親切で神聖な、片想い
部活を終え、いつも通り帰路に就く。
タバコ屋のポストの所でトシヤと別れ、県道沿いを歩く。まだまだ日は短く、この時間になるともうすっかり夜の暗さになっている。視界の隅に絶えず流れる車のライトが鬱陶しい。
コンビニで肉まんでも買おうかと思ったが、店の中に野球部の奴らがいるのが見えたので、そのまま通り過ぎた。嫌いという訳ではない。みんないい奴なんだけど、ただなんとなく疲れそうな気がしたのだ。
彼らに気が付かないふりをして、僕は歩道橋の階段に足をかけた。
道路を上から眺めるのが好きだ。自分がいろんなものと無関係になったような気がして、なんだか安心するような気持ちになる。独りぼっちが嫌になったら、階段を下りてまた騒がしい世界へ帰れば良い。束の間の特別感が味わえる歩道橋を、僕は気に入っていた。
行き交う車を見下ろしながら歩道を進んでいると、ちょうど真ん中あたりの欄干の上に、何かが置かれているのに気付いた。近づいて見てみると、それは赤い包装紙でラッピングされた、小さな箱だった。厚さはそれほどなく、ちょうど長財布と同じくらいのサイズだ。丁寧にリボンまで付いている。
僕にはそれの中身が何であるか、すぐに予想できた。
そして2月14日の今日、人知れず歩道橋に置き去りにされたこれが、ただの忘れ物でないことも――。
周囲に人がいないことを確認した僕は、箱を手に取り、それをそっとカバンへ入れた。
玄関の扉を開けると昨日と同じおでんの匂いがして、気分が少し落ち込んだ。
僕はおでんがそこまで好きではなく、しらたきしか食べるものが無い。ごはんにも合わないから、それを2日続けて出されると、どうしてもがっかりしてしまう。
居間のほうへ「ただいま」と告げ、2階の自分の部屋へ向かった。
「はい、マコト。しらたきたっぷり」
食卓に着くと、母がそう言ってテーブルの上に僕の分のおでんを置いた。
先に帰っていた父と妹を加え、家族全員が揃ったところで夕食が始まる。
僕を除いた家族の皿には、おでんがバランスよく盛り付けられていた。みんな、どの具も大好きなのだそうだ。どれも出汁が染みていて美味しいらしい。僕は出汁がどうとか、そういうのは分からない。
「今日はどうだった?」
母が、学校のことについて聞いてきた。
「普通だったよ」
僕が答えると、ちょっと顔の赤い父が「普通が一番」と言ってグラスを傾けた。
夕食を終え、しばらく居間でテレビを見てから、僕は自分の部屋へ戻った。
歩道橋で拾ったあの箱がずっと頭の中にあった。
机の上に置き、改めてよく見てみる。
真っ赤な包装が、スタンドライトの下ではより鮮やかに映る。歩道橋では気が付かなかったが、隅にある小さなリボンの下にはハート型のシールが貼り付けられていた。赤色の中に溶けてしまいそうな、桃色のハートだ。
「お兄ちゃん、それチョコでしょ? 今年は貰えたんだ」
その声に振り返ると、風呂上がりの妹が半分開かれたドアからこちらを見ていた。
「勝手に開けるなって、何回も言ったよな」
変に慌てるのも良からぬ誤解を生んでしまうと思い、僕はそう言って妹を威圧する。
しかし妹は気に留める様子もなく部屋に侵入すると、箱を手に取って色んな角度から眺めるのだった。
「義理じゃないよね。誰から貰ったの」
「それは僕が貰った物じゃない」
「は?」
意表を突かれた妹から箱を取り返し、僕はそれをまた机の上に置いた。
「愛と優しさ、勇気や希望。そして諦めや悲しみとかが詰まっている」
「お兄ちゃんって高校に上がってからなんか気持ち悪くなったよね」
吐き捨てるように言った妹に、僕は自分を恥じた。
自らの言動や行いをではなく、この箱から感じる言い表せない感情を妹と共有しようとした己の判断力を恥じた。
「なんか漫画読みたいんだけど。あ、ベルセルク貸してよ」
本棚に手を伸ばした妹へ「それを読ませることは出来ない」と言い、代わりによつばとを持たせて部屋から追い出した。
静かになった部屋で、母が風呂へ入れと呼びに来るまで、僕は箱を眺め続けていた。
〇
「やっぱ、やめといた。いきなり渡したって困らせるだけだし」
昼休みのベランダで、僕はそれを聞いてしまった。
窓から教室の中を覗き見る。同じクラスのサノさんが友人とお昼を食べるところだった。
声は、彼女のもので間違いない。僕は目を閉じ、耳に意識を集中させた。
「置いてきちゃった。うん、帰りに」
騒がしい教室内から、僕は確かに聞き取った。
サノさんがあの箱について話しているという確証が欲しかった。だが会話は周囲の友人が彼女を慰めるターンに突入してしまう。せめて何か一つ、箱に関連することを喋ってくれたら――。
それでも可能性は低くはない。僕はサノさんが帰り道にあの歩道橋を通ることを知っている。それに、彼女が誰に想いを寄せているのかということも。今の会話を聞いたことで、あり得ないような推測にも信憑性が生まれたのだった。
「よお」
目を開けると、トシヤが2つ隣の教室からベランダ伝いにやって来たところだった。
昼はここで食べることになっており、今日もこいつは爽やかな見た目に反して厳めしい弁当箱を持っていた。
「立ったまま寝てたのか?」
「そうだよ」
からかうように聞いてきたトシヤに、僕は言った。
それを冗談として受け取ったのかは分からないが、トシヤは笑った。
なんであっても大体のことは笑い飛ばすような奴だ。
「あ、トシヤ君」
教室の中のサノさんが、トシヤにそう言った。きっと彼女はこいつが馬鹿でかい笑い声を上げる前からこちらに気付いていたはずだ。
「よお」
トシヤはサノさんに答えると、その場にどかっと座り込み弁当を広げた。
その隣に僕も腰を下ろし、昼食を食べ始める。
「サノさん、必ずお前に声かけるよな」
まるで何かと戦うように飯をかきこんでいるトシヤへ、僕は聞いてみた。
「そうだな」
トシヤはひと呼吸置いたついでに答えると、再び飯をかきこみ始めた。
〇
今日もコンビニに野球部の連中がいるのを見て、僕は寄り道をせずにそこを通過した。
歩道橋の階段を上ろうと足をかけた時、ふと見上げるとそこに誰かがいることに気が付いた。真ん中あたり、ちょうどあの箱が置いてあった場所だ。
『誰か』なんて表現をしたが、僕はそれがサノさんであることはすぐに分かった。
彼女は歩道橋の上に立ち、そこから動く様子はなかった。暗くてどんな表情をしているのかは分からない。だが、もし彼女が何か悩みを抱え、一瞬でもすべてを忘れてひとりになりたいと考えたなら、あの場所は最適だ。
僕は引き返し、コンビニへ向かった。
店内に入ると、こちらに気付いた野球部が僕を取り囲み、腹を小突いてきたり新作の一発ギャグを披露したりした。
〇
「よお」
今日もいつも通り、トシヤがベランダに姿を現した。
何がおかしいのか満面の笑みを浮かべて、背後には味方につけたように太陽が輝いている。こいつはいつだって素晴らしい世界にいて、そこで何一つ気負うことなく大胆に生きている。
「あ、トシヤ君」
「よお」
サノさんも教室からいつもの挨拶を済ませたところで、昼食は始まった。
「今日は暖かいな」
「そうだな」
相変わらずの勢いで飯をかきこむトシヤが、息継ぎをしながら答える。
僕は水筒のお茶を一口飲んだ。
「サノさんって、ちょっと可愛いよな」
そう言うと、トシヤは珍しく手を止め、口の中いっぱいの飯を咀嚼しながら何やら考え込んだ。やがてそれらを飲み込み、僕を見た。
「好きなの?」
「いや、別に。お前がどうなのかと思って」
「俺も、別に」
そうして何事もなかったように、トシヤは再び弁当へ向かう。
実際、何かがあったわけではない。
素晴らしい世界は、そのまま素晴らしく続いていくだけなのだ。
〇
「お兄ちゃん、ベルセルク13巻だけ無いんだけど」
怒った妹がノックもせず僕の部屋のドアを開けた。
勝手に本棚を漁っておきながら図々しい奴だと思ったが、小賢しくも一冊ずつ拝借していることはこっちも知っていた。だから先手を打っておいたのだ。お前の求める物は机の一番上、鍵付きの引き出しの中にある。
こんなことをするのもお前のためだと、いつか気付いてくれるだろうか。
「それ、食べないの」
妹が机の上の箱を見て、そう言った。
「僕のじゃないからね」
「誰かから盗んだの?」
「拾ったんだ」
「よく分んないけど捨てなよ、そんなの」
「それはできない」
そんなこと、出来ない。
これは捨てちゃいけない。絶対に食べてもいけない。
持ち主に返すことも、渡されるべき相手に届けることも出来ない。
「なんで拾ったんだろうね」
僕が言うと、妹は「知らねえよ」と吐き捨てて部屋を出ていった。
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