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第11話:フィオラの絶望

魂狩りの襲撃が残した傷跡は、物理的なものだけではなかった。

フィオラ・フォン・アストリアの心には、誰にも癒すことのできない、深く、そして静かな亀裂が生まれていた。


自室の大きな姿見の前で、彼女は自分の姿を映していた。

背筋を伸ばし、顎を引けば、そこにいるのは誰もが羨む『剣聖姫』フィオラだ。代々受け継がれてきた、美しく気高い魂の器。

だが、今の彼女には、その姿が空虚な張りぼてのようにしか見えなかった。


(わたくしの剣は……)


脳裏で、あの日の戦いが何度も再生される。

魂狩りの異質な術を前に、多くの生徒が為すすべもなく魂を蝕まれていった。自分もまた、魂の力で抵抗はしたものの、その戦いは常に後手に回り、消耗を強いられる苦しいものだった。

それに比べて、あの男は――ゼノは、どうだったか。


魂への攻撃を、まるで意に介さず、ただ前だけを見据えていた。

その戦い方は、泥臭く、洗練とは程遠い。だが、絶望的な状況を覆したのは、紛れもなく彼の、歴史を持たない、たった一度の生に裏打ちされた力だった。


(『剣聖の魂』は、絶対ではなかった……)


その事実が、鉛のように重く彼女の心にのしかかる。

彼女が今まで信じてきたもの。積み上げてきた努力。その全てが、音を立てて崩れていくような感覚。

父に教え込まれた、アストリア家の誇り。魂の歴史こそが、絶対的な力の証明であるという、世界の理。

その全てが、たった一人の『ブランク』の存在によって、揺らいでしまっている。

これは、彼女にとって、敗北よりも受け入れがたい、価値観の死だった。


コンコン、と控えめなノックの音。

「お嬢様、公爵様がお見えです。応接室にてお待ちでございます」

「……父上が?」

フィオラは、動揺を完璧に隠し、平静を装って答えた。

「すぐに参ります」

だが、その胸中は、嵐が吹き荒れる海のように荒れていた。一番会いたくない人物が、一番聞きたくない言葉を告げにきたに違いなかった。



重厚な調度品が並ぶ応接室の空気は、氷のように冷え切っていた。

ソファに深く腰掛けた父、ゲオルグ・フォン・アストリアは、娘の顔を一瞥すると、労いの言葉もなく、本題を切り出した 。



「フィオラ。先日の一件、報告書を読んだ」

その声には、何の感情も含まれていない。

「……はい」

「単刀直入に聞こう。なぜ、あの『ブランク』と共闘した?」

それは、尋問だった。

「状況が、それを必要としていました。彼の特異体質がなければ、被害はさらに拡大していたかと」

「言い訳は聞きたくない」

ゲオルグは、娘の言葉を冷たく遮った 。



「アストリア家の人間が、ましてや『剣聖の魂』を継ぐ者が、素性の知れぬ、魂の歴史を持たぬ者と肩を並べるなど、あってはならんことだ。それは、我々が何代にもわたって守り抜いてきた誇りを、自ら地に貶める行為に他ならない」


「ですが父上、彼の力は本物でした! あの状況では、あれが最善の選択で……」

「黙りなさい!」

ゲオルグの怒声が、部屋に響き渡った。

「最善の選択、だと? 真の『剣聖』ならば、そのような状況に陥ること自体がありえん! 己の未熟さを棚に上げ、異端の力に頼るとは……。お前には、心底失望したぞ、フィオラ」


その言葉が、最後の引き金となった。

フィオラの心の中で、かろうじて保っていた何かが、ぷつりと切れた。

父は、自分を見ていない。自分の奮闘も、苦悩も、下した決断も、何一つ評価しようとしない。

父が見ているのは、常に、歴代の『剣聖』という名の、輝かしい亡霊だけだ。

その亡霊に比べて、今の自分は、どれほど至らないか。それを、ただ断罪しているだけ。


(わたくしは……どうすれば、よかったのですか……)

伝統を守れば、目の前の脅威に勝てない。

現実に適応すれば、伝統を汚したと罵られる。

どちらに進んでも、待っているのは袋小路。

フィオラは、唇を噛みしめ、ただうつむくことしかできなかった。その肩が、かすかに震えている。


「……下がれ。しばらく頭を冷やし、アストリア家の人間としての自覚を、改めて胸に刻むのだな」

父の冷たい声が、彼女に追い打ちをかける。

フィオラは、もはや何も答えられず、人形のように一礼すると、応接室を後にした。

その足取りは、まるで自分の体ではないかのように、重く、おぼつかなかった。

これが、絶望か。

生まれて初めて、彼女はその感情の、本当の意味を知った。



夜。

フィオラは、吸い寄せられるように、夜の訓練場へと足を運んでいた。

心の中は、ぐちゃぐちゃだった。

父の言葉が、ゼノの言葉が、頭の中で反響する。

『お前には、心底失望した』

『君は、ただ偉大な幽霊の足跡を、必死になぞっているだけだ』


(違う……断じて違う!)

その疑念を、振り払いたい一心だった。

自分の道が、正しいのだと、証明しなければならない。

そのためには、どうすればいい?

答えは、一つしかない。

あの男――ゼノを、完膚なきまでに叩き伏せる。彼の、歴史に基づかない、小手先の力を、我が『剣聖』の絶対的な力で、粉砕する。

そうすれば、きっと、この迷いは晴れるはずだ。


都合の良いことに、訓練場には、探している相手の姿があった。

だが、その姿を見て、フィオラの足は止まった。

彼は、剣を振るっているわけではなかった。魔法の訓練をしているわけでもない。

ただ、ひたすらに、地面に手をつき、汗だくになって腕立て伏せを繰り返していた。その後も、腹筋、背筋と、およそエリート校の生徒が行うとは思えない、地味で、原始的な肉体の鍛錬を続けていた。


それは、魂の力に頼らない、この一度きりの生における、「今」の肉体を鍛える、という明確な意志表示だった。

その姿が、フィオラの信じる「強さ」の概念と、あまりにもかけ離れていた。


「……ゼノ!」

それでも、彼女は声を張り上げた。迷いを断ち切るように、腰の剣を抜き放つ。

「あなたに、決闘を申し込みます!」


月明かりの下、ゼノはゆっくりと体を起こし、彼女の方を振り返った。その顔には、驚きも、警戒もなかった。ただ、静かに彼女を見つめている。

フィオラは、剣を構えた。

だが、その切っ先が、震えていた。

いつもなら、岩のように動かないはずの腕が、言うことを聞かない。

目の前の少年を、敵として見ることができない。

彼を斬ったところで、何になる? この心の絶望が、晴れることなどありはしない。

彼もまた、自分と同じように、この理不尽な世界で、自分だけの檻の中でもがいている、ただ一人の人間に過ぎないのだから。


(……ああ、わたくしは)

彼女は、気づいてしまった。

自分は、もう、以前の自分には戻れないのだと。

信じてきた道が、絶対ではないと知ってしまった。

かといって、新たな道など、どこにも見えない。


カラン、と乾いた音がした。

フィオラの、力の抜けた手から、愛剣が滑り落ちた。

アストリア家の誇り。

『剣聖の魂』の象徴。

その剣が、彼女の足元で、虚しく転がっている。


彼女は、その場に、ゆっくりと膝から崩れ落ちた。

涙は、出なかった。

ただ、どうしようもない無力感と、暗闇の中に一人取り残されたような、深い、深い絶望が、彼女の全身を支配していた。

もう、何が正しいのか分からない。

自分が、誰なのかも分からない。


プライドの高い『剣聖姫』は、もうどこにもいなかった。

月明かりの訓練場に、ただ、自分の道を見失った、一人の十七歳の少女が、静かにうずくまっているだけだった。

ゼノは、何も言わず、その光景を、ただ静かに見つめていた。

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