4.っ、びっくりした
『今回は、私は間に合った。
今回は、君の命は喪われなかった。
今回は。
私は君の足に縋りついて、懇願したな。
どうかもう、前線に立つのはやめてくれ。君にもしものことがあったら、私は無事ではいられない。私の術式はたちまちのうちに狂ってしまうだろう。今までのように、大勢の兵士たちを一呼吸の内に癒すことなどできなくなるだろう。私は君を救えなかった己を呪い、二度と治癒術を唱えなくなるだろう。
ほら、そうしたら、軍への損害は甚大だ。だから、頼む、お願いだ、アリー。
これが卑怯な物言いであることは、私とて重々承知している。それでも私は君に懇願しよう。どうか、この戦争が終わるまでは、その剣を置いてくれないか。私のために。私を愛してくれているなら。
情けなく、みっともなく、涙ながらに縋りつく私に、君は、少し困ったように微笑んだ。
それから、私の頬をそっと撫でて、涙を拭っていったな。
「心配をかけてごめんね。でも、大丈夫だよ。腕の一本、足の一本なくそうと、わたしは必ずあなたのもとへ帰ってくる。そうしたら、リシューが怪我を治してくれるでしょう? だから、大丈夫だよ。そんなに心配しないで。ちゃんと生きて帰ってくるから」
「嘘だ。騙されるものか。私がどれほど君を見てきたと思っている。君は、必要なら、死んでも構わないと考える人だ。己の命よりも、人々を守る剣であることを優先する人だ。君は、その誇り高く忌々しい騎士道精神で、いつか私を置いていくんだ」
「大丈夫だって。死なないように頑張るよ」
「努力で戦場がどうにかなるものか? 君の言葉を信じるに足る根拠がどこにある」
「まあ、まあ。それは、ほら、死んだら、そのときはそのときっていうか。うん、人間いつかは死ぬものだよ」
君は、あっけらかんとそういったな。
あのときの、私の心境を、率直に書いてやろう、アリー。
─── は?
─── なにをいっているんだ君は?
私は、君が憎い、アリー。
君のその騎士道精神が憎い。君のその揺らぎのなさが憎い。君のその輝きが憎い。
私がどれほど君を案じても、君はそ知らぬふりをするのだ。君はなんて残酷な人だ。本当は、私からの愛など、君にとっては何の価値もないにちがいない。
五年前、初めて魔物の大軍を前にしたときに、君が私の手を握って「好きだよ、リシュー」と囁いてくれたことを、「今のうちに、一度、ちゃんと、いっておきたくて」と微笑んでくれたことを、私は一生の宝として、胸の内に大切にしまっているけれど、君はちがうのだろう。君にとって愛とは大した価値はないのだろう。君にとって大切なのは、騎士であることだけなのだろう。ほかはすべて、捨ててしまえる程度のガラクタだ。そうなんだろう?
あぁ。
あぁ、そうだと思えたら、私はきっと楽だったのに。
私は卑怯者だ。私は最低だ。
君が今までどれほど私を支えてきてくれたことか。
そのすべてを無視して、君が私の望み通りにしてくれないからと、憎しみすら抱いているのだ。
君が、君という揺るぎない人であるから、無能な七番目の王子に嫌な顔一つせずに、友達になってくれたのだろう。
君が、気高い人であるから、辺境へ向かう婚約者に、ついてきてくれたのだろう。
君が、優しく、柔らかで、美しい心のひとであるから、今のすべてがあるのだ。
死なせずの王などという大層な名も、魔物の大軍と対峙しても負けることのない強大な治癒術も、すべて君がいてくれたからだ。君なくして今の戦況はない。君こそが世界を救った。
だというのに、私はここに来て、君が君であることを恨んでいる。呪っている。憎んでいる。私こそ救いようのない愚か者だ。気高い君には不釣り合いな俗物だ。本当に、君を愛しているのなら、君の生き方を尊重すべきだろう。本当に、君を愛しているのなら、君が戦死したとしても、名誉の死として、称える
できない
もう いい
私は君のことなど愛していない。君のことなどどうでもいいのだ。君のような残酷な人には、とうに愛想をつかした。いいや、最初から、君のことなどどうでもよかった。愛してなどいなかった。君には何の興味もない。君に心を動かされることはない。君の存在などどうでもいい。
だから明日、私は君に、婚約破棄をいい渡そう。そして、君を、軍から追放しよう。君はもう婚約者ではないのだから、私の傍近くにいられるのは不快だ。私の部下に、君を移送させよう。遠く、遠く、辺境の地にでも行くがいい。戦場を遠く離れて、二度と私の視界に入らないでくれ。私はもう、君に向ける情など、わずかにも残っていないのだから、アーマリナ。
さようなら。長年の婚約者だった人よ。私は君に、明日、婚約破棄をいい渡す。』
ぱらりと、乾いた音が、かすかに震えて響く。
そして、次のページが開かれようとしたその瞬間、勢いよく、扉の開く音がした。
見張りの衛士たちがいるこの部屋を、そんな風に開け放つことができる人間は、一人しかない。
その人物は、開かれた黒革の書物を見て、愕然とした顔で叫んだ。
「紺地の表紙といっただろう!? なぜ、それを持って行ったんだ!?」
「いっ、いやあ……、光の加減で紺色にも見えたから、これかなって……」
「君はどうしてそういうところだけ大雑把なんだ……!!!」
そう叫んで、膝から崩れ落ちた、この国の若き賢王、リュシアン・ディロードに、わたしは、誤魔化すように笑った。
「ご、ごめんね、リシュー? ちょっと読んじゃった……」