第11話:フィオラの絶望
魂狩りの襲撃が残した傷跡は、物理的なものだけではなかった。
フィオラ・フォン・アストリアの心には、誰にも癒すことのできない、深く、そして静かな亀裂が生まれていた。
自室の大きな姿見の前で、彼女は自分の姿を映していた。
背筋を伸ばし、顎を引けば、そこにいるのは誰もが羨む『剣聖姫』フィオラだ。代々受け継がれてきた、美しく気高い魂の器。
だが、今の彼女には、その姿が空虚な張りぼてのようにしか見えなかった。
(わたくしの剣は……)
脳裏で、あの日の戦いが何度も再生される。
魂狩りの異質な術を前に、多くの生徒が為すすべもなく魂を蝕まれていった。自分もまた、魂の力で抵抗はしたものの、その戦いは常に後手に回り、消耗を強いられる苦しいものだった。
それに比べて、あの男は――ゼノは、どうだったか。
魂への攻撃を、まるで意に介さず、ただ前だけを見据えていた。
その戦い方は、泥臭く、洗練とは程遠い。だが、絶望的な状況を覆したのは、紛れもなく彼の、歴史を持たない、たった一度の生に裏打ちされた力だった。
(『剣聖の魂』は、絶対ではなかった……)
その事実が、鉛のように重く彼女の心にのしかかる。
彼女が今まで信じてきたもの。積み上げてきた努力。その全てが、音を立てて崩れていくような感覚。
父に教え込まれた、アストリア家の誇り。魂の歴史こそが、絶対的な力の証明であるという、世界の理。
その全てが、たった一人の『ブランク』の存在によって、揺らいでしまっている。
これは、彼女にとって、敗北よりも受け入れがたい、価値観の死だった。
コンコン、と控えめなノックの音。
「お嬢様、公爵様がお見えです。応接室にてお待ちでございます」
「……父上が?」
フィオラは、動揺を完璧に隠し、平静を装って答えた。
「すぐに参ります」
だが、その胸中は、嵐が吹き荒れる海のように荒れていた。一番会いたくない人物が、一番聞きたくない言葉を告げにきたに違いなかった。
*
重厚な調度品が並ぶ応接室の空気は、氷のように冷え切っていた。
ソファに深く腰掛けた父、ゲオルグ・フォン・アストリアは、娘の顔を一瞥すると、労いの言葉もなく、本題を切り出した 。
「フィオラ。先日の一件、報告書を読んだ」
その声には、何の感情も含まれていない。
「……はい」
「単刀直入に聞こう。なぜ、あの『ブランク』と共闘した?」
それは、尋問だった。
「状況が、それを必要としていました。彼の特異体質がなければ、被害はさらに拡大していたかと」
「言い訳は聞きたくない」
ゲオルグは、娘の言葉を冷たく遮った 。
「アストリア家の人間が、ましてや『剣聖の魂』を継ぐ者が、素性の知れぬ、魂の歴史を持たぬ者と肩を並べるなど、あってはならんことだ。それは、我々が何代にもわたって守り抜いてきた誇りを、自ら地に貶める行為に他ならない」
「ですが父上、彼の力は本物でした! あの状況では、あれが最善の選択で……」
「黙りなさい!」
ゲオルグの怒声が、部屋に響き渡った。
「最善の選択、だと? 真の『剣聖』ならば、そのような状況に陥ること自体がありえん! 己の未熟さを棚に上げ、異端の力に頼るとは……。お前には、心底失望したぞ、フィオラ」
その言葉が、最後の引き金となった。
フィオラの心の中で、かろうじて保っていた何かが、ぷつりと切れた。
父は、自分を見ていない。自分の奮闘も、苦悩も、下した決断も、何一つ評価しようとしない。
父が見ているのは、常に、歴代の『剣聖』という名の、輝かしい亡霊だけだ。
その亡霊に比べて、今の自分は、どれほど至らないか。それを、ただ断罪しているだけ。
(わたくしは……どうすれば、よかったのですか……)
伝統を守れば、目の前の脅威に勝てない。
現実に適応すれば、伝統を汚したと罵られる。
どちらに進んでも、待っているのは袋小路。
フィオラは、唇を噛みしめ、ただうつむくことしかできなかった。その肩が、かすかに震えている。
「……下がれ。しばらく頭を冷やし、アストリア家の人間としての自覚を、改めて胸に刻むのだな」
父の冷たい声が、彼女に追い打ちをかける。
フィオラは、もはや何も答えられず、人形のように一礼すると、応接室を後にした。
その足取りは、まるで自分の体ではないかのように、重く、おぼつかなかった。
これが、絶望か。
生まれて初めて、彼女はその感情の、本当の意味を知った。
*
夜。
フィオラは、吸い寄せられるように、夜の訓練場へと足を運んでいた。
心の中は、ぐちゃぐちゃだった。
父の言葉が、ゼノの言葉が、頭の中で反響する。
『お前には、心底失望した』
『君は、ただ偉大な幽霊の足跡を、必死になぞっているだけだ』
(違う……断じて違う!)
その疑念を、振り払いたい一心だった。
自分の道が、正しいのだと、証明しなければならない。
そのためには、どうすればいい?
答えは、一つしかない。
あの男――ゼノを、完膚なきまでに叩き伏せる。彼の、歴史に基づかない、小手先の力を、我が『剣聖』の絶対的な力で、粉砕する。
そうすれば、きっと、この迷いは晴れるはずだ。
都合の良いことに、訓練場には、探している相手の姿があった。
だが、その姿を見て、フィオラの足は止まった。
彼は、剣を振るっているわけではなかった。魔法の訓練をしているわけでもない。
ただ、ひたすらに、地面に手をつき、汗だくになって腕立て伏せを繰り返していた。その後も、腹筋、背筋と、およそエリート校の生徒が行うとは思えない、地味で、原始的な肉体の鍛錬を続けていた。
それは、魂の力に頼らない、この一度きりの生における、「今」の肉体を鍛える、という明確な意志表示だった。
その姿が、フィオラの信じる「強さ」の概念と、あまりにもかけ離れていた。
「……ゼノ!」
それでも、彼女は声を張り上げた。迷いを断ち切るように、腰の剣を抜き放つ。
「あなたに、決闘を申し込みます!」
月明かりの下、ゼノはゆっくりと体を起こし、彼女の方を振り返った。その顔には、驚きも、警戒もなかった。ただ、静かに彼女を見つめている。
フィオラは、剣を構えた。
だが、その切っ先が、震えていた。
いつもなら、岩のように動かないはずの腕が、言うことを聞かない。
目の前の少年を、敵として見ることができない。
彼を斬ったところで、何になる? この心の絶望が、晴れることなどありはしない。
彼もまた、自分と同じように、この理不尽な世界で、自分だけの檻の中でもがいている、ただ一人の人間に過ぎないのだから。
(……ああ、わたくしは)
彼女は、気づいてしまった。
自分は、もう、以前の自分には戻れないのだと。
信じてきた道が、絶対ではないと知ってしまった。
かといって、新たな道など、どこにも見えない。
カラン、と乾いた音がした。
フィオラの、力の抜けた手から、愛剣が滑り落ちた。
アストリア家の誇り。
『剣聖の魂』の象徴。
その剣が、彼女の足元で、虚しく転がっている。
彼女は、その場に、ゆっくりと膝から崩れ落ちた。
涙は、出なかった。
ただ、どうしようもない無力感と、暗闇の中に一人取り残されたような、深い、深い絶望が、彼女の全身を支配していた。
もう、何が正しいのか分からない。
自分が、誰なのかも分からない。
プライドの高い『剣聖姫』は、もうどこにもいなかった。
月明かりの訓練場に、ただ、自分の道を見失った、一人の十七歳の少女が、静かにうずくまっているだけだった。
ゼノは、何も言わず、その光景を、ただ静かに見つめていた。




