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5.撤退せず


最初の一行目、その書き出しの文字を見た瞬間に、これはリシューが書いたものだとわかった。

幼い頃からの婚約者であり、現在の夫の書く字だ。わからないはずがない。

ついでに、わたしが、彼の書棚から、目当ての本と間違えて持ってきてしまったのだということも悟っていた。

だから、本当なら、わたしはそこで、この黒革の書物を閉じるべきだったのだろう。潔く撤退すべきだったのだ。


─── だけど、でも、始まりの一文がこれだよ?


『アーマリナ。私の長年の婚約者よ。明日、君に、婚約破棄をいい渡そう』


夫の日記にこう書かれているのを見て、本を閉じられる妻はなかなかいないと思う。


わたしも、自分が婚約破棄されかけていたという衝撃の事実を前にして、本を閉じることができなかったのだ。つい、読み進めてしまった。





「ごめんね、わたしが婚約を破棄されるところまで読んだら、やめようと思っていたんだけど」


なかなか破棄にたどり着かなくて……と続けると、リシューが額に青筋を立てて叫んだ。


「していないだろう、婚約破棄! 私たちは今、結婚しているだろう!?」

「でも、しようと思ったことはあったんでしょ?」


リシューがうっと呻いて胸を抑えたので、わたしは慌てて「責めているわけじゃないよ」と付け加えた。

それから、落ち着いて話をしようと、彼をソファへ誘う。

王妃のために誂えられた深緑色のソファは、二人で座っても十分な幅の広さと弾力性があった。

温かな午後の陽射しの中で、リシューと二人きり、窓辺に座る。のんびりとお茶を飲むには絶好の機会だろう。

そう、隣でリシューが、頭を抱えて呻いていなければ。





リシューことリュシアン・ディロードは、吟遊詩人たちがこぞって称えても、なお、言葉が追い付かないほどの神がかった美貌の夫である。

比類なき大魔術師でもあり、戦争中には、兵士たちから『死なせずの王』と畏敬を込めて呼ばれていた。あの方の手にかかれば、たとえ死なせてくれと願ったところで死ねやしないと、兵士たちは酒場で笑いあっていたものだ。


ついでに、よく、


「あの方が団長の婚約者だってことが一番信じられない」


「あんな繊細そうな方が、この大雑把すぎる団長によく耐えてらっしゃる」


「団長、あんま無茶すんのやめましょ? 王が心痛で倒れちゃったらどうすんですか」


「そーよ。たまには王の隣でじっとしていてあげなさいよ。あの神々しい美貌を間近で拝めるんだから、見惚れている間に日が暮れるでしょ」


「むりむり。ルドヴィク様が仰っていただろ。団長のことは、暴れるこいぬだと思えってな」


「いい加減、成犬になってほしい」


「まったくだ。我が主が心労で倒れたら、原因はまちがいなく団長だぞ。せめて落ち着きのある成犬になってくれよ、あんたは」


などといわれていた。懐かしくも忌まわしい思い出だ。

……うん、後で何人かはシメよう。思い出しシメ。キュッとね。



とにかく、リシューは、平和になった今では、白き救いの御手の王と、英雄譚に謳われるほどの素晴らしい人物なのだ。

戦争中はともかく、平和を勝ち取った後など、リシューのモテっぷりは凄まじかった。どこへ行っても人垣ができて、どこへ行っても大勢に取り囲まれていた。

まるで飢えた獣の群れに放り投げられた生肉のよう……と呟いたら、師匠に「お前、自分の恋人を生肉呼ばわりするんじゃねえよ」と軽く頭をはたかれたけれど。


リシューは、闇の軍勢を退けた後、祖国ディロードに戻って王位を継いだ。

そのときに、わたしとも正式に結婚した。

ちなみに、当然ながら、わたしを王妃にすることに対して、反対の声はあった。


長年の婚約者とはいえ、第七王子の妻ならともかく、王妃としてはふさわしくない。家柄も、教養も、何もかも足りていない。王妃とは、剣を振るしか能のない女に務まるものではないのだ ─── そんな声は多かっただろう。たぶん、多かったはずだ。多かったんじゃないかな……?


わたしの耳に入る前に、リシューが、武力外による制圧じみた真似をしていたので、ほとんど聞こえてこなかったのだけど。


いっておくけれど、わたしはしっかりと戦闘態勢に入っていたのだ。


リシューがこれほど魅力的な生肉になってしまった以上、飢えたケダモノたちは大勢群がってくるにちがいない。誰が来ようと、わたしは決して負けるものか。剣を使わない戦いであっても、戦場は戦場だ。騎士が背中を見せることは断じてない ─── ! と、思っていたのだけど、リシューが根回しだとか、威圧だとか、あからさまなノロケだとかを、さんざんやってみせた結果、わたしはつつがなく彼と結婚して、気づいたら王妃になっていた。


最後まで、わたしが戦う場面は来なかった。

わたしは無駄に戦闘態勢(ファイティングポーズ)を取っただけで終わった。


ちなみに、この顛末を、それはそうだろうと大笑いしたのは、この大陸でもっとも強大な帝国であるラスローの皇帝だった。


黒髪に黒目の皇帝は、闇の軍勢に対抗するための同盟者であり、戦争中はそれなりに親しくしていたのだけど、彼はリシューの類稀なる治癒術を気に入って、なにかにつけて自分の配下に引き抜こうとするのが厄介だった。

皇帝は偉大な炎の魔術師だったけれど、攻撃特化型だったので、リシューの力が喉から手が出るほど欲しかったらしい。

一国の王太子相手に引き抜き交渉するとか、どういう神経をしているんです? と聞いたことがあったけれど、皇帝は「そなたにだけはいわれたくないわ」と鼻で笑った。


「リュシアンには野心がない。あやつが玉座を継ぐのは、仕方なくだろう? だが、王家の血を引く者など、探せばいくらでもおろうよ。苦労するとわかっていて、国に留まる必要があるか? 余の下へ来るがいい。そこらの王族よりもはるかに豪奢な暮らしをさせてやるぞ。リュシアンだけではない。そなたの待遇も保証しよう、アーマリナ。余の名にかけて誓うとも」


「いやわたしの待遇はどうでもいいんですけどね。話をそらさないでくださいよ」


「そらしてなどおらぬわ。この交渉においては、そなたの待遇が最も重要であろうよ、アーマリナ。リュシアンに野心はないが、そなたとのささやかでつつましやかな幸福を守るためなら、いくらでも冷酷になれる男だぞ、あれは」





そんな話をしたこともあったなあ……と、現実逃避のように思い出しながら、ちらりと隣の彼を窺う。

リシューは、死にそうな顔をしていた。やはり勝手に日記を読んだのはよくなかった。それはそうだ。五歳児でもわかる理屈だ。

わたしは、彼の機嫌を窺うように、えへへと曖昧に笑って、黒革の書物を広げた。


「このページまでしか読んでないから、安心してほしい」

「最後まで読んでいるじゃないか……っ!!」


リシューがいっそう青ざめた顔になった。逆効果だったらしい。

というか、これが最後だったのか。わたしは、先ほどはめくり終えなかったページを、ひょいとめくってみたけれど、確かにそこは白紙だった。ぱらぱらと、その先を見ても、何も書かれていない。

リシューは、いつも以上に低い声で、ぽつりと呟いた。


「……それは、私が、自分自身への戒めとして持っていた、昔の日記で」

「うん」

「確かに厳重にしまい込んではいなかったが、機密事項が書いてあるわけではないし、そもそも国王の書棚から取り出せる人間は、ごく限られているから、まあ、油断していたんだが」

「まあまあ、人間、だれしも、ウッカリ間違えることはあるさ! 師匠もよくそういっていたもの!」

「まさか君が持っていくなんて……! 今だけは君のその大雑把さが憎い……!」


今だけという辺り、リシューは心が広い。

わたし以上に大雑把な師匠のルドヴィクは、頻繁に、癒しの巫女様に凍り付くような眼で睨まれていたし、ときどき、治癒に見せかけて指を六本にされていた。

わたしは、そろそろと、上目遣いに彼をうかがった。


「聞いてもいい、リシュー?」

「ああ」


リシューは、深く息を吐き出すと、頭を抱えるのをやめた。そして、身体ごとこちらに向き直る。


その薄青色の瞳は、夜明け前の空のように神秘的で美しい。世界には、さまざまな種類の美しさというものが存在するけれど、リシューのそれは、神々しく、自然と頭を下げたくなるような、畏敬の念を抱かせる美しさだった。


彼は、その人ならざる者のような美しい容貌を、切なそうにゆがめていった。


「なんでも聞いてくれ、アリー。私は、噓偽りなく答えると誓おう」

「なら、遠慮なく、聞いてしまうけど。……どうして、婚約を破棄しなかったの?」


この日記には、深い葛藤の末に、きっぱりと、破棄すると書いてあるのに。


右腕を失ったときのことなら、よく覚えている。リシューのほうが死んでしまいそうな顔をしていて、さすがにつらかった。だけど、わたしは、その後になにか、行動を改めるといったことはしなかった。それまでと同じように先陣を切ったし、突撃もしていった。だから、わからないのだ。いったい何が、彼の決断をひるがえさせたのだろう。


リシューは、苦悩するように、眉間に深い皺を刻んだ。


「君が右腕を失った ─── 、その日記を書いた、翌朝のことだ」

「うん」

「君は、いつも通りに、朝食の席へ来て、私を見て、『おはよう』と笑った」

「うん」

「あの瞬間に、駄目だと思った」

「うん?」

「私は、いつまでだって、君の笑顔を見ていたい。君が笑っていてくれるなら、私は何だってする。私が死ぬのはいい。世界が滅ぶのも仕方ないのかもしれない。だけど、君が死ぬことだけは受け入れられない。そして ─── 私が目を離したら、君は絶対に死ぬ」





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― 新着の感想 ―
[一言] 手記の中身が情緒をぎゅうぎゅう握り潰しそうだったのに、書き手が現れた途端、握り潰された情緒がシロップにドボンした。(ここまでだと、まだ沈んではいないけど、沈められそうな予感がします)
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