6.ばきばきと(完)
思わず、あー……と、納得の声が零れてしまう。
リシューは、暗く、重々しい声で続けた。
「婚約破棄? 追放? 昨夜の私はなんて愚かなことを考えていたのだろうと思った。右腕を失った君の姿を見たことで、冷静な判断ができなくなっていたんだろうが ─── 、それにしても信じられないほどに馬鹿げていた。私が君を裏切ろうと、切り捨てようと、君が、その程度のことで剣を置くはずがない。追放しようと、辺境の地へ追いやろうと、君は、君のまま、騎士として戦い続けるだろう。そして、そこに私の治癒術は及ばない。つまり、君は早々に死ぬ」
「そんなに断言しなくても……」
「反論の余地があるとでも?」
「リシュー、顔が怖いよ。美形が凄むと迫力があるね。ちょっと怖いからその顔はやめてほしい」
この世のものとは思えないほどの美形に凄まれたわたしは、早々に白旗を上げた。
リシューは軽く息を吐き出して、表情を和らげると、案じるような眼差しでわたしを見た。
「これが、婚約破棄をいい出さなかった理由だ。自分の愚かさを悟ったからだよ。……ほかに、聞きたいことはあるかい? なんでもいってくれ。質問でなくてもいいよ。この日記には、私の身勝手さが詰まっている。君が、私に腹を立てることも、失望することも、当たり前のことだ。どうか、我慢することなく、吐き出してほしい」
わたしは、大きく首をひねった。
身勝手。身勝手なんだろうか、これは。
わたしを心配してくれて、愛してくれて、生きてほしいと願ってくれることが、身勝手?
わたしは、黒革の書物を、指先でそっとなぞった。
「リシュー、わたしはね、この日記を読み始めたときに、思ったんだよ。やっぱりあなたは、わたしのワガガマに嫌気がさしたことがあったんだろうなあって。それはそうだよなあって」
「……わがまま? 君が?」
不可解な言葉を耳にしたような顔をする彼に、わたしは大きく頷いた。
「だって、わたし、昔から、やりたいようにやってきたじゃない? 騎士になることが夢で、そこにまっしぐらで、好き放題やってきたわけだよ。リシューはそんなわたしをずっと支えてきてくれて、いつも助けてくれていた。治癒術師としてだけじゃないよ。リシューの優しさとか、心配りとか、そういうものに、たくさん助けられてきた」
「アリー……」
リシューが、呆然とした顔でわたしを見る。
わたしは、気まずさを誤魔化すように、無意味に首に手をやった。
「だから……、リシューが、わたしの女王様っぷりにはもうついていけないと思っても、それは仕方のないことだよなあって」
「待ってくれ、君、自分の認識では女王様だったのか?」
「いいんだよ、リシュー。はっきりいってくれていい。自分でもわかっているからね。わたし、相当なワガママ暴君女王様だったよね」
「そんな……、実像とかけ離れすぎている……」
リシューが、なぜか悲しみの目を向けてきた。
いやいや、リシューの認識のほうがズレているでしょう。買い被りすぎだからね、妻のことを。可愛いとか、美しいとか、書きすぎだから。読んでいて耳まで熱くなりそうだったもの。長年の付き合いで、贔屓目があるにしたって、あまりにも目が曇っているのでは? と心配にもなったからね。
「わたし、リシューの頼みをあんまり聞かなかったでしょ。そのくせ、自分の望みは押し通した。騎士団も作ってもらったしね」
「それは必要だったからだろう。君の決断は常に、人々を守るためにあった。我欲を通したことなどなかった」
「えっ、あったよ。そもそも、ガルドルスの砦にリシューが行くことになったときだって、絶対一緒に行くっていい張って、無理やりついていったんだもの。リシューには黙っていたけど、実はあれは、王命じゃなかったんだよ。単なるわたしのワガママです」
「 ─── は? いや、それは、王命だと思ったことは、一度もなかったが……」
「一度も!? ……日記を見て、もしかしてバレていたのかなとは思ったけど、いったいいつ気がついたの……? 師匠にしかいわなかったのに。あっ、師匠が口を滑らせた!? あの人、酒が入ると口が軽くなるからなあ、もう!」
「アリー、ちがう、そうではなくて、ルドヴィク老からは何もうかがっていない。濡れ衣を着せては悪いよ」
普通に考えたら、王命でないことはわかる、と、リシューは真面目な顔でいった。
なんてことだ。わたしの長年の秘密だったのに。
わたしは衝撃を受けながらも、とにかく、と、強引に話を戻した。
「だからね。この日記を盗み読みしながら思ったことは、『わたしのワガママへの不満が書かれていると思ったのに、どんどん予想外の方向に……!?』ということでね」
「君のその想像のほうが予想外なんだが」
「読みながら、これからはもう少しリシューに心配かけないようにしようって、ちょっぴり思ったよ」
「そこはもっとたくさん思ってほしい。頼む、思ってくれ」
「それで、その、読み終わっての感想としてはね……」
わたしは、黒革の書物を、両手で、盾のように、顔の前まで持ちあげた。
これから口にする言葉が、さすがに少し、恥ずかしかったからだ。
「感想としては、わたし、リシューにすごく愛されているなぁって、思いました……」
リシューからの反応はなかった。
頬の熱に耐えながら待っても、彼はなにもいってくれない。
わたしは、そろりそろりと日記を下げて、リシューを見る。
彼は、呆然としたような顔をしていた。
薄青色の瞳が、信じられないというように、わたしを見る。
「……アリー、本当に、読んだのか?」
「読んだよ?」
「私が、どれほど身勝手な男なのかを、本当に読んだのか? 私は、君を愛しているといいながら、自分のことしか考えず、自分が苦しみたくないからと、君を裏切ろうとした男だと……っ」
「裏切ってないでしょ」
ぱちりと瞬いた薄青色の瞳に、わたしは笑って、きっぱりといいきった。
「リシューは一度もわたしを裏切らなかった。こんなに苦しんでいたのに、ずっとわたしを愛してくれた。今もね。わたしが知っているのは、あなたがわたしを愛しているってことだけだよ」
リシューは息をのみ、それから、ゆるりとかぶりを振った。
「それでも、いつかは、我が身可愛さに、君を裏切るかもしれないんだぞ……! 君の意志を踏みにじって、自由を奪い、無理やり剣を捨てさせようとするかもしれない……!」
「あり得ないと思うけど……。まあ、万が一、そうなったときは、あれだね」
わたしは、日記を膝の上に置くと、ばきばきと指を鳴らした。
それから、不敵に微笑んだ。
「そのときは、戦って決めようか、リシュー」
─── 戦って駄目なら、そのときはそのときというものだよ。
そう続けると、夫がウッと呻いて両手で顔を覆ってしまった。
「君は本当にそういうところが……! そういうところが……!!」
ちなみに、この『いざとなったら戦って決めよう』という案は、昔、ラスローの皇帝にもいったことがある。あの権力と財力と武力だけは腐るほど持っている男が、何度断っても、リシューを引き抜こうとしつこかったので、剣に手をかけながら脅すように告げたのだ。皇帝は耳を疑う顔をしてわたしを見て「蛮族か、そなた?」と呟いていた。
失礼な皇帝だ。わたしだってちゃんと、相手を見ていっているのに。
「剣での勝負なら、リシューにも勝てる自信があるからね」
「……アリー。いかに剣の腕で勝ろうとも、私と戦うことは、不死者を敵に回すも同然だ。終わりのない消耗戦だぞ。私が膝をつくより先に、君の体力が底をつく」
「へえ……、いうね、リシュー。じゃあ、さっそく試してみる?」
「嫌だよ。どうして君と戦わなくちゃいけないんだ。私は君を守りたいだけなのに」
「よし。勝者には賞品としてこの日記が贈呈されます」
「私の話を聞いてくれないか、アリー!?」
そしてそれを返してくれと、リシューが手を伸ばしてくるのを、わたしはひょいと交わした。
これ見よがしに日記をかざして、にんまりと笑ってみせる。
「この日記が欲しいな、リシュー?」
いつもは出さないような、わたしのとっておきの『可愛らしい声』で囁いてあげる。
リシューは、これが悪夢かどうかを疑うような顔をした。
「 ─── なんだって?」
「この日記、あなたの可愛い愛妻にちょうだい?」
「君はやはり怒っているのか? これは報復なのか? いっそ、そうだといってほしい」
「ふふ、わたしにべた惚れの夫からの恋文として、寝室に飾りたい」
「さては君、面白がっているな……!?」
最悪だと、リシューが呻く。
そして、しばらく苦々しい顔で、じっとりとわたしを睨みつけた末に、ふと、彼は、息を吐き出した。
「まったく……。君というひとは、いつも、私の心のよどみを、風のように吹き払ってしまうな」
そう、リシューが、柔らかく微笑む。
温かな午後の陽射しの中で、薄青色の瞳は、普段の神々しさすら拭い去っていた。
若く美しい賢王でも、偉大なる白き救いの御手の王でもなく、幼い頃からよく知っている、ただのリシューがそこにいる。
わたしは、日記を置くと、得意げな顔でいってやった。
「わたしは昔から、暴れるこいぬだったらしいからね? こいぬが駆け回った後は、よどみだって飛び散って消えてしまうでしょうよ」
「あー……、その、アリー? 私は、こいぬのような君も、この世のなによりも得難く、美しく、愛らしいと思っているよ」
「まずこいぬから離れよう」
「わかった」
リシューが、素直に頷いた。
それから、彼は、日記の上に置いてあったわたしの手に、自分の手を重ねてきた。
「リシュー?」
「愛している、アリー」
まっすぐにそういわれて、わたしの身体が小さく跳ねた。
「どっ、どうしたの、突然?」
「君は本当に、この日記が欲しいのかい?」
「リシュー、待って、近い、ちょっと、あっ、そうやって、色仕掛けで日記を奪い返す気でしょ!?」
「まさか」
リシューは、その神秘的なほどに美しい面立ちで、くすりと笑ってみせた。
そして、わたしの手を握りしめたまま、そっと顔を寄せてくる。
情熱的で、仄暗さすら含んだ薄青色の瞳が、間近にあった。美しくて愛情深い、その眼差しに絡めとられたように、わたしは動けなくなってしまう。
「アリー。私の美しいひと。この日記に愛があると、君がいってくれるのなら、きっとそれが正しいのだろう」
だけどね、と、リシューは甘く囁いた。
「私のこの身体のほうが、よほど、君への愛が詰まっているよ。私は君のものだ。永遠にね」
─── だから、どうか、そんなものより、私を欲しがってくれないか?
囁く声は、ぞくりと震えてしまうほどに、甘やかだった。
わたしは、リシューの美しい笑みに抗えず、日記を返した。
うう、本気でほしかったわけじゃないけど、くやしい。
「でも、わたしは諦めない。いつか必ず、あの日記を手に入れてみせる……!」
「悲しいな。あんなものより、私のほうがいいといってくれないのかい、アリー? 私はいつだって、君に求められたいのに」
「昼間から色仕掛けはやめてほしいな!」
完結です。ここまでお付き合いくださってありがとうございました。
ちなみにサブタイトルは、横も縦もヒロインの独白のかけらのようなものです。