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ゴードンの危機を見て、ターニャはろくに後先も考えず、床を蹴って全力で羽ばたいていた。あまりにも早く羽ばたいたものだから、彼女の翅はハチのようにブーンと大きな音を鳴らした。そうして魔王の顔の前まで来ると、しつこいアブのようにぶんぶん飛び回った。
魔王は舌打ちをして、ひとまず眼前のうるさい羽虫を追い払おうと、剣を持つ手を大きく振った。ターニャはその風圧だけで吹き飛ばされそうになるが、それでも必死に飛び回り、魔王を目いっぱいいらだたせた。
不意に、魔王は凍り付いたように動かなくなった。少し遅れて、彼は真っ黒な血の塊をごぼりと音を立てて吐き出す。
ターニャは飛び回るのを止め、魔王から距離をとった。魔王の足元には、いつの間にか意識を取り戻したゴードンがいた。彼の手には、折れた魔王の角が握られていた。そして角の先端は、その持ち主の胸に深々と突き立てられていた。
魔王はよろよろと二、三歩あとずさった。胸から角が抜け、大きく開いた傷口から血が噴き出した。そうして、ついには仰向けにどうと床に倒れ、そのままピクリとも動かなくなった。
「ターニャ!」
ゴードンは魔王の角を投げ捨て、両手を広げてターニャを呼んだ。
ターニャは全速力で飛び、ゴードンの胸に抱きついた。
「ありがとう、ターニャ。君は本当に勇敢な妖精だね」
そう言ってゴードンは、ターニャを優しく抱きしめた。
「ゴードン、大丈夫なの。ケガは?」
ターニャが聞くと、ゴードンは指をさして示した。その先には女神官のマリエがいて、彼女は床に伏したまま弱々しい笑みを浮かべて見せた。神官の力で勇者の傷を癒し、彼に最後の一撃を放つ力を与えてくれたのだろう。
「さあ、みんなの具合もみよう」
ゴードンとターニャは、持ち合わせの薬で仲間たちを治療し、彼らはひとまず座って話せるまでに回復した。
決着の瞬間に意識を失っていたロランとミスター・ブラックは、ゴードンから事の顛末を聞き、ターニャこそ真の勇者だとほめそやした。そしてマリエは、ターニャがイルミナに遣わされた本当の理由は、まさにこのためだと断言した。ターニャとしては、大好きなゴードンを守りたい一心でやったことなので、そのように言われるのは、少しばかりくすぐったかった。
「ねえ、ゴードン。今こそ、聞くべき時だと思うの」
マリエが言った。
ゴードンは、まじまじとマリエを見つめてから、大きなため息をついた。そして、ターニャに真剣な眼差しを向ける。
「ターニャ、君に、聞きたいことがある」
「は、はい!」
ターニャはゴードンの前に正座した。
「こんなこと、聞いていいのかわからないけど、ぼくもみんなも、今までずっと気になっていたんだ」
なんだろう。これまで仲間たちに隠し事をしてきたつもりはない。それでも何か、語り足りないことがあったのだろうか。もちろん、ゴードンへの恋心だけは、誰にも明かすことはなかったが、まさかそれを気取られていたとでも言うのか?
「パンツ、はいてる?」
勇者は聞いた。
ターニャは、ほんの数瞬、その言葉の意味を理解できなかった。しかし、意味が分かると無性に腹が立ってきた。なんだって、そんなことを聞くのか。今、この時に?
「それは、我も気になった」
魔王がむくりと起き上がって言った。
仲間たちは武器を取り立ち上がった。
「まだ生きていたのか、魔王!」
ゴードンは魔王に剣を突きつけ叫ぶ。
「我は魔王ぞ。この程度の傷で、我が命を絶てるなどと思わぬことだ」
魔王はくつくつと喉を鳴らして笑う。
「しかし、敗北は認めよう。もはや、お前たちと争うつもりはない。それよりも、妖精!」
魔王は巨大な指でターニャを指さした。
「我が眼前をあれほど飛び回ったというのに、まったく下着らしきものが見えなかった。きさま、実は何もはいていないのではないか?」
「そうなのよ!」
マリエは同意する。
「いつもゴードンの顔の横を飛んで、私たちにはずっとお尻を向けてるのに、なぜかちらりとも見えないんだもの。だから、ずっと気になってたの」
「だったら、自分で聞けばいいじゃないか」
ゴードンは顔を赤くして言う。
「私、勇者じゃないから、そんな勇気ないわ」
マリエは悪びれた様子もなく言う。
確かに、聞きにくいことを聞くのは勇気が必要である。とは言え、ターニャのパンツは、そこまでして聞き出さなければいけないことなのか。勇気のムダ遣いではないか。
「変なこと聞いてごめん」
ゴードンは謝った。変なことであると言う自覚はあったらしい。
「でも、もしはいてないんだとしたら、そのうち困ったことになると思うんだ」
「然り」
と、魔王。
「我を降すと言う手柄を得たのだから、きさまらは今後、多くの人間たちの目に触れることだろう。その時、勇者の仲間が下着もはかずに裾丈の短い服で人々の目線の辺りをちょろちょろ飛び回っていたとなれば、あらぬ誤解を受けぬとも限らぬ。我も、妖精にみだらな格好をさせて喜ぶ輩に倒された魔王などと言われるのは、正直、気に食わぬ」
みだらとは、あんまりな言いようだ。
「もしはいてないんだとしたら、僕が何か用意するよ。これでも、裁縫は得意なんだ。だから、教えてくれるかな?」
と、ゴードン。
仲間と魔王は、ターニャの答えを待っていた。
はいているのか、いないのか。
百年の恋も冷める――とは言わない。こんな、ばかげた事態になっていても、ターニャのゴードンへの思いは、一片も変わらなかった。しかし、妖精のパンツを縫う勇者はちょっとイヤだ。
ターニャは、大きなため息をひとつこぼした。それからみんなをきっとにらみ、言った。
「秘密です!」