第13話:魂よ、沈黙しろ
フィオラ・フォン・アストリアは、自問していた。
豪華絢爛な自室で、彼女はただ一人、沈黙の中にいた。あの夜、訓練場でゼノの前で膝をついて以来、彼女は誰とも会わず、部屋に閉じこもっていた。
目の前には、壁に飾られた一振りの剣。アストリア家に代々伝わる、宝剣『ソウル・レガシー』。それは『剣聖の魂』を持つ者だけが、その真価を発揮できると言われている。
だが、今の彼女には、その剣が、自分を縛り付ける呪いの象Gげのようにしか見えなかった。
父の言葉が、脳裏から離れない。『お前には、心底失望した』。
ゼノの言葉が、心を抉る。『君は、ただ偉大な幽霊の足跡を、必死になぞっているだけだ』。
どちらも、正しい。
そして、どちらも、彼女を袋小路へと追い詰める。
『剣聖の魂』の教えに従順であれば、不測の事態に対応できない未熟者と断じられる。
己の判断で、型破りな道を選べば、伝統を汚す裏切り者と罵られる。
(わたくしは……『フィオラ』では、いけないのですか)
『剣聖』ではなく。アストリア家の令嬢でもなく。
ただの一人の少女、フィオラとして、自分の足で立ち、自分の意志で剣を振るうことは、許されないのか。
答えは、否だ。この世界、この家系に生まれた限り、それは許されない。
ならば。
許されないというのなら、力ずくで勝ち取るしかない。
『フィオラ』としての、自分自身を。
彼女の瞳に、絶望の闇の底で、一つの小さな、しかし鋼のように硬い決意の光が灯った。
『剣聖の魂』を捨てることはできない。それは、自分の一部だから。
だが、その声に、ただ従うだけの人形であることから、決別することはできるはずだ。
そのためには、まず、このやかましく響き続ける、過去の亡霊の声を、黙らせなければならない。
フィオラは、静かに立ち上がった。
そして、彼女の制服の胸元を飾っていた、アストリア家の精巧な紋章を、その手で引きちぎった。
ためらいは、なかった。
彼女は、その紋章を机の引き出しの奥深くにしまうと、貴族的な装飾が施された上等な衣服を脱ぎ捨て、学園で支給された、最も簡素な訓練用の衣服に身を包んだ。
それは、彼女の、過去との決別を示す、静かな宣誓だった。
*
夜更けの、第二訓練場。
そこは、主に平民の生徒たちが使う、何の変哲もない場所だった。彼女がいつも使う、設備の整った第一訓練場ではない。
フィオラは、あえてこの場所を選んだ。
彼女は、武器庫から、一本の、何の変哲もない木の槍を手に取った。剣ではない。彼女が今まで、一度も本格的に触れたことのない武器。
深く息を吸い、槍を構える。
その瞬間だった。
彼女の魂が、内側から悲鳴を上げた。
違う、と。その構えは、非効率的だと。手首の角度、足の開き、重心の位置。その全てが、間違っていると、『剣聖の魂』に刻まれた何百もの戦闘経験が、彼女に警告する。
魂は、自動的に、体を最も効率的な「剣の構え」へと修正しようとする。槍を、まるで長剣のように扱おうと、筋肉が勝手に動く。
「……っ、黙りなさい……!」
フィオラは、歯を食いしばり、その魂の命令に、自らの意志で抵抗した。
自分の体なのに、自分の体ではないような、奇妙な感覚。
魂が求める完璧な動きと、彼女がやろうとしている不格好な動きが、体の中でせめぎ合う。
その結果、彼女の動きは、ぎこちなく、滑稽なほどに不格好になった。
汗が、噴き出す。
槍を、ただまっすぐに突くだけ。その単純な動作が、これほどまでに難しいとは、思わなかった。
魂が、叫んでいる。
もっと効率的な体の使い方がある。もっと鋭く、速く、強く突く方法がある。歴代の剣聖たちが、血と汗の果てに辿り着いた、その完成された答えを、魂は彼女に示し続ける。
「黙れ……! 黙れッ……!」
それは、誰に言うでもない、自分自身の魂への命令だった。
「わたくしは、お前の言いなりにはならない……! これは、わたくしの体だ!」
周囲から、くすくすという笑い声が聞こえ始めた。夜間訓練に来ていた他の生徒たちが、遠巻きに彼女の奇行を眺めている。
「おい、あれ、フィオラ様じゃないか?」
「一体どうしたんだ? 魂狩りの攻撃で、魂がおかしくなったのか?」
「剣聖姫も、見る影もないな……」
侮蔑と憐憫の視線が、突き刺さる。
以前の彼女なら、耐えられない屈辱だっただろう。だが、今の彼女には、その声は届いていなかった。
彼女は、ただひたすらに、自分自身の魂との、孤独な戦いを続けていた。
*
「……無様だな」
不意に、背後から、静かな、しかし聞き間違えるはずのない声がかけられた。
フィオラが振り返ると、そこにゼノが立っていた。彼も、夜の自主訓練に来たのだろう。その手には、剣も何もなく、ただタオルがかけられているだけだった。
「……あなたに、わたくしの何が分かると言うのですか」
フィオラは、敵意を剥き出しにして睨みつけた。今、一番会いたくない相手だった。
「分かるさ。俺も、ずっとそうだったからな」
ゼノの言葉は、意外なほど穏やかだった。
「俺には、手本になる魂の記憶がない。だから、全てをゼロから、この体一つで学ばなければならなかった。君が今やろうとしていることと、同じだ」
彼は、フィオラの構えを一瞥すると、続けた。
「だが、そのやり方は非効率的だ。君は、魂の声に抵抗しようと、力ずくで押さえつけようとしている。それでは、魂はさらに強く反発するだけだ」
「では、どうしろと……!?」
「抵抗するな。かといって、従うな。……無視するんだ」
「無視……?」
「ああ」とゼノは頷いた。
「魂の声が、過去の記憶から来るものなら、君が『今』に意識を集中させれば、その声は届かなくなる。槍を握る、手のひらの感触。地面を踏みしめる、足の裏の感覚。吸って、吐く、呼吸の音。君の魂が経験したことのない、この瞬間の、生身の感覚だけに、全ての意識を注いでみろ」
それは、ゼノが、自分自身のスキル《瞬間集中》 の本質を、他者に分かるように説いた、初めての言葉だった。
「君の魂の歴史が、君の体を支配しているんじゃない。君が、魂の歴史に、体を支配させているだけだ。『今』の体の主人は、君自身のはずだ」
フィオラは、何も言い返せなかった。
『ブランク』である彼が口にした言葉は、皮肉にも、彼女が求めていた答えの、核心を突いていた。
ゼノは、それ以上何も言わず、自分のトレーニングに戻るために、その場を立ち去った。
*
一人残されたフィオラは、ゼノの言葉を反芻していた。
(『今』に、意識を集中させる……)
彼に教えられたことが、腹立たしい。だが、彼の言葉には、否定できない説得力があった。
彼女は、もう一度、槍を拾い上げた。
そして、今度は、魂の声と戦うことをやめた。
目を閉じ、深く、深く、息を吸う。
夜の、冷たい空気。
ざらついた、木の槍の感触。
硬い、地面の感触。
ドクン、ドクンと脈打つ、自分自身の心臓の音。
魂が、何かを囁いている。だが、もう、それは遠い場所で鳴っている雑音のようにしか聞こえない。
意識の全てが、この瞬間の、五感に集中していく。
彼女は、ゆっくりと目を開けた。
そして、ただ、目の前の一点だけを見据え、静かに、槍を突き出した。
シュッ、と小さな風切り音。
それは、歴代の剣聖が放つ、音速の斬撃とは比べ物にならないほど、遅く、そして弱い一撃だった。
不格好で、未熟で、何の力もない。
だが、それは、紛れもなく、『フィオラ』自身が放った、初めての一撃だった。
その感触に、彼女の唇の端が、ほんのわずかに、持ち上がった。
それは、歓喜の笑みではない。
絶望の淵から、自分の足で、最初の一歩を踏み出すことができた、赤子のような、か細い産声。
その一歩は、あまりにも小さい。進むべき道は、まだ暗闇の中だ。
だが、絶対的な絶望は、もうそこにはなかった。
魂よ、沈黙しろ。
これからは、わたくしが、わたくしの道を歩むのだから。
フィオラの心に、静かだが、決して折れることのない、新しい闘志の火が、確かに灯った瞬間だった。




