を利用して、どうにか追撃をかわしていたが、それも時間の問題だった。
やがて、最上階の鐘楼で、三人は、仮面のリーダーによって完全に追い詰められた。
「終わりだ、イレギュラーども」
仮面の男は、ゆっくりと歩み寄ってくる。その体からは、魂への干渉だけでなく、純粋な、高密度の魔力が溢れ出ていた。彼は、魂狩りの中でも、近接戦闘に特化した「処刑人」なのだ。
(勝てない……)
ゼノは、冷静に戦力差を分析し、即座に結論を弾き出す。
フィオラの剣技は強力だが、相手はそれを上回る手練れ。リィナの根源魔法は絶大だが、発動までに時間がかかりすぎる上、一発撃てば彼女の魂が持たない。そして、自分の攻撃など、この男には通じないだろう。
正攻法では、絶対に勝てない。
勝機は、ただ一つ。
たった一度きりの、完璧な一瞬を、この三人の力で、意図的に創り出すこと。
「……二人とも、聞いてくれ」
ゼノは、背後のフィオラとリィナに、囁き声で、あまりにも無謀な作戦を伝えた。
それは、一人が囮になり、一人が足場を崩し、その生まれたコンマ数秒の隙に、全てを懸けるという、綱渡りのような奇策。
失敗すれば、全員が死ぬ。
だが、成功すれば、あるいは――。
フィオラは、一瞬、その作戦の無謀さに目を見開いたが、すぐに、覚悟を決めた顔で頷いた。
「……面白い。あなたの奇策、乗ってあげますわ」
リィナも、こくりと頷く。その瞳に、迷いはなかった。
「さあ、おしゃべりは終わりか?」
仮面の男が、黒い刃を構える。
ゼノは、彼に向き直り、不敵に笑った。
「ああ。――始めようか」
*
「――はあああああっ!」
口火を切ったのは、フィオラだった。
彼女は、自らの魔力と魂の全てを、一振りの剣に注ぎ込んだ。
《魔力剣》が、今までで最も青く、そして激しい輝きを放つ。
「奥義――『天狼星・ストライク』!」
それは、アストリア家に伝わる、最大最強の一撃。光の槍と化した斬撃が、仮面の男の頭部めがけて、一直線に突き進む。
「ほう、見事な一撃。だが――」
仮面の男は、その神速の一撃を、嘲笑うかのように、余裕をもって受け流そうと、その身を翻した。
その、瞬間。
「――《アーツ・バインド》!」
リィナの、祈るような声が響く。
だが、彼女が狙ったのは、仮面の男ではない。彼が、回避するために踏み込もうとした、その足元の床だった!
魔力の蔦が、床の鉄板を砕き、彼の足場を、ほんの一瞬だけ、ぐらりと揺らがせた。
それは、攻撃ではない。ただ、完璧な回避の体勢を、コンマ数秒だけ、乱すための布石。
仮面の男は、フィオラの剣を捌きながらも、足元の異変に、その体勢を、ほんのわずかに、崩した。
常人ならば、気づくことすらできない、一瞬の隙。
だが、ゼノは、その瞬間を、待っていた。
《瞬間集中》!!!
ゼノの世界から、音と色が消える。
時間の流れが、極限まで引き延ばされ、彼の思考だけが、神の領域へと加速する。
フィオラの剣が、仮面の男の頬を掠める。
リィナの魔法が、彼の足元で砕け散る。
そして、体勢を崩した敵の、ガードが、ほんの数センチ、下がっているのが、はっきりと見えた。
(――ここだ!!)
ゼノの体が、弾かれたように飛び出した。
狙うのは、心臓でも、首でもない。そんな場所を貫く力は、今の彼にはない。
ただ、一点。
敵が、黒い刃を握る、その右腕!
彼の、たった一度の人生の全て。
死への恐怖も、生への渇望も。
守りたいと願う、少女への想いも。
好敵手と認めた、令嬢への信頼も。
その、全ての感情を、何の変哲もない訓練用の剣の、その切っ先に乗せて。
この一瞬に、全てを懸ける!
ザクリ、という鈍い音が、時間の止まった世界に響いた。
ゼノの剣は、寸分たがわず、仮面の男の右腕の関節に、深く、深く突き刺さっていた。
次の瞬間、世界の時間が、再び、正常に流れ出す。
「ぐ……ああああああああああああああああッッッ!!!」
時計塔の鐘楼に響き渡ったのは、勝利の鐘の音ではなく、仮面の男の、絶叫だった。
彼の右腕は、関節から無残に砕かれ、黒い刃が、カラン、と音を立てて床に落ちた。
致命傷ではない。だが、戦闘能力は、完全に奪った。
「き、貴様らあああああ……!!」
仮面の男は、使えなくなった右腕を押さえ、憎悪に満ちた目で三人を見つめる。
ゼノは、その場に膝をつき、荒い呼吸を繰り返していた。全神経をすり減らす、極限の集中の代償は、あまりにも大きい。
フィオラも、リィナも、それぞれの大技を放ったことで、立っているのがやっとの状態だった。
三人は、満身創痍だった。
だが、その瞳には、確かな勝利の光が宿っている。
彼らは、この絶望的な戦いを、乗り越えたのだ。
仮面の男は、駆けつけてくる警備騎士団の足音を聞きつけると、忌々しげに舌打ちした。
「……覚えていろ、規格外の魂。次こそは、必ず、お前の魂を、狩ってくれる……!」
彼は、そう言い残すと、姿をくらました。
後に残されたのは、夜景を臨む、静かになった鐘楼と。
互いの体を支え合うようにして、そこに立つ、三人の少年少女の姿だけだった。
『ブランク』と、『剣聖』と、『無限輪廻の少女』。
交わるはずのなかった三つの魂が、初めて、一つの意志の下に、不可能を可能にした、奇跡の夜だった。




